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<東京怪談ノベル(シングル)>


この手が届く範囲


 失って初めて大切だったと気付いても、それは既に手遅れなのだ。どれほど取り戻したいと望んでも、もうけして叶わない。

 武田一馬は、誰もいない真夜中過ぎの街を錆だらけのバイクで駆け抜けながら考えていた。
 自分以外の誰も操ることの出来ないこの750ccの相棒が目の前に現れたあの時、自分は何を思っていたのだろう。
 全ては、何の予兆もないままに唐突に失われる危険を常に孕んでそこにある。
 そんな『現実』を激しい痛みとともにこの身に刻まれたあの時、自分は何を感じていたのだろうか。
 日付が変わる境界線を、本来ならば存在するはずのない『この世ならざるもの』で踏み越えて、一馬はある場所へと向かった。

 記憶が、緩やかに時を遡る。



「お、一馬、ちょっとこれから付き合えよ」
 2階の自室から降りて来た一馬を捕らえ、ライダースーツに身を包んだ父親が玄関から手招きする。
「これから港まで飛ばすんだ。すっげえ気持ちいいぜ?」
「ヤダ」
 そんな姿を一瞥し、悩むそぶりも見せずに拒否を示して居間へ向かうと、その背中を往生際の悪い声が追いかけてくる。
「なんだよ。いいじゃねえか。親と走ったって減るもんじゃねえだろ?」
「ヤダ。減る。」
「つめてえなぁ、一馬。何のために16でバイクの免許を取らせてやったと思ってんだよぉ」
「オレ、別に好きで取ったわけじゃねぇもん。親父のワガママだろ?」
「親孝行しろよなぁ」
 ぶつぶつ言いながら、父親は扉の向こう側に消えた。
 こんなやり取りが、一馬と父親の間で1年に渡って交わされ続けている。
 それでも諦めるということを知らないかのように、父親は、どれほど素気なく断ろうと懲りずに誘いをかけてきた。
 そのたびに、一馬は拒絶を繰り返すのだ。
 排気音を微かに拾いながら、一馬は居間の扉に手をかけた。
「あら?お父さん、また出かけたの?」
 物音で気付いたのか、食器を洗う母親が手を止めて自分の方へ振り返る。
「うん。港の方まで走ってくるってさ」
「そう……あんたは行かなくていいの?」
「行かない。オレ、バイク好きじゃないもん」
 ヒマさえあれば真夜中だろうか構わずバイクで飛び出していく奔放な父親と、言葉には出さなくとも寂しそうに取り残されている母親の姿を、自分は物心つく頃からずっと見てきた。
「オレ、いかないから……母さんが寂しくなるようなことしないから………心配しないで」
 母の背中に聞こえない微かな声で、一馬はそっと呟いた。
 意地なのかもしれない。
 でも、決めたのだ。
 だから、何度誘われようと、自分はけして父親と出掛けたりはしない。
 ふと窓から外をみると、今年に入って初めての雪がちらつき始めていた。
 そういえば、夕方のニュースで今夜はかなり冷え込むとか、路面の凍結に注意しろとか、そんなようなことを言っていた気がする。
 瞬間。
 言い様のない予感めいたものが、ざわりと全身を走った。
「………なんだ、これ」
 ざわざわざわざわ――――
 五感のどれでもない、全くベツモノの感覚が一馬の神経を苛む。
 例えばそれは、なにかと噂の多いトンネルを抜けた時。あるいは、三面記事に載るような悲劇の現 場を通りがかった時。あるいは、叔父が写した曰くつきの写真を手にした時。
 幼い頃から触れてきた、こことは違う存在が潜む世界からの声なき声。
 だが、それを明確なカタチに変えることが一馬には出来なかった。
「………なんでもない、なんでもない……」
 不吉な考えを振り払うように、TVのボリュームを上げた。
 深夜枠のバラエティ番組が、丁度始まったところだった。
 不意に、電話のベルが鳴り響く。
 びくりと心臓が跳ね上がった。
 パタパタと台所から出てきた母親が、濡れた手を拭きながら電話を取った。
「はい、武田です。――――あ、はい…はい、そうですが………夫が何か…………」
 一馬は振り返ることが出来なかった。
 背後で交わされる母の言葉のトーンが次第に暗く沈みこんでいくのを聞きながら、自身の内部で必死にわき上がる不安を押さえつける。
 なんでもない、なんでもない、なんでもない。
 呪文のように頭の中で繰り返す。
 考えてはダメだ。現実になってしまう。言葉にしてはダメだと必死に言い聞かせ、ひたすらTVに集中しようと試みる。
「一馬………」
 そんな懸命の努力を、母親の声が止めた。
「どうしよう、一馬……お父さん…事故で死んじゃったって…………」
 妙に現実感の薄い彼女の言葉を聞きながら、一馬は頭のどこかで『ああ、やっぱり』とぼんやり考えていた。


 それから後の時間は、ただひたすら目まぐるしく過ぎ去っていった。
 友引などの関係から慌しく執り行われた通夜には、会社の付き合いの他にも、父の昔からの友人だという者たちが何人も訪れた。
 仲間内でも父の結婚は随分早かったらしい。
 中学の頃から無免許でバイクを乗り回し、悪いこともけっこうしたとか、飲酒喫煙は当然だったとか、それでも結婚後はすっかり落ち着いてしまったとか。
 そんな昔話が、一馬の前を通り過ぎていく。
 来月40歳の誕生日を迎えるはずだった父。
 なにもかもが想い出にされていく中で、一馬は喪主を務め切れない母の分まで必死になって場を取り仕切った。
 冷たい霊安室の奥で、白い布を被っていた父。それに取り縋り、半狂乱で泣き叫んだ母。それを呆然と見つめていた自分。
 あの瞬間が、ひどく遠い日の出来事のような気がしてくる。
 どこか現実感を欠いたまま、葬儀が終わり、初七日が過ぎていく。
 遺影の中の父親は、ライダースーツを着て、子供のような笑顔を弾けさせていた。


 しんと静まり返った居間でひとり、一馬はソファに背を預けて、ぼんやりTVを眺めていた。
 画面から放たれる明かりだけが、自分を仄かに照らす。
 スタジオで沸き起こる楽しそうな大勢の笑い声が、白々しく部屋の中に響く。
 目は確かにそれを見ているのに、意識は上滑りしていて、内容が先ほどからちっとも頭に入ってこない。
 母は既に寝室で眠っている。
 とにかく眠るようにと言ったのは自分だ。
 せめて初七日を過ぎるまでは、と、この家に滞在してくれていた叔父も今はもう自宅に戻っている。
 そうしてもたらされた、ひとりきりの時間。
 昼間ならば、友人に電話をかけることも出来たかもしれない。
 母を気遣い、やらねばならない雑多なことに追われて気を紛らわせることも出来たかもしれない。
 だが、今はもう何もすることがないのだ。
「…………親父……」
 不意に、最後に見た父の背中が思い出される。
 最後に交わした言葉。最後の姿。もう永久に、父親は自分をツーリングには誘わない。
 そんな当たり前の事実が、唐突に自分の中に実感を伴って降りてきた。
「…………もう…ダメなんだ………」
 膝を抱きかかえ、小さく蹲る。
 いまさらだ。
 彼の声を拒み続けてきたのは自分なのだ。
 それなのに。
「……………一回くらい…」
 本当にバイクが好きだったと、息子と一緒に走るのが昔からの夢だったのだと、通夜の席で惜しむように他人の口から告げられた言葉が、一馬の胸に突き刺さり、じくじくと痛みを与える。
 どうして自分はあの時、首を縦に振らなかったのだろうか。せめて、雪が降るから気をつけろと、そう声くらい掛ければよかったのに、どうして。
 どうして。
「………………父さん……」
 思考が闇の底へと滑り落ちていく。
 それを止める術を一馬は知らない。
「くそっ」
 このままでは、加速度を増して膨れ上がる後悔に押し潰されてしまう。
 自分の中で渦を巻く様々な思いから逃げるように、一馬は上着も羽織らずに家を飛び出した。
 凍えた夜気が肌を貫く。白息が上がる。それでも走り続ける。
 幽霊でもいい。
 せめて一度でも、父親と走りたい。夢を叶えてやりたい。応えたい。応えて欲しい。
 あの750tのバイクに、せめて。
 闇雲に駆け回った末に辿り付いたのは、小さな児童公園だった。
 体力が尽きた一馬は、息を乱しながらそこに蹲り、強く願った。
「父さん……」
 きつく眼を閉じ、頭の上で両手を固く結んで、押し寄せる後悔と罪悪感に耐えながら、一馬は願う。
 せめてもう一度。
 せめて、幽霊でもいいから。
「…………あ」
 弱い誘蛾灯だけが明かりを投げ掛けている他は何もない空間。
 その中で、握り締めた両の手のひらが光を生む。
 まるで一馬の想いに呼応するかのようにそれは強度を増し、溢れた光は幾筋もの柱となって地面から立ち上がる。

 ず、ずずず、ずずずずずず―――――

 地の底から引き摺られるようにしてその片鱗を窺わせているのは、錆付き、塗装の剥げ落ちた廃車寸前のバイクだ。
 自分はこれを知っている。
 間違えるはずがなかった。
 17年間、一番傍で自分はそれを見てきたのだから。
 強く念じる。強く強く、必死になって、その全てを引き摺り出すために、一馬はありったけの想いを両手に込めた。
「………父さん……」
 自分が召喚したものに、そっと手を伸ばしてみる。
 触れられる。確かにここに存在している。
 事故に遭ったあの時、父と一緒にこの世界から永久に消えてしまったはずのバイクが、ここに在る。
「父さん―――っ」
 あの雪の夜に突然訃報を告げられてから初めて、一馬の瞳から涙があふれた。
 堰を切ったように、涙は止まらない。
「父さん、父さん、父さんっ!なんでだよ、どうしてだよ!!」
 再びこの世界に取り戻せた父にバイクに縋り、誰もいない真夜中の公園で、一馬は小さな子供のように誰に憚ることもなく大声をあげて泣いた。



「…………父さん……」
 誰もいない、明かりもほとんど届かない灰色の世界。
 父の名が刻まれた墓石の前で、一馬は合わせていた両手をそっと離し、3年前の記憶を締めくくるようにゆっくりと目を開けた。
「……あのさ……今、オレ、父さんのバイクでいろんなことしてる……人助けみたいなこと、やってるんだ」
 そうしてポツリポツリと、何も言わない相手へそっと語りかける。
「……なあ、これってさ、父さんと一緒に走ってることになると思うんだけど……どう思う?」
 去年だけで、片手では足りないくらいの、そして、普通に大学生をやっていれば一生出会う事のない数奇な事件に関わった。
 その全てが納得の行くハッピーエンドを迎えられたわけではない。
 堕ちていくもの全てを、人の身である自分には掬い上げることは出来ないのだ。
 それでも、手を伸ばす。
 失って初めて気付く大切なもの。
 せめてもう一度だけでもと願う強い想い。
 二度と還らない時間があると知っているからこそ、足掻かなくてはいけないと思うから。
 取り返しの付かない現実に『誰か』が押し潰されようとしているのなら、自分は自分のできる精一杯の力でそれを回避したいと願うのだ。
 この両手は多分、それを叶えるためにある。
「あのさ、後でもう一回……日が昇ったら今度は母さんと叔父さんの3人で来るから……」
 墓石をきれいに掃除し、故人を偲びながら新しい花と線香を添える。それは、こんな真夜中ではなく、日の光の中で母と叔父とでやりたかった。
 だから、今は一年分の報告だけを残して、その場を離れることにした。

 父親のバイクに向かって歩き出した一馬の肩に、ふわりと白い結晶が舞い降りる。




END