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聲、緑蔭に帰す
家の玄関脇に、特別に小さく作られた花壇があって。
此処には、大きく育つ木を植えたいわと、笑いながら彼女は苗木を購入してきた。
「家の敷地からはみ出したらどうするんだ」と返せば、「それぐらいが、ちょうどいいのよ」とやはり笑っていた。「子供たちが、木登りしたり、木蔭で休めたりできたら、いいわね」
彼女は体が弱いくせに、そんなことを言っては、いとおしそうに若木の黄緑の葉を撫ぜた。
居間の窓から見える玄関と、それへ続く門扉の間を何度も視線は行き来して、玄関脇の、逞しく育ち過ぎた一本の木に、留まる。
彼女の声が、耳を過ぎった。
*
陽射しが眩しい。
蝉の音が、萌ゆる青葉の蔭り、空間を震わせる。
男は、初夏と呼ぶには未だ早いが、決して過ごし易いとも言えぬ暖かな陽気に、息を切らせて走り、急いだ。
坂の中途に建つ診療所への道程は長い。突然の慣れぬ全力疾走に足は縺れるばかりだが、気だけはひたすら急いている。駅で捉まらなかったタクシーにやり場の無い苛立ちをぶつけ悪態を吐くと、一気に石畳を駆け上がった。
産声。
茫洋たるこの世界に生まれ落ちた愛し児が、不安か期待にか、その小さな体から空気を劈くように声を上げた。
それは迷い無く。
新しき生の糧を求めて発せられる。純粋な声だ。
霞んだ意識に届いたそれに、女は激しい呼吸の下、苦しげに眉を寄せて、取り上げられたばかりの赤子を見た。
「大丈夫、元気な男の子ですよ」
傍らからの医者の言葉に、女は弱々しく肯く。そして、うっすらと、うつくしく微笑んで、静かに瞼を下ろした。幽かな影を落とす睫が、僅かに一度震える。
柔らかなその唇から、ふっと漏らされた呼気が、吸気に転ずることはもう、無かった。
数分後、診療所の扉を荒々しく開いて飛び込んできた男は、直後に医師から二つの宣告を受ける。
一九九〇年六月二十日。
雨草露子、享年二十三歳。
病で弱りきった体での決死の出産により、死亡。
*
一九九八年、夏。
微妙な傾斜が続く緩やかな坂道を、一人の少年が登ってゆく。
仰げば一面の青い空に、見事な入道雲が望めるのだが、真夏の陽射しは容赦が無い。いつもよりも自然、視線は足元へと下げられるが、アスファルトの照り返しで眩しいのには変わりなかった。眇めた目で少し先を眺めて、自宅の玄関脇の、住宅街の中にあるにしては異様に大きな木を認め、吐息を深くする。季候は確かに夏だというのに、未だ少年の纏う白いシャツは長袖の儘だ。汗で僅かに肌に張り付いて、華奢な体付きを露にしている。袖で軽く額の汗を拭い、少年は門から家に入った。
玄関の扉を開けると、やはり今日も、そこに父親の姿が在る。
「居間の窓から、お前の姿が見えたものでね」
心底帰りが待ち遠しかった、と笑んだその顔に、少年は曖昧に首を傾げて、此方も微笑み返した。
そうして父親は、我が子の名を呼ぶ。
「おかえり、露子」
露子。
それは、母の名だ。
母の死に絶望した父は、まるで身代わりだとでもいうように、子供に同じ「露子」という名前をつけた。男には不釣合いな名前だ。
けれど、父を恨んだことは無い。
父のその狂気染みた感情が、たとえ歪んだ形ではあっても、愛情だと知っているから。
それが、哀れで堪らなかったから。
名前のことで、虐めを受けるのも日常茶飯事。
その度に、何を言い返すのでもなく、黙って虐められる僕も、いつもの、こと。
母の名を嫌う訳もなく、父を厭うでもなく。
流されるだけに身を委ねて、事の終わりを待ち続けるのが何時しか常と。
――では。
日常というものにも、終わりは訪れるのだろうか。
この幸せな、狂った日常にすら。
父には気付かれぬよう、自然に鞄を持ち替えて、そっと密かに左腕に触れた。シャツの下には、悪意の痕が。じん、と僅かな痛みが伝わったけれど、表情には出さずに、代わりに今度こそはっきりと、微笑んだ。
「ただいま」
声が、本来の僕のものではないような気さえする。
この違和感は何だろう。
窓から入り込む、とろりと白い陽光が、歪に室内に光を投げていて、非現実感だけが増してゆく。
僕は甘い眩暈を覚えて、ドアに凭れた。
雨草露子は、今日もこの日常の中に、在る。
<了>
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