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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


足跡が見える


 その朝は奇妙な夢に叩き起こされたのだった。
 あくびをかみ殺しながら洗面台の前に立ち、バクハツした自分の髪を見て、あ、そうだと息をつく。
「そろそろ、抜き打ちだね」
 そうと決まればと、藤井百合枝は朝の支度をし、仕事に出かけたのだった。

 仕事中は、仕事が終わってからのことばかり考えていた。
 少し、時間の進み方が遅くなったような気がした。

 抜き打ち、とは。
 刀を抜きざまに斬りつけるといういわゆる居合――ではなく、藤井百合枝が行う『抜き打ち』の場合は、妹がひとりで住んでいるアパートに事前の連絡もなしに顔を出すことだ。ちゃんと食べているのか、妙な男と遊んではいないか、卒論は進んでいるのかを確かめるためだ。進まない卒論はまあご愛嬌としても、妹がチャラチャラとした生活を送っていないことは知っていたし、信じてもいる。だが百合枝がこうして抜き打ちでお宅訪問するのは、最早習慣のようにもなっていた。
 大抵顔を出すだけには留まらず、持参した食材をキッチンに広げて何かしら食事をふたりでとることになる。時間に余裕があるときは百合枝も料理の腕をふるうのだが、出来るものはみどりいろのクッキーや塩辛い蟹玉だった。己の料理の腕がある意味神業的なものであることは自覚していたので、百合枝は日々努力していた。妹は料理の腕が上がっていることが、百合枝の闘争心に炎を灯し、自尊心に10円傷をつけるのだ。
「……まあ、努力したって手作りチョコ送る男もいないけどさ」
 スーパーのお菓子売場で幅を利かせ始めたチョコレートコーナーから目を背け、百合枝はいつものように当たり障りのない食材をカートに放り込んでいくのだった。


「馬ッ鹿、あのステージじゃ水系マジック威力ねェのよ」
「そうだったのか! てっきり何か呪われたアイテムとかつけちまったと思ってた」
「何でもかんでも呪いのせいにするのはいくない」
「じゃ、今夜再挑戦だな」
「付き合うぞ」
「どのキャラで? ……メイジ系使ってないだろ?」
「漢は黙ってファイターだ」
「――要らない」
「おまえ、人の好意を……!」
「あのステージは戦士系お荷物」
「クラスチェンジしてダークナイトになったわい!」
「バリバリの戦士系だろ! なんでパラディンにしなかった?!」

「!」
 妹のアパートの付近で百合枝が見たものは、2人の男女だった。それも、よく知る男女だ。男女は大きな声で談笑していた。
 他ならぬ百合枝の妹と、藍原和馬だった。百合枝は普段着だったし、和馬も普段着だ。和馬の普段着とは、喪服にも使えそうな黒スーツである。がっちりとした大柄な身体も、そのスーツを纏えばすっきりと引き締まって見えるものだった。
「じゃアなー」
「ああ、また」
 ちらりと聞けば喧嘩腰とも取れる会話であったが、ふたりはさらりと別れ、和馬はふらふらと当てもなさそうに歩き出した。この男は、いつもそうであるように見えるのだ。何も目的を持たず、目的を避けているかのように歩いている。実際は、昼と言わず夜と言わず働いているはずなのだ。

 和馬の炎を見たことがある。見ようと思って見たわけではない。見えてしまったのだから仕方がない。
 それは百合枝が今まで見たこともないほど哀しい炎だった。軽い口を叩くのに、何と暗い炎を持っているのだろうと――驚いた。
 そして、古い炎だった。
 消えることを忘れさせられた炎のようにも見えた。
 初めてその炎を見たときに、百合枝は泣いてしまいそうになったことを覚えている。

 しかし藍原和馬という男は油断出来ない。時折妹のアパートに上がりこんでいることも知っている。クリスマスも一緒に過ごしたそうではないか。無邪気なスパイから情報は漏れなく聞き出している。
 揺らめく炎のことは脇にどけ、百合枝はぶらりと歩き続ける和馬のあとを尾けたのだった。


 ビニール袋ががさがさと囁く。百合枝は人込みに紛れ、電柱の陰に隠れ、建物の陰に隠れ、ときにはポリバケツの陰で鼻をつまんでしゃがみ込んでは、尾行を続けた。対象に悟られぬように、辺りと同化して『他人』となる――尾行についての知識はあった。だが技術は、ごく普通の派遣社員の百合枝に備わっているはずもない。
 だが、そんな素人の尾行にも、和馬は全く気づいていないようだった。ふらふらと東京の街中に入り、ビラ配りをしている歯の抜けた青年の肩をたたき、頬をどつき、笑い合って別れる。金のネックレスをつけたオッサンにぶつかり、平謝り。凄まれて、恐るべき駿足で逃亡。
 和馬が立ち止まれば百合枝も立ち止まり、走れば彼女も全力で走った。日はすでに暮れていて、藍の空が漆黒に変わり、霞んだ空に星が瞬き始めた。
 ――どういう生活よ。
 和馬は歩みを止めることがない。
 仕事が終わってからということもあって、百合枝は疲れてきていた。和馬は、本当に当てもなく歩いているようだ。いく先々で誰かと笑い合い、どつき合って別れる。それ以上の関わりはなかった。それ以上を避けているようにも見えた。
 ――でも、あの子に対しては……。
 妹と話していたその表情に、百合枝は妙な不安のようなものを感じるのだった。妹の方は対していつもと変わらない様子に見えたが。
 どこに行って、何をするのか。妹に、他の誰かには見せない顔を見せる男は、ぶらりふらりと歩くことに、何の目的を持っているのか、いないのか――
 その好奇心が、百合枝を歩かせ続けた。


 ふうっ、と男の姿が消えた。
 百合枝は我が目を疑った。
 確かに、ツーショットダイヤルの立て看板の向こうに行ったはずなのに――
 もうそこに、藍原和馬の姿はない。


「見失うなんて、……こんなところで」
 百合枝は顔をしかめた。
 気づけば周りは、『メイドSANてんごく』『素敵なコがあなたを待ってまーす』『キャバレー ピーチ』『30分1万円から』などというピンク色のネオンや看板に溢れていた。歩いている女と言えば、藤井百合枝か、コスプレとしか言い様のない格好をしたコたち。ピンク色の呼び込みが飛び交い、妙な気分になる音楽が流れている。
 ――まさか、その辺の店に入ったんじゃないだろうね?
 有り得る話だが、どうも信じたくない。百合枝は溜息をついて歩き出した。
 今度は、彼女の方に、当てがなかった。


 ピンクの看板がまばらになって、街は静まりかえり、暗闇に落ちた。
 厄介なところに入りこんでしまったと、百合枝は溜息をつく。だが、見上げると、見慣れたタバコの看板があった。あの看板を目指して歩けば、繁華街に戻れる。
 藍原和馬がどこに消えたのか、百合枝には最早わからなかった。
 ネギが顔を出した典型的な買物袋を手に提げて、百合枝は看板を当てにして歩き出す。あまり、もと来た道を戻りたくはなかった。あの通りの炎は、卑猥なピンク色ばかりだったから。見ようとして見ているわけではなく、百合枝にはただ、見えてしまうのだ。
 だからあのとき彼女は、顔をしかめた。
「おい」
 思わず足を止めてしまった。止めずに走るべきだった。
「おねえさん、こんなとこ、独りで歩いちゃ危ないぜ」
 獣のような含み笑いがして――
 百合枝は振り返った。

「よッ」
 男は大きな犬歯を見せて、明るく朗らかに片手を上げた。

 ……百合枝は、ネギで男の顔面をぶっ叩いた。抜き打ちだった。
「ぶぼ!」
 体格のいい黒スーツの男は、奇妙な悲鳴を上げてよろめいた。
「驚かせるんじゃないよ!!」
「ネギなんかで叩くやつがいるか!」
 はあはあと息をつきながら、ふたりはしばし無言で睨み合った。
「……で、俺に何の用だ?」
「……知ってたの?」
「おいおいおい、まさかアレを尾行だって言うんじゃ――べぶ!」
「素人で悪かったね……!」
「ネギで叩くな! ちくしょう!」
 どうやら、百合枝が2時間あまり続けていた好意は『尾行』ではなかったようだ。対象に思いきり気づかれているようでは、「ただついて行っている」だけ。百合枝は赤くなりながら、念の為にもう一度ネギで和馬の顔を叩いた。
「ネギで叩くなって! がるるるる!」
「こんな犬みたいな奴が妹に近づいてるんだよ、気にしない方がおかしいだろ!」
「犬だとー! あのなッ、俺は……」
 狼だ、狼と犬は違うんだ。狼ってのはな、犬と違って孤独を孤独だと思わない非常にイカしたやつなんだ、俺は孤独なんかとっくに手懐けちまったから、狼なんだ!
 和馬がそこで口をつぐんでも、百合枝に文句の続きを隠すことは出来ない。
 百合枝は曲がったネギを、ゆっくり下ろした。
 ――狼だって、群れるんだよ。狼が孤高だと思ってるのは、人間だけじゃないか?
 百合枝のその心を、和馬が読むことは出来ない。
「……妹サンはな、いい友達だよ」
 ちょっといいとは思ってる。
「今日は草間ンとこからの帰りにばったり会ったから、一緒に帰ったのさ。あっちは、アトラスの帰りだったんだ。お互いに事件が好きなんだな。俺は今日はもう予定なかったから、送ってやったんだ。それだけさ」
 本当に、それだけなんだ。
「……そうかい」
 百合枝は笑って、曲がったネギを袋に戻し、和馬に押しつけた。和馬は目を白黒させて、反射的に受け取った。
「な、なんだ、おい」
「あの子のところに行く予定だったけど、もう遅くなっちゃったからね――それ、あんたにあげるよ」
「どうも。……うわ、そのまんま食えるもの無エじゃん」
「作って食べなって」
「めんどくせ」
「じゃあ返しな」
「……せっかくだからもらっとくよ」
「何なのさ」
「こういうやつなのさ」
 また、和馬は犬歯を見せて、にいと笑った。その笑みには翳りがなかった。
 百合枝は微笑み、すぐに目を逸らした。和馬の黒い瞳を見つめ続けることは、彼女にとっては難しいことだったから。
「送ってってやるよ。この辺りはほんとに、女が独りで歩いちゃ危ないんだ」
「姉妹して送ってもらうなんてね」
「俺って親切だなァ」
「黙りな、ネギ臭い」
「オリジナリティのありすぎる暴言はよせ! ヘコむだろ!」

 ふたりははっきりとした足跡を残して、夜の東京の街を歩き始めた。
 その日は満月ではなく、名もない欠け具合の、何の変哲もない月夜に過ぎなかった。




<了>