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<東京怪談ノベル(シングル)>


丘の上の偶然
「……このあたりにしましょうか」
 漁火汀はつぶやくと、丘にそびえ立つ葉の落ちた大木がよく見える場所にイーゼルを置いた。
 年明け早々にふと思い立ってヨーロッパへ写生旅行へとやってきたのだったが、いまいちピンと来る場所が見あたらず、今日まで1枚も描かずにきてしまったのだ。
 これはいけないということで1枚くらいは描こうと散策に出て、やっとこの場所にたどりついたのだった。
 汀が初の写生場所にと選んだのは、小高い丘だった。
 町の様子を一望できるというほどではないが、そこそこ見晴らしのいい丘で、夏には涼しい木陰をたくさん提供してくれそうな木が1本立っている。
 イギリスは冬でも暖かい気候ではあるのだが、今日は特に冷えるせいか人の姿は見あたらない。
 だが、汀にはその方が都合がよかった。かつて住んでいた場所とはずいぶん離れてはいるが、ここはニコラス・ウォレスと名乗って30年を過ごしたイギリスなのだ。
 いつ、かつての――5年前に別れたきりの知人に遭遇するかわかったものではない。
 もちろん、その場合は他人の空似ということで流す気ではいるのだが、会わないにこしたことはなかった。
「……あの」
 そうして、さて書こうかと鉛筆を手にしたところで、誰かが声をかけてきた。若い女性の声だ。
 振り返ると、コートを着込んだ若い赤毛の娘が汀をじっと見つめている。そばかすの多いチャーミングな顔立ちをしているが、見たことのない娘だった。
「とても不躾な質問だとは思うんですけど……あの、ニコラス・ウォレスという名に聞き覚えはありませんか?」
 娘は必死な様子で問いかけてくる。
「……ニコラス・ウォレス、ですか?」
 汀は平静をよそおって笑みを浮かべた。まさか、こんなところで自分のかつての名を知るものに出会うとは――内心そう思ってはいたものの、そんなそぶりを見せるわけにもいかない。
 すると、娘は落胆したような表情を見せた。
「どうなさったのですか? その……ウォレスさん、という方をお探しなのでしょうか」
 触れないほうがいいとはわかっていたものの、汀は思わずそう訊ねた。
「ええ……実は……。昨年亡くなった伯母が、最後までウォレスさんに会いたがっていたんです。どうしても、ひとこと謝罪がしたい、って」
「伯母さん……ですか」
「はい。私もよくはわからないのですけど、伯母は昔、ウォレスさんを裏切るようなことをしてしまったとかで……そのことをずっと後悔していたんです。だから、もしも、万が一、ウォレスさんに会うことがあったら、『あのときの言葉は本心じゃなかったの、ごめんなさい』と伝えて、と……」
「……なるほど、それで」
 汀は小さくうなずいた。
 裏切り――と呼ばれるほどの行為について、汀にはひとつだけ、心当たりがあった。
 もう、ずいぶんと昔のことだ。
 かつて、汀は自分がハーピーハーフである、ということをひとりの女性にばらしてしまったことがあった。そう、目の前にいるこの娘と同じような、赤毛の、美しい女性だった。
 彼女と汀はずいぶんと親しくしていたし、彼女もすっかり汀に気を許していた。だから、彼女ならば大丈夫だろう。そう思ってのことだったのだ。
 だが、現実にはそうではなかった。
 最初は笑っていた彼女だったが、ひじのところに生えている羽毛を見せた途端、恐ろしいものでも見るような顔で「化物!」と叫んだのだった。
 仕方のないことだと思い、汀はその町から姿を消した。自分は普通の人間ではない。それを嫌うものがいることは、当然だとは思わないが、あきらめなければならないことだと思っていた。
 だから、そのときのことなど、すっかり忘れていたのだったが……彼女はずっと、気に病みつづけていたのだろうか。
「でも、それをなぜ僕に?」
「昔、伯母が見せてくれた写真によく似ていたんです。写真といっても、ものすごく小さな、ほとんどピントもあっていないようなものですけど……。もしかしたら、血縁の方かもしれないって思ったんです。ふと、あなたを見たときに伯母のことを思い出して、それで」
「……そうですか。でも、申しわけありません。僕は日本人なんです」
「日本ですか? ずいぶんと遠いところから来てるんですね」
 汀が頭を下げると、娘は目を丸くした。その仕種に、そういえば彼女もこんなふうによく目を丸くしていたな、と思い出す。
「……それじゃあ、本当に私の勘違いですね。ごめんなさい、邪魔をしてしまって。忘れてください」
「いえいえ、かまいませんよ」
 そうして汀に向かって深々と頭を下げると、娘は落ち込んだ様子で踵を返した。
 まさか本当に会うとは思っていなかっただけに、人違いだとわかって落ち込んでしまったのだろう。
 どこかへ行く途中だったのか、来たのとは別の方向にとぼとぼと歩いて行こうとする。
「……すみません、ひとつ、よろしいですか」
 汀は娘のうしろ姿に向かって声をかけた。
「はい?」
 娘は振り返ると、首を傾げる。
「僕はウォレスさんではありませんけれど……きっと、もしもウォレスさんの立場だったら、『もう過ぎたことですから、気にしないでください』と答えると思いますよ」
「……はい。ありがとうございます」
 汀の言葉に、娘は微笑みを浮かべる。そうして前を向くと、今度は早足にずんずんと歩いていってしまう。
「……でも、まさか、こんなところで……。色々とわからないものですねえ」
 汀はイーゼルのほうへ向きなおると、軽く首を振った。
 そうして荷物の中からスケッチブックを取り出してイーゼルに乗せると、やわらかい線で人物の素描をはじめた。
 風景を描く前に1枚だけ、彼女のために描こうと――そう思いながら。