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<東京怪談ノベル(シングル)>


或いは、時の流れに移ろいし

 真昼時。
 太陽の光からひっそりと隠れるようにして伸び行く細い路地の一角に、青年は――セレスティ・カーニンガムは、足を向けていた。
 手に握る銀細工の杖が、珍しくも、強い光を反射する。無意識の内に日陰を渡り歩き、太陽を避けるかのようにして極力道を急ぐ。
 ――そこの大通りまでは、秘書に頼んで、車で乗せて来て貰っていたのだが。
 この道は、あまりにも狭すぎる。本当の所、昼間に出歩く事は極力避けておきたかったのだが、どうしてもここに近付いてしまうと、そうも言ってはいられなくなってしまうのだ。
 ……久しぶり、ですね。
 そうして、暫く。その一角に、懐かしい香りを感じ。
 セレスは静かにその場所に足を止め、太陽を覆い隠すかのように佇む、小さな古びた建物を見上げていた――ドアに"Open"の札の掛った、お客の来ない古本屋≠フ建物を。
 躊躇わずに、ドアを開ける。
 その途端、すぐ横には懐かしいカウンターが置かれたままになっている事に、はっと気が付かされていた。そうして――あの頃と、全く変わらずに、
 そこにあった人の気配に、セレスは静かに、頭を下げた。
 ――老父の姿が、そこにはあった。物腰の優し気な気配が、セレスの方を振り返る。
 セレスはすぐに、簡単な挨拶を済ませると、
「お久しぶりです。そういえば、た……いえ、もう六年ぶりに、なりますね」
 たった六年。
 言いかけた言葉を、はっと飲み込む。
「……それどころか、もう七年にもなるんですね」
 ――たった、六年。
 セレスにとっては、素直な形容でもあった。しかし、
 ……人にとっての、六年というものは。
「ああ、気にするでない。もう、と言ったってね、わしにとってはまるで、昨日の出来事のようだ」
 うっかりと、セレスにとっては失念してしまいそうになる。
 六年。人にとってのその歳月は、それこそ人生の全てが変わってしまっていてもおかしくないほどの、長い、長い、時の迷路でもあるのだから。
 人の世は儚い、と。
 とりわけ日本に来てから、良く耳にするようになった言葉を思い出す。日本の古典文学の一世界を、それこそ常に支配するような、価値観。
 決してそれに、
 ――私はそれに、同意するわけでは、ありませんけれども。
 心の中で付け加え、セレスはふ、と、店主に向けて微笑みを向けた。
 会話に感じる手ごたえに、あの頃と何ら変わりない店主へと――しかし、しかし全くもって、あの頃とは変わってしまっているであろう店主の方へと。
「それにしても、まさかキミが、来てくれるだなんてね。覚えているよ、あの時の事は、今でも、鮮明に。何分人の来ない店でね。驚いたものだった」
「すみません、長い間、ご連絡の一つもせずに」
「いいや、そんな事はないさ。連絡がないという事は、きっとキミが、元気にやっている証拠だと思ってね。少なくとも、わしはそう信じていたよ――どうやら、どんぴしゃだ」
 大きく一つ頷くと、店主はやおら立ち上がり、あの日と同じようにカウンター横から古びた椅子を取り出した。
 そのゆるりとした動作の気配も、感じられる色合いの薄さも、今直ぐに、薄く差し込む日の光の中に融け込んでしまいそうな夢のように感じられてしまって。
「ほら、まずは座りなさい。それから、お茶を入れてこよう。キミは……そうだ、紅茶の方が良いんだったね。砂糖は確か、擦り切り一杯だった――」
「いいえ」
 それでもあの日と代らぬ、どこかの喫茶店のマスターのような口調が、
 ……懐かしいですね。
 そっと記憶に、囁きかけてくる。
 セレスはお礼と共に椅子に腰掛けると、カウンターの上へと手を置いた。
 その横では、店主と共に長年この店を見守り続けた旧時代のレジスターが、淡々と沈黙を守り続けていた。
 ――セレスがきっぱりと首を振って、暫く。
 彼はおや? と小首を傾げた店主の方へと向き直ると、膝の上でそっと、銀細工の杖を握りなおした。
 店主の様子に、これが最後の会合になるであろうと、小さな確信を抱きながら。
「あなたと同じ、お茶が飲みたいんです――お願い、できますか?」



 七年近く前のある雨の日。
 滅多に人の来ないこの店に、突然の来客者があった事が全ての始まりであった。
 突然振り出した雨に、雨宿りをしに、と、突然ドアを開け入って来た、異国感を風靡させた銀髪の青年。あの日、愛おしそうに窓越しに当る雨を見つめていた青年は、いつの間にか、毎日のように店へと顔を出すようになっていた。
「……どうだね、何かあったかい?」
 出会ったあの日とは打って変わって快晴のある昼、店主は今日も店へとやって来ていた青年の為に紅茶を片手にし、ひょっこりと本棚の列から顔を出していた。
 ――紅茶などは。
 それこそ月に一度ほど、気が向いた時に、ミルクを浮かべて飲むくらいであったと言うのに。
 安い紅茶で、申し訳ないけれど。
 出せる飲み物といえば、そのくらいしかなかったのだ。
「またそんな高い所に登って……足、弱いんじゃないのかね」
「大丈夫ですよ、ご心配ありがとうございます」
 それでもこの若者は、文句一つ言わずに、ただ美味しいですよと微笑んでくれる。身なりや雰囲気からすれば、その辺の勤め人とは、位の一つや二つは――或いは、それ以上に、上にいる人物だとしても、おかしくはないと言うのに。
 どこか不思議な雰囲気の青年だと、素直にそう感じていた。
 雨の日に駆け込んで来た――それが出会いの切欠だった所為か、どうしても拭いきれない、水の香りを周囲に遊ばせる青年。
 さらりと流れる銀髪は、月の光のように真っ直ぐと。海のような深い蒼は、視界を失ってもなお生き生きとした、瞳の光の中に。漆黒のスーツも暑苦しくはなく、むしろ、だからこそ涼し気で、
「まるで御伽の話みたいだな」
「――はい?」
 思わず呟いた店主の言葉に、赤い本の埃を払っていたセレスが、ふ、と、問い返す。
 いやいやなぁに、と店主は頬を綻ばせると、
「本達も随分と喜んでいるのではないかな、とね。ほら、聞えるだろう? 私はここよ、私はここよ――って、本達の声が、ね」
 この場にそぐわぬ訪問者。田舎から、遠くお城の舞踏会を夢見る、村娘の見る幻であるかのように。
 店主はそっと瞳を閉ざすと、一つだけ深く、息を吸い込んだ。
 埃を孕んだ紙の香り。時間を遡るような太陽の陽だまりに、光と影とがくっきりと交差する。
 時の流れが、穏かになる瞬間。外界と隔てられた小さな古本屋の、この場所だけに許された、悠久の流れがここにはあった。
「少なくとも、わしには聞えるが」
 集まる記録は、語りたがりで。皆が皆、日の目を見る瞬間を心からじっと、待っている。大時計の針の音色に、一つ、また一つと、自身の夢を想い返しながら、歴史の流れを無言のままに振り返る――何の感情も持たぬかのように、ただただ、無言のそのままに。
 しかしそこには、様々な風景がある事を、店主は良く良く知っていた。
 そうして、セレスの方も。
 ――店主は、ゆっくりと、ゆっくりと台を下り来るセレスへと、ゆるりと紅茶を差し出した。その代わりに、本を受取りカウンターの方へと向き直り、
「……とりあえず、向うに座ってお茶に。是非ゆっくり、お読みなさい。しかし又、面白いものを引っ張り出してきたものだ」
 振り返りはせずに、ただ懐かしむかのように息を吐いた。皺の目立つ手で、背表紙の埃をつ、と辿る。
 "To be, or not to be - that is the question."
「『なすべきか、なさざるべきか――それが問題だ』、か」
 "Hamlet〈ハムレット〉"
 いくら今に比べれば英語には縁の遠い世代だとはいえ、店主にもそのくらいの事は良く分かる。それほど有名な作品なのだ。『ハムレット』は。
「随分と、古い訳だったようですから。面白いものですね――訳する人が変われば、どこかしら物語も、違って見えてくるものですから」
「さすがだね。良くわかっているじゃないか」
 ――さながら同じ純音楽の曲を、楽団別に聴き比べてゆくかのような楽しさが、そこには色濃く存在していた。
 同じ曲も、奏者によっては違った風に奏でられる事もある。翻訳も、然り。同じ物語も、訳し手によっては全く別の世界を描き出される事もあるのだから。
「どれ、だったらわしも一緒に読ませてもらうとするかね。久しぶりだ、『ハムレット』なんてものを、読むのは」
 セレスのさり気ない一言に、知らず店主は大きく頷いていた。
 ……久しぶりの、感覚。
 随分と付き合いの長い大時計の秒針の音が、いつも以上に心に響く。
「良いんですか? そんなにゆっくりと、させていただいても?」
「どうせ客も来ないんだ。それに――面白い話も聞けそうだ、と思ってね」
 それは店主にとっても、古い世界に心を馳せる、久しぶりの機会であった。

 それから暫の間も、仕事の合間を縫いながら、この青年は初中後ここへと顔を出してくれるようになっていた。
 しかし、現地での仕事を終えてしまえば、そのような機会にめぐり合う事も、極端に少なくなってしまう。
 セレスがまた来ますよ、と言い残し、それから――六年、否、七年。



 穏かな言葉の応酬に、時計の針が調和を重ねてゆく。昔を思い返し、二人は話に、淡く小さな花を咲かせていた。
 セレスの買い取って行った本の話や、最近の古本事情も含め。雑談や、笑い話も、幅広く含め。
 しかし不意に、そこから会話の流れは、いつしかシェイクスピアの話から、『ハムレット』の方へと向い始めていた。
 不意に店主が、口にする。
 机の引き出しから、あの日と同じ本を取り出し、
「"To be, or not to be - that is the question."――」
 しかしセレスは、言わなかった。
 なすべきか、なさざるべきか、とは。
「在るか、それとも在らぬか、それが問題だ……ですか?」
 『なすべきか、なさざるべきか』
 最も有名な訳ではあるが、物語の本質を問えば、その文は時に、大きく変わって意訳されてしまう事もある。
 ――だがあくまでも、本質的な部分は一緒ではあった。原文には、捨ててはならない、作者の意図というものがあるのだから。
 しかし、
「……良く、おわかりで」
 言葉という音が他人に与える印象。それが大きく変わってきてしまうという事実は、否む事ができない。
 音楽に例えれば、そう、
 ――同じ音楽も、受け取り手が違えば、同じものではなくなってしまうのですよ。
 どれほど小さくとも、そこには必ず、相違点が生まれてくる。
「いえ……何となく、ですよ」
 だからこそ異国の本がとある国の言葉で語り変えられる時には、何通りもの訳があって何ら不思議ではない。『ハムレット』の原作は間違いなく一つでしかないが、だからと言って『日本語版ハムレット』が一つになるとは、限られるはずもないのだ。
 それほど言葉というものの世界は、広い。
 広いからこそ、すれ違いも生じやすい。自由であればあるだけ、本質を見失ってしまいそうになる。常々そこには、適確さが求められる――正解という答えの無い、形の定められない、適確さが。
 そうして、だからこそ、
「――この世への決別状、ですか?」
 セレスは言った。真っ直ぐに、布一枚の包みも無く。
 店主はその屈折の無い言葉を受け、一瞬の後、深く溜息を吐いた。
 ――やはり。
 キミは、鋭いから。気がついているのかも知れないな、とは……思ったのだがね。
 首を、振る。
 今日、セレスがどうしてここにやって来たのかはわからなかったが――つまりは、そういう事であったのかも知れない。
 店主自身も、気が付いていた。自分がもうここにいるべき存在でない事くらいには、確かに気がついてはいたのだ。
 しかし、それでも。
 ここにこうして、生活を留めているその理由は。
 店主の思う一方、セレスは続ける。
「ハムレットも、オフィーリアとの決別を決めるその前には、随分と悩んだものです。その先にあるのは、未知の世界――全く何が起こるのか、検討も、つきませんからね」
 シェイクスピアの三大悲劇の内の一つ、『ハムレット』は。弟に殺された王の亡霊に復讐を迫られた、王子ハムレットの生き様を中心とした物語でもあった。
 そうしてこの台詞は、その中でも最もな盛り上がりの部分に位置するものであった。
 迫り来る、復讐への決断の時。ハムレットには、自分自身の復讐に対して、ふと疑問を抱く瞬間があった。或いは亡霊は、自分の心の底にある幻なのではないか。亡霊に仕向けられた復讐は、果して本当に正しいものと言えるのだろうか――先の見えない、答えの見えない所で下さなくてはならない決断に、ハムレットは言う。
"To be, or not to be."
「私はハムレットの決断に対して、何を言おうとも思いません……彼の決断は正しかったのかも知れませんし、もしくは、間違っていたのかも知れません」
 そうしてハムレットは、運命の導きの糸を手に取る事を選んだ。
 ――復讐を、決めたのだ。父親の復讐を、
「けれど、その決断力には、素晴らしいものがあると」
 なす、と決めた。
「……私としては、天(うえ)に上がる事を、お勧め致しますよ」
 たとえこの時のハムレットの決断が間違っていたとしても、なす、と決めたその心の強さには――一歩を踏み出す事を決めたハムレットの心には、セレスとしても、強く共感してしまう部分がある。
 強い、決断力。
 そこには、
 ……揺ぎ無い、意思が無ければ、なりませんからね。
 だから、
「私にも、天の方がどうなっているのかはわかりません。しかし――それでも、」
 恐れるな、とは思わない。しかし、決意を決めて欲しい、と願う事はある。
「私が言ってしまえば、無責任なようにも思われるかも知れませんが……もうお店は閉めて、ごゆっくりとお休みになってはいかがですか?」
 語調はそのままで、しかし、訴えかけるかのように言い放った。
 ――そうして、暫く。
 大時計の針の、一秒、また一秒と、時を刻み過ぎる音。心なしか妙にゆっくりなその間合いに、感情の波がごくごく自然に溶けてゆく。
 会計には殆ど使われる事のないカウンターの上には、二人分のお茶と、『ハムレット』が載せられたままとなっていた。それを見守るのは、古びたレジスター。いつでも店主を見守り続けてきたのと、同じようにして。
 ……そうしてやおら、
 店主が立ち上がったのは、それから暫くしての事であった。
「……"To be,"だ」
 セレスは、何も言わない。ただ暖かな微笑を向け、薄闇の中に差し込む一筋の日溜りに、そっと心を研ぎ澄ませる。
「後の事は、宜しく頼んでも良かったのかね?」
「ええ、構いません。私で良ければ、決してこの店を、決して悪いようには、」
「キミなら大丈夫だ。――そうか、そうだ、行く前に、一つ聞かせてもらえるかね?」
 懐かしむかのように、店主はそっと天井を仰ぎ見た。決して趣のある場所とも、広い場所とも言えるような店ではなかったが、
「……どうして突然、わしの所へ?」
 愛着の深い場所ではあった。客は少ないが、様々な人には出会う事が出来た。場所が場所だけに、変わり者もまた多かったのだから。
 キミも、その内の一人なのだけどね。
 振り返り、店主はセレスの表情を伺い見る。
 セレスはカウンターの上においてあった自分の和茶の、最後の一口を口にすると、
「予感、ですよ」
 呟いた。
「何となく、来てみようと思ったんです。まさか、このような事になっているとは思いもしませんでしたが――本当に、すみませんでした。もっとここに、来ていれば良かったですのにね」
「キミは、いかにも忙しそうだからね。それに今日は、わざわざこんなに遠くまで――あの時は仕事の都合でこっちに泊まっていたんだろう? それが今回は、わざわざ来てくれたんだ。……嬉しいよ、とても」
 屈託もなく、微笑んで。
 そうして店主の気配は、文字通り日溜りの中へと溶け込んでいった。
 時計の秒針が、時を、刻む。一秒、また一秒、そうして、一秒――二秒、二秒、瞳を閉ざすセレスを取り残し、三秒、三秒……延々と続き、やがては、
「止まった……?」
 二つ並んだ、和茶の湯のみ。『ハムレット』。
 しん、と不意に静まり返った空間に、風の音が鮮明に響き渡る。そこで初めて、セレスは再び顔を上げていた。

 ――そうして。

 セレスは再び、店のドアの前にいる。
 余計なお世話ではあるかも知れないが、この店を放置しておく事など、セレスにとっては心苦しい事この上なく感じられた。
 だからこそ行動を、起こさなくてはならなかった。
 店主の家族にも話し合った上で、できるだけ、あの人が生きていても微笑んでいられるようにしておけるようにと。
 ……それが、一番でしょうから。
 しかし、一先ずは、この時だけは。
「長い間、お疲れ様でした」
 路地を後にするその前に、セレスは一度だけ、建物の方を振り返る。
 またいつか、お会いできると良いですね、と。またいつか、この場所に来れるその日を――と、ほんのりと、労わりと、感謝の微笑を向けながら。
 ――その一角では、彼の手によって"Open"から"Closed"へとくるりと表裏を切り替えられたドア札が、来た時と同じようにしてゆらゆらと揺れているのみであった。


Finis


26 gennaio 2004
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki