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<東京怪談ノベル(シングル)>


罅割れの間 蹲る



 ビンゴ。
 何度かの確認のあと、さらにナースステーションへ戻ってきた看護婦の言葉を耳にしてから男――城田京一は低く呟いた。机の上にカルテの束を放る。何度数えても通し番号が通らないDシリーズのそれだ。看護婦が城田のデスクのわきに手を突いて、何かを考え込むようにくちびるを噛んだ。「どこか…小児科あたりで引っ張りだして、そのまま返却されてない、なんて事はないでしょうか?」
「それなら、君が今行ってきたのはどこだって言うんだ?」
「3階、小児科ナースステーション」
「そうだろう」
 カルテの持ちだしがなされたなら、誰かしらがそれを把握しているはずである。が、今回――ただ1通のみ抜きだされたままのカルテが、今現在どこの課でどんな目的のために使用されているのか、ましてや「どこにあるのか」すらも、誰も知りえないまま行方不明になってしまっているのだ。もっとも困るのは眼前の看護婦だろう、カルテの整理も彼女達の大切な仕事の1つなのだから。
 往々にして、こう言った大掛かりな総合病院ではカルテの紛失騒ぎが起きる。たいていは他愛もない所作が原因となっている――患者にカルテの提出を求められた医師の戻し忘れ。薬剤課が確認のために持っていったままの返し忘れ。院内会議で取りざたされたカルテの戻し忘れ、など。
 殆どが「うっかり」などと言った安易な過失が原因であるから(無論、どんな些細な過失も病院と言う場所がら決して許されるはずはないのだが)、今回のように要所要所を回ってカルテの場所を聞いてまわればやがてはカルテに辿り着くものだ――たいていの場合は。
 だが今回のカルテ――D棟に先週まで入院していた幼い少年のカルテにだけ、半日かけて辿りつくことができなかった。少年のカルテを必要とする可能性のある全ての課に看護婦は連絡をとり、足を運び、実際にそれぞれのナースステーションの看護婦や医師と話しをして回ったらしい。内科、神経外科、脳外科、脳神経科に小児科。しまいには眼下と泌尿器科にも寄ってきたというが、少年のカルテの所在は誰も知らなかったという。
「似た名前の患者さんがいるのかと思って、そっちも探してみたんですが…だめでした」
 八方塞がりの看護婦は自分のデスクに戻り、すっかり冷めてしまった茶がのこっている湯呑みを両手に抱えた。「明日になれば、今日はお休みなさっている先生方がいらっしゃるから…もう1度聞いてみます。困ったわ、亡くなられた日の投薬を確認していなかったんです」
 ちらり、と城田が看護婦を見た。その不始末をとがめている視線ではない。投薬、という言葉に気を引かれたのである。少年が冒されていた病は日本でもあまり例をみない特殊なもので、担当課のちがう城田はそのやたら長く聞き慣れない類の病名に眉を寄せたものだった。実際に少年とふれあいがあったわけではなかったが、その病名のせいで城田は少年を覚えていた。
 だから、自分の失態をせめる看護婦への、心遣いのつもりもあったのかもしれない。どんな薬を投与していたのかがふと気になった。投薬されている薬剤の名称を聞けば、自分にもそれがどんな類の病気なのかがわかるだろうと思ったのだ。
「ねえ、その患者は―――」
「あら、もうこんな時間だわ。タイムカードを押さないと院長に叱られます」
 すくりと椅子から立ち上がり、看護婦はせわしなくカーディガンを脱いで背もたれに掛けた。「あとはよろしくお願いします、城田先生。私は明日、もう1度よく探してみますから」
 おかげで、途切れた言葉をああ、とかうん、とか曖昧な響きに置きかえなくてはいけなかった。この病院では基本的に、残業分の給料が支払われることがない。仕事が片づいていようとそうでなかろうと、定時には必ずタイムカードを押して時間外勤務がないことにしなくてはいけないのである。看護婦が担当のカルテを無くし、さらにタイムカードを押さずにその始末をしていたと院長に知れればたしかにただでは済まないかもしれない。
 城田は看護婦の背中を見送ったあと、さて、と一人ごちた。1度でも何かに疑問を持ってしまえば、それが何らかの形で答えを提示してくれなければ引っ込みがつかない――それが人間である。
 だが明日だ。明日になれば、おそらく自分の疑問に答えは提示される。
 さて。この夜勤がおわるころになれば、さっきの看護婦がまた出勤してくるだろう。カルテのことは、その時にまた考えればよい。城田はぎしりと椅子を軋ませて、入院患者の新しいカルテに目を通しはじめた。



 だが、そんな城田の淡い期待は裏切られることとなった。
 夜勤と昼勤の引き継ぎがおわり、定時にタイムカードを押しても彼女は現れなかったのである。
 病院の近所にあるアパートメントでひとり暮らしをしているその看護婦は翌日も姿を見せず、さらにその翌日も出勤してこなかった。
「彼女のアパートには連絡しているの?」
「それが、自宅も携帯も繋がらないんですよ――」同僚の看護婦が城田に説明した。「あんなに律義な子が、着信履歴に病院の番号が入っているのに掛け直してこないなんて、おかしいです」
 無遅刻無欠勤、インフルエンザに掛かっても出勤したことをむしろ病院から叱られたことがある程まじめな看護婦だ。城田は思案げに腕を組み、ただ大きく溜息を吐いて窓の外を見下ろした。
「彼女の様子、おかしくありませんでしたか――? 私、最後に彼女と話をしたの先週なんです」
 同僚の看護婦が城田に問う。「例えば、何か悩みごとがありそうだったとか…」
 そんなことはない、と城田は言葉を返そうとした。彼女は相変わらずの生真面目さで仕事をこなし、残業の予感に慌ててタイムカードを押して帰って行ったと。それまでと変わった様子は見受けられなかったし、変わった事も起きなかった、―――
 起きなかった?
「………いや、」
 城田が言いよどむと、看護婦は怪訝そうな顔を城田に向けた。その視線に気づかぬふりをして、城田はじっと窓の外を考え込むふうを装って見つめ続ける。
 どうしてか、カルテの紛失を伝えてはいけない気がした。
 彼女が最後に出勤した日からもう二日が経過していたが、依然カルテが戻る気配はない。幸いなことに、前の週のカルテを整理するのは次の週の当番の看護婦であるから当分はカルテの紛失に誰も気づくことはないだろう。先週亡くなった少年のカルテは今の入院患者カルテとは別の方法で保管される筈だし、そうなればよほどのことがない限りカルテの紛失が表ざたになることはない。
「いや、……別になにも、おかしいことはなかった」
 城田は告げた。言いよどんでいた訳ではなく、ただ他のものに目を奪われて上の空になっていただけだと言わんばかりに顎で窓の下を差す。松葉杖を飛ばしてしまったらしい少女の患者がへたりこんで泣いていた。
「あら、リハビリ科は何をしてるんでしょう! あの子はまだ一人じゃ無理です」
 看護婦が慌てて走り去っていく。内線電話を掛けて何やら大きな声を出していた。おそらくリハビリ科に電話をして、今すぐ中庭に行けとでも言っているのだろう。戻ってきた看護婦は、すこし前に話していた話の内容をすっかり忘れてしまったふうにファイルを取り上げて言った。「とにかく、彼女からの連絡を待たないことには、どうしようも…」
「――様子を見にいってみようか」
 城田の口から、そんな言葉がもれた。きょとんとした顔で看護婦が城田を見上げたが、特に気にした様子もなく「やはり、無断欠勤とは考えにくいだろう。体調がくずれないことを誰にも言えないまま、部屋で倒れてしまったのかもしれないなどと考えるなら、わたしが行けば応急処置をすることもできる」
 自分でもびっくりするほどに、ばかげた嘘はすらすらと音になっていった。自分がそんな詭弁を信じていようはずがないのだ、彼女の失踪は必ず――カルテの紛失とつながっている。
 最初は、でも、などと口ごもっていた看護婦だったが、それでも最後には城田に頷いてかえした。どちらにしろ、このまま看護婦が一人出勤しないままではスタッフ全員が困ることになる。すぐに、彼女の住所と電話番号を探し出してくれた。
「ところで」看護婦の手際を横目に、城田が窓の外を見下ろして問う。「あの女の子は骨折でもしたの?」
 手慣れた様子で失踪した看護婦の住所のメモを取りながら同僚の看護婦が答える。「ほら、先週この病棟で亡くなった男の子がいますでしょう? あの子と同じ症状が出てるんですよ」
 城田はぎくりとして、なにげなく看護婦に一瞥をなげた。が、看護婦に他意はなかったらしく、はい、と城田にメモを差しだす。住所の下には、簡単な地図まで書かれていた。「あの辺りは道が込み入っているから、迷子にならないようにしてくださいね」



 今にも雪が降りだしそうな暗混とした寒空の下、城田は看護婦の自宅へと足を進めている。診察を終えてから入院患者の様子をみて回っていたら、すっかり暗くなってしまった。左手はコートのポケットにぐっと差し込んでいたが、右手は簡易救急箱を持っているので指先が冷たい空気にさらされている。失踪した看護婦の自宅へ赴く理由が理由のため、カモフラージュに持ちだしたものである。
 当然のごとく、今日も紛失したカルテは出てこないままだった。それは城田の想像を確信へと固めさせるために充分な事実だった。やはり彼女は、あのカルテを探し歩いてしまったことが原因で、何らかのトラブルに巻き込まれてしまったのだ。おそらく、彼女はこれから城田が赴く自宅にはいないのだろう。最悪、寝室ですでに冷たくなってしまっているのかもしれない。
 彼女が、自分のベッドシーツの上で堅く冷たくなっているのを城田を想像してみた。アパートメントの立地を考えれば、彼女は大声をだしたり暴れたりなどの暇を与えられることなく命を奪われた可能性は高い。即効性のある薬物であっというまに死んでしまった可能性もあるし、寝静まったところをナイフでぶすりとやられて何もわからないまま殺されてしまった可能性だってある。腕力のある男が彼女の細い首を捻って縊死させることなど造作もないことだろうし、鈍器の類を使えば小男にだって殺傷は可能だったろう。
 だが城田は、思いつく限りの「失踪した看護婦の死にざま」を思い浮かべてみても、彼女に憐愍の情を抱くことはなかった。こときれた看護婦の虚ろで暗い眼差しをリアルに想像し、宙を掻いてもがくような蒼白の指先を思っても、である。不運だったのかもしれない、とは思う。まだ若かっただろうに、両親や恋人を残してこの世を去っていくのはどんなにか苦痛であっただろうかとも。
 だが、生ある者はいつか必ず死ぬ。
 彼女も、彼女の両親も恋人も、病院に働く全てのスタッフも患者も、そして城田でさえも、いつかはこの意識を手放してたんぱく質の塊となり、土に還っていく。
 彼女の場合は、それがほんの少し早くきてしまっただけにすぎないのだ。
 そんな、死に対しての考え方や割りきり方を、人生のどこで身に付けてしまったものなのだろうと城田は思う。そんな淡泊な死への感覚が城田を医師にしたのかもしれないし、その逆なのかもしれない。どちらが理由にしろ、城田は引き返すことも足を速めることも、できはしないのだから。
 だから。
「――物騒だね、こんなところで穏やかではないな」
 数十メートル前からぴったりと足跡をたどっていた気配に、城田は苦笑まじりに声を掛けた。
 病院で看護婦が書いてくれた地図の道からはわずかにそれて、同じような道が幾重にもならんでいる細い路地へと足を向けていた。文字通り、迷ったふりをしてみせたのであった。城田の声を聞いた背後の人影が懐へ手を差し込む気配。もう一度、穏やかではない、と城田が呟く。いかにもあやしい雰囲気をまとっている強面の男が――と、城田は判断した――懐に手をいれて取りだすものといえば、刃物か、銃器かスタンガンか。どれにしろ物騒であることには変わりがない。特攻のタイミングを図りかねているらしい男は城田の声に些か慌てた様子で、懐から手を抜きださないままで銃の撃鉄を起こす。ストレイヤーヴォイトのイングラム、タクティカルキャリー。人家の密集しているこんな界隈でためらいもなくトリガーを引こうとしているのなら、おそらくはサイレンサー付きのものだろう。みそしると焼き魚の匂い漂う空気を震わせた僅かな金属音に、城田はざっとそれだけを脳裏に浮かべて目を細める。あまりに不慣れな男の様子をうかがう限り、もしかしたらサイレンサーなど付いていないのかもしれないが。
「初めてからわたしをそれで撃つつもりなのか、それとも――『前例』があるから用心しようと言ったところなのか。どちらにしろ、」
 もう看護婦自宅にはいまい。
 城田は深々と大きな溜息を零した。
 それがどういった印象を男に与えたのかはわからなかったが、恐怖の類な感情を根差させるには充分だったらしい。城田が緩慢に後方を振りかえった時、男は真っすぐにのばした両手の先で震える銃口を城田に向けたのだった。
「――それなりに、抵抗させてもらうけれど」
 それでも良いね、と城田は男に首をかしぎながら問う。「友人のとの約束を、果たさなくてはいけないんだ」
 す、と背すじを伸ばして正面から男を見すえたとき。
 男が生唾を飲み込む音が聞こえた。



『総合病院また不始末 ただれた投薬管理の実態とその不始末』
 〜「まあいいや、適当にベッドに戻しておいて」最後に少年の耳がきいた言葉〜

 病院。
 医療。
 看護、薬剤投与、入院。
 そういった言葉を耳にした者の、大半が思わず顔をしかめてしまう時代になった。
 事故が相次ぐ昨今の医療業界、つい先日も不遜な魔の手に幼い命が奪われてしまったのである。
 J会系列M総合病院での出来事だ。

 〜(中略)〜

 さて、それを聞いて蒼ざめたのは、院長の息子であり少年の担当医であったM元医師である。居合わせた病院のスタッフ全員に、指定した薬剤書類の改ざんと隠蔽を命じた。(左下・容疑者写真)
 読者もご存知のとおり、都内J会系列M総合病院といえば、揃えた設備やベッド数の名声もさることながら、かなりの「エリート病院」でもある。おびただしい量の金と時間を使ってせっかく就職した大手大病院の、院長の息子が「それ」を望むのならば、よほど医学に高い志しのある者か正義感の強い者でなければ異論を述べることができなかったのだろう(そんな医学に携わる者たちの意識改変についても、我々は深く推考を重ねていかなければならない)。
 命じられたスタッフたちはM元医師の言葉どおり、書類の改ざんとカルテの破棄をし、翌日からは何ごともなかったかのように病院へ出勤したのだという。

 〜(中略)〜

 業務上過失致死ほか3件の罪の容疑を受けているM元医師は、取り調べの中で「ご遺族の方々には死んでも償いきれないことをした」と容疑を全面的にみとめているという。
 だが、明晰で崇高な読者方よ。
 今日までに、実に何人の「元医師」らが、これと同様、もしくはまったく同じ言葉を吐き出して来たのだろうか。(右上・平成に入ってから報告を受けた医療事故分布図)
 医療に携わる者たちの、根本的な意識の改革。
 それがなされなければ、今回のような事件はこれから先にも何回もおこりうるだろうし、そのたびに私たちはお粗末な「ご遺族の方々には…」を耳にして辟易、そして歯がゆい思いをすることになるのだろう。
 日本医学は、今新たな命題を課せられているのだ。

 なお、前述の看護婦Aさん(仮名)は、今も心療内科での適切な処置を受けている。1日も早い彼女の回復と職場への復帰をお祈りしたい。

記事:編集B
情報提供:『ラボ・コート』



 ちょっとしたステイタスを持つ者と、そんなステイタスが自分にあると勘違いしているタイプの者とに人気を誇っている週刊誌の、そんな大々的な記事にざっと目を通したあとで城田はデスクの上にぞんざいに放った。
 これから午後の回診がある。夜中に階段から落ちて骨折したという小柄な老婦人の左足のことや、体育の授業で転んで骨折したという肥満ぎみの少年の鎖骨のほうが今の城田にはよほど気にかかるのだ。あの病院――城田はカルテの紛失が大事になる前にとっとと病院へ辞表を出した。今はまた別の総合病院で整形外科を受け持っている――がこれから先どうなろうと、軟禁されていたところを助け出されたときには気持ちを病んでしまっていた若い看護婦が回復しようとしなかろうと、今の城田にはどうでもよい事である。
 偉大なる生と、厳かな死を巡り、病院という場所ではいくつものドラマが生まれては途切れていく。
 それらいちいちに反応して、喜んだり悲しんだりを繰り返していたならば、この世の医師というものはよほど深い感受性にめぐまれなかったか鉄面皮かということになってしまう。やり場のない感情や昂ぶりは、繰り返すうちにどこかで抜き場所を知るものなのだ。それがなければ摩耗して、擦りきれていくものである。
「組織に与するという行為は、なかなかに疲れるものだね……開業でもしようか、ここの看護婦を何人かつれて」
 軽口を向けられた看護婦が苦笑した。M総合病院にいた看護婦たちよりもすこし年を取っていて、同じくらい患者を思う気持ちが強い者たちである。よく、受付の終った人気のないロビーで幼い患者のリハビリの相手になっている彼女たちを見る。歩けるようになったり、ボールを握ったりすることができれば褒めてやるし、食事の好き嫌いをすればきちんと叱る。そういった、本当はごく当然に思えるひとつひとつこそが大切なものだし、だからこそタイムカードや役職などは二の次でなければならない、と城田は思う。
 正義感?
 使命?
 そんな気持ちだけで生きた瞬間はない、みじんもない。
 ただ、自分の持つ能力や感情、そして持たない能力や感情。
 それに、他人の持つそれら全てが複雑な結び目に絡み合ったその答えが、今の城田であり、おそらくは他者であるのだろう。今を精一杯、己の原寸大を以て生きていく。その果てに、ただの通過点としての死は存在する。
「でも城田先生、きっと独立には向いていらっしゃらない。小さい患者さんたちの扱い、お得意じゃないでしょう?」
「そうでもないさ、勿論キミたちには適わないけれどね」肩をすくめながらそう答えて、城田はデスクを立ち上がった。「行こうか、皆待ってるだろう」
 はあい、と看護婦の一人が慌ただしくカルテの用意を始める。
 あの日と違う景色が広がる窓の外を、城田はしばらくのあいだじっと見下ろしていた。