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美食家
黒髪が視界の隅に入って、おれは、思わず息を呑む。
おれは愛する女を殺し、黒髪を炒めて食べたのだ。あの、しっとりとした長い黒髪。焼けた黒髪の素晴らしい匂い。おれはまたあの髪を食べなくてはならないのか。もう充分食べたのだ。彼女の愛はおれの中で、すでに永遠のものになっているはずだ。
そしておれは、あの黒髪を、今度は何で炒めたら良いのだろう。
人間たちなら、「見てはいけないものを見た」とでも喚くだろう。
あたしはただ、歌舞伎町の帰りに、近道をしただけ。あたしの帰り道で、人なんか殺してるやつが悪いのよ。そもそもあの女が死んだのだって、人間の女がひとりで夜道なんか歩くからいけないわけ。あたしは女だけれど人間ではないから、夜道をひとりで歩いたって問題ない。あたしだから、問題ないのよ。
けれど、彼女の表情は、恐怖で凍りついていた。
仕事でいくつもの死体を見ている。ただし、娯楽のための偽の死体。メイクを施した役者が見せる、見せるための死体。あたしがその夜に見たものは、本物だった。それでも、900年は生きているものだから、いい加減見飽きているのだけれど。
けれど、彼女は、恐れていたのよ。
ひょっとすると、あの髪が切られる前に、その喉が裂かれる前に、その腹と胸を開かれる前に、恐怖のあまり死んだのかもしれない。――そう思わせるほどに、悲惨なデスマスクだった。
死体と目が合ってしまって、あたしは足を止めた。そして、暗闇の中で蠢いている『鬼』を見た。鬼は死体の髪を無造作に鋏で切っていた。まるで稲穂を刈っているかのような手つき。慣れてはいない様子だった。
その光景をだまってずっと眺めていたあたしも馬鹿だったかもしれない。『鬼』が、あたしの視線に気がついた。刈り取った髪を掴んで、消えていった。
彼女は、きれいな黒髪を持っていたらしい。
シャンプーかコンディショナーのCMにも出られそうなほど、きっときれいな髪だった。
――形見に持っていったってわけじゃ、なさそうね。
あたしはコートの襟をかき合わせると、家に急いだ。人間たちの仕事に巻き込まれるのはごめんだった。この辺りには大勢が住んでいるもの――いくら他人に無関心だからって、死体を放っておく人間ばかりではないはず。あたしが報せなくても、誰かが報せるわ。
死んでいるわよ。ここで、人が。殺されて、死んでいるわ――。
おれは黒髪を見つけたのだった。愛する黒髪をついに見つけた。
田中緋玻と云うらしい。聞いたことがある。ゴア・ムービーの邦訳をやっているはずだ。『ゾンビ・ウェブ』、『ミッシング・セメタリー』、おれが観たあの映画の邦訳も、あの女がやっていた。
あの黒髪を手に入れなければ。
あの女を食べたときに初めて、おれはきっと愛をみつけることが出来るのだ。
女は夜に、ひとりで歌舞伎町の裏道を歩いていた。おれは手を伸ばし、その喉をかき切るだけでよかった。
そしておれの腕がもぎ取られた。
ぎちぎちぎち、ぶちぶちぶち、めりっ、ぼきっ、ばきっ!
さあ、食事を始めるわよ――
と、いつもなら気合を入れるところだった。
でも、とてもこの鬼じゃそんな気分にはなれない。
「教えてあげるわ」
痙攣している腕を放り投げて、あたしは言った。
「この世の鬼は人が生み出すものなの。あなたのような人間が、鬼を垂れ流すのよ。でもね、とびきり要領が悪い人間は、鬼を吐き出すことが出来なくて、内に閉じ込めてしまう。そうして、内側から腐っていくのよ」
彼の右肩の付け根から流れているのは、タールのように黒い血だった。もう、人間のものではなかった。ひどい臭いがする。でもあたしは、眉一つ動かさない。こんな臭いごときに動かすほど、あたしの眉は安くない。
「この世の鬼はね、腐った反吐よ。あなたと同じ。腐ったものなんか、食べる気にならないわ。あたしは蝿じゃないんだから」
この女の黒髪を。
炒めて。
食う。
うまい、たぶん、うまい。
愛の味がきっとする。
おれは愛さえあれば、完全なものになる。
うまいうまい。
もう、まともな思考回路はなくなっているようだった。鬼は片腕と牙であたしに立ち向かってきた。
あたしはその口の中に手を突っ込んで、蛆のように蠢く舌を掴んだ。残念ながら、相手の牙は、少しやる気を出したあたしの腕を食い千切ることが出来なかった。あたしの腕に突き立てられた牙という牙は、神経と血を飛び散らせながら砕け散った。
ぐい、と腕を引いた。まとわりついた血はどれもあたしのものではなかった。鬼の舌が、ぶちぶちと千切れながらも、どこまでも伸びた。あたしは伸びる舌をぐるぐる片手に巻き取りながら、引っ張り続けた。永遠なんてどこにもないのよ。舌に終わりは必ず来る。
びん、とその終わりは訪れた。鬼の舌は3メートルばかりで打ち止め。あたしの舌も、3メートルあるのかしら?
振り回している片腕を掴んで、ぐいと捻ってみた。関節が砕けて、骨が飛び出した。あたしはフライドチキンを思い出した。あの関節の軟骨がいいのよ。ごりごりしてて、食べごたえがある。でもこの鬼の関節は、やっぱり食べる気になんかならない。
「美味しくないのよ。ほんとに、美味しくないんだから。あんたたちを食べるくらいなら、自分の身体を食べるわ」
さあ。
両腕がなくなった。
舌も、牙もなし。
さあさ、この鬼は、どうやってこれから食べていくつもりかしら?
「餓鬼から始めることね。努力したら、閻魔の目にとまるかもしれないわよ」
あたしは、思わず笑ってしまった。
人間出身の鬼は、よたよたとよろめきながら、裏道の闇に消えていった。鬼はとにかく、すぐに空腹になる。肉でも魂でも何でもいいから、ずっと食べていなければ気が済まないし、身体ももたない。まったく、厄介なものよ。
……本当なら、あたしは、味の選り好みなんてしていられる身分じゃない。食べなくちゃ。お腹が空いた。
でも、おいしくないものは勘弁よ。それに、食事は楽しく摂らなくちゃ。
あいつを食べたりなんかしたら、きっと思い出す。
彼女は、恐れながら死んでいったのよ。
食わなければならない。
腹が減った。
おれは食わなければならない。
腕が痛い。歯が痛い。舌も痛い。痺れて、まるでおれのものではなくなったかのようだ。おれは腹が減っている。
座り込んだそのときに、おれの視界の中には、黒く汚れた太腿があった。おれはそれに食いついた。歯茎だけで肉を食い千切り、咀嚼し、飲みこむ。舌がない。ああ、飲みこめない。
こんなに肉があるのに、髪もあるのに、おれは食えない、
食わなければ、血と肉が減っていく。食えば食うほど減っていく。
腹が減った、減った、食わなければ。
それがおれの愛なのだ。
愛とは、腹が減ることだ。
だがおれの足は、うまくない。
「犯人はまだ捕まってないそうだわね」
「きっと地獄に落ちるだろうよ」
「きれいな娘さんだったのに……」
仏花の香りは、いつ嗅いでも最悪。なんて清らかな香り。あたしの胸を灼いていく。線香の匂いと一緒に通り過ぎていくのは、ママチャリに乗ったおばあさんたち。
一刻も早くおさらばしたい香りだったから、あたしは、お墓ではなくて――歌舞伎町の裏のあの路地に、放り投げておいた。
あたしが放った花は、たくさんの花と供物の中に埋もれていった。
「大丈夫よ、彼は地獄に落ちたから」
あたしは昼間に、そう囁いた。
<了>
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