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<東京怪談ノベル(シングル)>


いつもと同じ帰り道。周りには動く人影はない。
街灯はないが、今夜は満月が進行方向から顔を覗かせていて、等間隔で立つ電柱の影が森のように伸びていた。
そんな道を、花瀬祀は足早に通り過ぎようとしていた。赤いポニーテールが踊るように左右に揺れる。
「まぁったこんな時間になっちゃった」
ちらと視線を動かして確認すると、腕時計の針は両方ともてっぺん近くを指していた。
「あそこって、居心地良いから時間が経つのも忘れちゃうんだよね」
家とは違ってという言葉を、言ってはならない呪文のように封印して、祀は歩くのを速めた。
父は嫌いだが進んでいがみ合うこともない。一応学校帰りに電話は入れたが、たぶん小言が雨のように浴びせかけられることだろう。
「出てくれたのがおばあちゃんでよかった」
優しい祖母の顔を思い出す。こんなに遅くなるとは思っていないのかもしれない、彼女を悲しませることは祀の望まないことだった。
「ちょっと近道しようかな」
祀は、黒く影のようになっている神社の木立を見上げてつぶやいた。普段は通らない場所だが、ここを抜ければ自宅まで十分は稼げる。
前にこの怖いもの知らずのせいで痴漢にあったというのに、そのことは祀の中に怖い思い出として残ったわけでは無いらしい。
「ていうか、選択肢もなさそうだしね」
スカートを潔く翻して、祀は神社の方に一歩踏み出した。

神社の闇は思ったより濃い濃度で、祀は身体にまとわりつくような感じを覚えた。人の気配はないが、何か別のものが空気中に溶けている感じがする。
「え?」
その暗闇の真ん中で、祀は誰かに呼ばれたような気がして立ち止まった。視線を声のした方に向けると、一層濃い闇がある場所があった。
「なんだろ、あれ?」
好奇心が理性に勝って、祀はその暗い部分に近づいていった。
「祀」
あと少しと言う場所まで来たとき、今度ははっきりと祀の名が呼ばれた。声に引かれるように足を速めると、祀は飛び込むようにして闇に入った。
闇に飲まれる瞬間、薄い膜のような抵抗を感じたが、祀がそのことを考えるより早く風景が一変した。
「え、ここは……中学?」
確か真っ暗な神社の中にいたはずなのにと、祀は視線を周囲に走らせた。夏特有の粘つくような夕暮れが周囲に広がっている。やはりここでも人影はない。
祀がどうしようかと思案にふけっていると、遠くから空気を震わせて高い切り裂くような音が聞こえた。
「あれは、まさか……部長?」
祀の胸に痛いような、暖かくなるような複雑な感情がわき上がった。校舎を周り音のする方に近づくと、そこにはやはり彼がいた。
夕陽の赤を受けて立つ姿はあの頃と同じ凛々しさで、祀は鼓動が大きくなるような気がした。
誰にも分け隔て無く接し、男ギライの祀をからかう男子部員の中傷から助けてくれた部長。フェンスの網に手を添えながら、一本の矢のように集中している彼の背中を見つめた。
父親のせいで男に不信感を持っていた祀だったが、彼の態度は人として真摯で好ましかった。だから中二の夏、部長が祀を好きだという噂が流れた時、否定する言葉の裏でどこかそれを嬉しいと感じる自分がいたことは誤魔化すことのできない事実だった。
あの時の情景は輝く夢のような光として、いまも祀の心に残っている。
見つめていると気配に気がついたのか、部長は構えていた弓を下げて、祀の方を振り返ろうとした。
「部長」
祀はつぶやくとフェンスに掛けた指に力を入れた。あと少しで視線が合うという瞬間、部長の姿がぶれた画面のようにざらざらとした映像となってかき消え、風景はまた一変した。
「え?」
周囲にうるさいほどの太鼓と笛の音。祀の周囲に雑踏の流れができ、色とりどりの屋台が人の間から見える。
「お祭り?」
正面の人並みが裂け、その向こうに部長と祀自身が並んでいるのが見える。
「ああ……ここは、そうだわ」
中二の夏休みだ、部長に誘われて来たお祭りだ。あの噂が流れたあと、祀は部長に夏祭りに行かないかと誘われた。放課後のとろりとした空気が蜜のように流れている日だった。
別に断る理由もなかったからと言い訳する心の底に、部長への微かなあこがれがあったんだということが今の祀になら判る。そうでなければそれからお祭り当日の一週間、くすぐったいような優しい気持ちでいたことの説明がつかない。
目の前を通り過ぎる過去の祀は、浴衣に合わせて結い上げた髪を、ときおり緊張したように触りながら嬉しそうにはしゃいでいた。祀の歩調に合わせて歩く部長も楽しそうで、あちこちの屋台を指さしながら笑って何か声を掛けていた。
「あのことさえなかったら」
この後のことを思い出して、祀はつぶやいた。あのときも楽しくて門限を忘れていたんだった。

また風景がざらざらとしたものに変化し、場面が変わった。
「あの、帰ります」
「花瀬!」
両肩に置かれた部長の手を振り払うと、祀は駆け出した。浴衣の裾が暗闇に白くひるがえり、絞りの赤い帯が金魚の尾のように揺れた。
あのときはただ怖くて、後ろを振り返る余裕なんて無かった。自宅に帰ると門限を過ぎていたせいで、予想どおり不機嫌そうな父の雷が落ちた。だからあの後部長がどうしたかなんて少しも考えなかった。
苦いような後悔と、つき合わないかと言ったときに、部長の見せた獣のような瞳が目の前に何度も蘇った。
今、目の前にいるのはそんな祀の知らなかった部長だ。彼は後悔したような目をして伸ばした腕を力なく落とすと、大きなため息をついた。
天にかかる満月を仰ぐと、部長はポケットの中に手を突っ込んで何か取り出した。それが何かを確認するより先にまた視界がぶれて、今度こそ祀は神社の濃い闇の中にいた。車酔いのような感覚が身体を支配している。
祀はぼんやりと時計を確認するが、時間はさっき確認したときからまったくといっていいほど経っていなかった。空気はやはり何かを溶けこませたように粘度があった。
「帰らなきゃ」
落とした鞄を拾おうとかがむと、地面の一部が薄く光っているのが見えた。空気に溶けこんだ気配はどうやらあそこから発生しているようだった。
「?」
かぶっている土を払い光っている物を手に取った。頼りない月明かりにかざすと、ぼろぼろの紐が結ばれた、錆びた小さな鈴のように見えた。
祀は今度こそ理解した。あの日部長がポケットから取り出した物、それはきっとこれだったんだ。震える手で胸に抱くと周りにあった重い気配が泡のように消えていった。
「見つけて欲しかったんだね」
渡されることの叶わなかったあの日から、気持ちを込められた鈴はずっと祀を待っていたんだろう。こうして手に取られることを願っていたんだろう。
「一緒に帰ろう」
あのころ部長に抱いていた思いは、心の中から消えてしまっていたけれど、きっと思い出としてちゃんと残って行くんだと祀は思った。降りそそぐ明るさに空を仰ぐと、さっきより月が大きく見えるような気がした。