|
Frankly lazuli eye
いつからこうして歩いているんだろう……。
ずっとこのままじゃいけないと分かっているのに、唇が震えて言葉は出て来ない。
私は、先日の事件を思い出して胸が熱くなるのを感じた。
視界には九郎の背中。
足元は少しひび割れたレンガの歩道。
どれも昔から同じで、何も変わらないと信じていた――いや、信じたかったはずなのに、指が痺れ目が虚ろに景色を映す。
違うよ。
どうするかは、自分次第なんだよ。
と、声が降るように。
そっと唇に触れた。冷えた指が体に刻み込まれた熱を思い出させた。
彼女にとっては、事件というほどのものでもなかったのかもしれない。
でも、俺にはとても重要で胸が痛い出来事だった。そして、目を閉じるごとに蘇る感覚。甘い香り。咄嗟で避け切れなかったんだと、本当に恵那の前で誓えるだろうか……自信はない。
元忍の俺がかわせないほどの距離だったと、今では思えないのだ。吸い寄せられるように、唇を重ねてしまったのかもしれない。
目の前にあった、恵那の唇に――。
黒いコートのポケットに両手を突っ込んで歩き続けた。背後で、ずっと変わらない関係と諦めていた幼馴染の気配がする。
目指しているのは、思い出の公園。
俺は告げなくてはいけない。長年、降り積もった彼女への想いを。
届かなくても、叶わなくても。
運命ならば受け入れる。そして、もう俺の心には誰も住むことはないだろう。
ただの友人を演じ続けてやるよ。
+
北風が落ち葉を舞わせている。人気のない公園のベンチ、ブランコ、たくさんの遊具達。どれも寒そうに、冷えた金属音を立てている。
「寒いな……」
たった一言、恵那が声を零した。
懐かしい風景の中に、ふたりは佇んでいた。
子供の頃よく遊んだ公園。忍者であった九郎はよく、厳しい修行に耐えられず涙していた。それに唯一気づき、そっとハンカチを差し出したのは恵那。照れ屋で自分の慈善行動をはぐらかしてしまうけれど、九郎にはちゃんと分かっていた。
想いは通じ合っているのに、それが恋愛には発展しない。それはどのご時世でも同じ、幼馴染という打破しずらい関係の難しさだろう。
すっかり葉の落ちた楡の木。
地面から張り出した根を蹴って、恵那が顔を上げた。
もう、永遠と思えるほど続いている沈黙。
耐えられなかったのは、恵那だけではなかったようだ。
「あ、あのさ……」
「九郎は――」
目がしっかりと合う。慌てて、視線を反らして同時に叫んだ。
「先に言いなよ」
「恵那が先に言えよ」
また、始まってしまった沈黙。風が錆びたジャングルジムの間を擦り抜ける。恵那はフレンチコートを抱きしめた。息がすぐに昇華して白く舞い上がる。九郎の足元をじっと見つめた。
一歩。
彼の足が前進した。
恵那の体に緊張が走る。蘇る記憶。
触れ合った唇は、溶けるように重ね合わされた。一瞬だったのかもしれない。でも、熱い吐息が掛かって眩暈がしたことを彼女は知っている。
すべてが、スローモーションの世界。
目を閉じた。すぐ傍で聞きなれた声とは違う、低い男の声がした。
「恵那……俺、俺は――」
真摯な目。顔を上げた恵那の心臓を跳ね上げる。
僅かだが、言葉を続けようとする九郎の表情が曇った。
――?
「…俺は、ずっと昔から恵…那のこ……と――」
突如、声が途切れた。
恵那に持たれかかる様に九郎は倒れた。
「九郎!? 九郎!! ……や、やだ! 返事しなさいよ!!」
異変が緊急を要するものだとすぐに分かった。支えた恵那の手のに真っ赤な血液。仰向けに倒れた九郎のコートの下、右わき腹にどす黒い血糊が見えた。
「ま、まさか……九郎、お前――」
震えながら、それでも手際良くシャツを捲り上げた。鋭利な刃物で刺された跡。周囲の細胞は青黒く変色しすでに壊死し始めていた。
九郎は無理をしていたのだ。恵那との約束を破りたくなかった。そうこれは、一生で一度のチャンスかもしれなかったのだから。
だからこそ、先日の依頼で受けた傷が完治しないまま、この場所に立っていた。
運命の神は、九郎の想いを最後まで聞き入れてはくれなかった。
「そうです! 至急お願いします!! 行き先は数藤クリニックです!! はい。はい、私はそこの院長ですから」
天才的な医者である恵那。いつもの冷静さを失っていなければ、さっきの表情で気づけていたはずだった。いや――出会ったその瞬間に気づけたはずだったのだ。
救急車の到着を待っている間、恵那はずっと後悔し続けた。彼を背負って、公園の入り口へと向かう。
「九郎のアホ――。まだ…まだ好きとか何も伝えてないんだ……死ぬな…!」
涙で視界が曇る。強引に拭った。
私が絶対に助ける。助けてみせる。泣いてなんかいられない――!
凛とした瞳。
涙に濡れていても、なんて強そうな俺の女神。
朦朧と薄れ行く意識の中で、恵那の心を知った。
死ねない。
こんな、こんなかわいい女を置いて、俺は死ねない――。
闇が光を消した。
――数藤クリニック、緊急処置室。
白衣に着替えるのももどかしく、ドアを開いた。横たわっているのは九郎。血の気の無い顔が別人のようだ。目をそらしたい感情を押さえ込み、恵那は彼の前に立った。
「意識レベル300! 稲近さん、バイタル!!」
「血圧180の102、脈拍95、呼吸数33」
「ヘマトクリットはどれくらい!?」
「26%です」
激しく貧血が進行している。手術と同時に輸血を行う。きっと傷を負ってから、血が止まっていなかったに違いない。
――バカ、九郎!! 私との約束なんか、無理して来なくてもよかったんだ!
「壊死が始まってる、敗血症の創部を確認する」
それが彼の優しさだと知っている。
いつでも自分のことを一番に考えてくれている。本当は気づいていたのに。
素直になれなかった自分が、こんなにも愚かだったと……失いそうになって始めて気づくなんて、私の方こそ馬鹿だ。
死ぬな!
九郎は忍なんだから、底力を見せろよ!
「生理食塩水もっとかけて!」
「は、はい!」
冷静に行動しながら、心で叫んでいた。
途切れそうになる意識。
飛び立とうとする大切な人の魂を繋ぎとめるために、恵那は懸命に指を動かし続けた。
+
「…なぁ、あの時なんて言った?」
九郎が夜間診まわりにきた恵那に声を掛けた。
彼の意識は2日後に回復していた。すべての膿瘍は取り去られ敗血症の危険は去った。傷口も綺麗に縫合されて、おそらく跡すら残らないだろう。
入院から4日目。
ようやく、自分で歩けるほどになったのだった。
その間、九郎の介護を恵那は誰にもさせなかった。例え、手術が続いて寝不足でも、ずっと寄り添っていた。
「…お前こそなんて言おうとした……?」
初めてのふたりきり。
蘇ってくる緊張。
恵那はベッドサイドに腰掛けて、彼の言葉を待った。
閉じていないカーテンの隙間から、月の光が暗闇を照らす。浮かび上がる互いの顔。
九郎の左手が恵那の眼鏡を外した。指先が乱れた黒髪を整える。
「こういうことだよ……」
近づいた顔と顔。唇が出会う。
熱い吐息が恵那を包んだ。重なり合った唇が火照る。
九郎が離れた後に訪れたのは、沈黙。
――しかし、公園でのそれとは違う、どこか甘い時間。
「……ホントか?」
恵那が緑色の瞳をまっすぐに九郎に向けた。
それを九郎も真正面から受け止める。
ベッドに置いた恵那の手。ずっと触れてみたかった肌。
今、手に入るかもしれない。
――いや、手に入れてみせる。俺はこの時をずっと待ち続けていたんだから。
「ホントだって…信じさせてやる」
今度は強く抱き寄せられ、恵那はくちづけられた。
瞬間的に離れていく唇。
心臓の音だけが、静かな病室に響いている。
頬が上気するのは自然の摂理。
だって、私は九郎が好き…なんだから――。
本当はずっとずっと昔から、愛しくて仕方ない人だったんだ。
ウソをつくのも、強がりを言うのも今日が最後。
「信じてやる…よ」
呟いて、今更照れくさいのかを向いてしまった九郎に抱きつく。
キスを返した。
溶けていく身も心も。自分達を縛っていた『幼馴染』という膜はもう取り払われた。
「九郎……お前が知らなかっただけなんだぞ」
「わかりましたよ……お姫様」
幾度もかわし合う甘い行為に、月も照れて雲のその姿を隠す。
――俺の恵那。お前が嫌っているその瞳。
翡翠から蒼へと変化するその瞳すら、俺は愛しいよ。
「隠してくれるな」
「ん…何を……?」
「いや、なんでも――」
恵那の言葉を遮るように、九郎は激しく唇を吸い上げた。
零れる吐息が耳に心地いい。
月が彼の恨み事を聞いていたのか、雲から顔を出した。
生死の狭間をさ迷ったことすら、吉事だったと九郎は思う。
恵那はこの一瞬が幻でないことを月に祈る。
夜はふたりを照らしながら、更けていく。
瑠璃色の世界の中で――。
□END□
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
初めましてvv ライターの杜野天音です!
とても甘い作品を書かせて頂きありがとうございました♪ 恋愛系書くの好きなので、
楽しんで書くことができました。如何でしたでしょうか?
恵那さんが医師ということで、臨場感を出すためにも専門用語が必要でした。これには
「Dr.コトー診療所」を参考にさせて頂きました。多趣味なのも役にたつものですね。
九郎さんは本当に恵那さんが好きなんだなぁと、微笑ましく思いました。怪我をおして
まで、約束を守ろうとする人はなかなかいませんから。
それでは、今回はありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
|
|
|