|
タイトロープ
【草間零の疑問】
最近、義兄さんの様子が、変なのです。
端から見てそうとわかるほど、いつも上機嫌です。毛嫌いしている怪奇な依頼主が現れても、にこにこした笑顔を崩すことはありません。
ふとした拍子に鼻歌を歌っていることもありますし、この前なんか、思い出し笑いでもしていたのか、一人で部屋の隅でにやけていたのです。
一応、義兄さんは、ハードボイルド路線を突っ走ろうとしている探偵なのだから、含み笑いは本気で止めて欲しいです。
それにしても……一体何があったのでしょう??
一方、シュラインさんの様子も、変です。
物凄い怖い顔つきで、義兄さんを睨んでいることが多々あります。苦虫を一万匹も噛み潰したような表情を隠そうともせず、ぶすっと日々の仕事をこなし続けています。
義兄さんが「おい」とかけた声に対し、「何よ!?」といきなり喧嘩腰に返事をしていたときなんか、本当にビックリしました。
だって、シュラインさんは、いつも、とても、冷静なんです。
冷淡ではなく、冷静。大きな人です。物事を客観的に見ながらも、決して、冷たかったり、突き放したりはありません。密かに、ちょっと見習いたいなーなんて思っていたのですが……。
あんなに落ち着きのないシュラインさん、初めて見ました。
不思議です。
とっても。
何があったのでしょう??
でも、聞いても、二人とも教えてくれません。
【空白の時間に】
「ふ……。程度も位置も指定しなかった事を後悔するがいいわ」
この上もなく不穏な微笑を漏らしつつ、シュラインが、狭い応接間を、見回す。
零の姿はない。草間に頼まれて、近所のスーパーに買い物に行ったのだ。最近とみに人間らしくなってきた義妹は、世の大抵の女性陣がそうであるように、買い物にも時間をかけるようになってきていた。少なくとも、一時間は帰ってこないだろう。
夕刻の薄暗い部屋に、草間武彦と二人きり。
この機会を逃したら、チャンスはいつ巡ってくるかわからない。
シュラインは、いよいよ覚悟を決めることにした。
厄介は、早めに終わらせてしまうに限る。ささやかな復讐方法も思いつき、少しばかり、機嫌を回復した事務員が、そこにいた。何も知らない草間武彦が、机に脚をのせた格好で、マルボロを吹かしている。
「武彦さん。あの約束、今果たすわ。そこにちゃんと座って」
うん?と片眉を動かして、草間が、吸い始めのマルボロを灰皿に押しつけた。にやりと、一瞬、笑った。
自分の勝利を確信した、小憎たらしい微笑だ。少し可哀相かしらと、微妙に仏心を起こしかけていたシュラインの中から、慈悲とか慈愛とか名の付くものが、瞬く間に消え失せた。
「目、瞑って」
カーテンを引く。ドアの鍵を閉める。ティッシュで口紅を拭き取った。
草間の傍らに歩み寄る。頬に触れた。同じ生き物なのに、男の人の肌は、やはり自分とはかなり違うな、と、奇妙に感心してしまう。顎の辺りに、髭の剃り残しを発見した。少しザラザラしたような感触も……悪くはない。
駄目駄目。仏心は、禁物。
シュラインは、手をこめかみの辺りまで移動した。左手で、草間の頭を抱え込む。右手で、額の前髪の生え際に触れた。
草間が、一瞬、不思議そうに眉をしかめる。
彼が何かを言う前に、シュラインは、彼の意外に量の多い前髪を掻き上げた。指先を滑るこの髪の感じは……好きかも知れない。
「武彦さん……」
十分な効果を確信した上で、男の耳元に、囁く。これで期待するなと言う方が、無理である。草間が、ここぞとばかりに、シュラインの背に腕を回した。
かぷ。
という擬音語では済みそうにないくらいの勢いで、次の瞬間、シュラインが、草間の前髪の生え際に、噛み付いた。
「………………!!!」
草間が、声にならない悲鳴を上げて、藻掻く。それを押さえ込むのは一苦労だったが、シュラインは何とか踏ん張った。椅子に座らせて、頭を抱え込んでいる姿勢が、何と言っても強い。人間、前屈みにならないと、椅子から立ち上がれないのは道理である。
綺麗に歯形が付いたところで、ようやく解放。たっぷりと一分間は噛み付いていたことだろう。草間が額を抑えて、悶絶している。それには欠片ほどの慈悲の目もくれず、シュラインは、先ほどとは打って変わって上機嫌に、カーテンを開けた。
「危険な賭には、要注意よ。武彦さん」
まだ悶絶中の草間武彦が、辛うじて言葉を絞り出す。唸り声に近くなっていたが、そんなもの、シュラインには、痛くも痒くもない。
「こ、こんなのありかよ!!」
「大ありよ。まさに自業自得じゃないの」
「約束が違うっ!!」
「場所も程度も指定がなかったもの。私の判断でキスさせて頂いただけよ?」
「お、お前なぁ〜!!!」
痛みではなく、今度は悔しさに悶絶しながらも、そういえば、コイツはこういう女だったなと、奇妙に納得する探偵。
一筋縄ではいかない女だからこそ、惚れたのだ。素直に殊勝に、わかったわ、と、頷いてくれるはずもなかった。
「騙された!!!」
「私の勝ちよ」
ふふふ、と、シュラインが、ただの鼻歌にしては随分と見事な音域の声を披露する。
玄関の鍵を開けに行ったとき、遠くに、ちょうど良い具合に、零の姿が見えた。
「タイミング、バッチリね」
【草間零の疑問再び】
不思議です。義兄さんとシュラインさん、私がいない間に、何かあったのでしょうか??
立場が全く逆転してしまっています。
シュラインさんは、上機嫌で鼻歌を歌っていますし、義兄さんは、そのシュラインさんを、終始無言で睨み続けています。
私が聞くと、義兄さんは、「何でもない!」と、青筋立てて怒ります。それに、前髪を全部下ろしています。義兄さんは意外に童顔で、前髪を全部下ろすと、本当に大学生っぽく見えてしまうので、余程のことがない限り、そんな髪型はしないはずなのですが。
うーん……。
やっぱり、不思議です。
「気にしちゃ駄目よ? 零ちゃん」
シュラインさんは、笑顔がはち切れんばかりです。
あのぅ……本当に、何があったのですか??
「聞くな!!!」
義兄さんの悲痛な声の調子に、私は、それ以上の質問は出来ませんでした。
でも…………やっぱり、気になってしまうのです。
いつか教えてくださいね? シュラインさん。
【約束だから】
いい加減日も暮れて、通夜のような暗い食事を済ませた後、いつものように、シュラインは帰り支度を始める。
玄関にまで来たとき、ふと、零を呼んだ。
「奥の部屋に、口紅、忘れちゃった。零ちゃん、取ってきてくれる?」
零が素直に奥の部屋に向かう。
そのわずかな時間に、シュラインは、相変わらず不機嫌な草間に歩み寄った。
「武彦さん。そんなんじゃ、探偵失格よ。私が、何のために口紅を引き直さなかったのか、考えたこと、なかったの?」
草間が、訝しげに眉を顰める。
シュラインは、草間の顔を両手で挟んで引き寄せると、爪先立ちになり、ほんの一瞬だけ、約束を果たした。
「…………!」
草間の方は、まったく予期していなかったのだろう。
不覚にも、顔が赤くなった。どうやら、例の約束は、草間にとっても、心の準備が必要なものだったようだ。
「シュライン!!」
怒っているのか、照れているのか。
物言いたげな探偵をその場に残し、シュラインは身を翻した。
去り際に、勝者の台詞を置いていくことも、忘れない。
「まだまだ詰めが甘いわよ。武彦さん」
戻ってきた零が、すまなそうに、謝った。
「シュラインさん。口紅、見あたりません。どこに置いたか、わかりますか?」
「ごめんなさい。零ちゃん。私の勘違いだったわ」
バッグから口紅を取り出し、シュラインは手早く紅を引いた。
見つかって良かったですねと、あくまでも律儀な零の言葉に多少の罪悪感を覚えつつ……興信所の扉を閉めた。
「今回は、私の勝ちね」
草間とは、友人以上。恋人未満。
このタイトロープのような関係が好きだから、しばらくは、このままでいいと……笑いの止まらない自分が、そこにいた。
|
|
|