コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


途切れた糸

自らが汚れるのは好きじゃない――そんな、事を考えながら藤水和紗は夜の街を歩いていた。
自らが、欲する匂いを探すかのようにゆっくりと。
食事の際には和服ではなくて洋服に着替える。
これは和沙にとって変わらない信念の一つだ。
洋服なら、幾らでも変えが利くし汚れてもさほど気にはならない――ああ、そうだ。
エサを選ぶ時の気分に似ている……洋服を着る時は。

それに、と。
和紗は唇を楽しそうにあげながら思う。
元々女性と見紛う様な容貌ではあるけれど、更に綺麗に装えば、男だろうと女だろうと気にしない男性の何と多いことか。
目が合い、こちらが微笑んだだけで尻尾を振って着いて来るのだから。

(――……過ごしやすい、世の中になったものだ……)

生を受けて3世紀と18年ばかり。
昔は、ひっそりと「食事」をしていたことが嘘のような気分にもなってくる。
怯えたように毎日を過ごし狩りをしていた事さえも。

今夜のエサはどれにしよう?
その血から、肌から香る馨りは束の間だけでも自分を良い気分にさせてくれるだろうか。

不意に。
抗いがたい馨りを感じて和紗は一人の男性に声をかけた。
二言、三言、言葉を交わす。
触れてくる手を払いのける事もなく道外れへと歩いてくれる青年に感謝を感じながら、もっと良い馨りがあった事を和紗は瞬間的に思い出していた。

(あれは――確か………)

人目につかないように生きてきたはずなのに迫害された時代の事だったろうか……。
かなりの深手を追い、それでも尚、逃げていた日々。
エサもさほど無く……森の中の動物たちから血を貰うしかないまでに、追い詰められ選択肢も無かったあの時。

――森から然程も離れていない、とある街で倒れていた自分を拾ってくれた人物が、居た。

何よりも食指を動かされるような極上の血の馨り持つ、人物が。



                    +++


(初めの内は………――)

どうやって食べるか、そればかりを考えていたような気がする。
記憶を操作できるとは言え、怪しまれないように食事を出来るのならばそれに越したことは無く、またそうするのが当然の事でもあったから。

だが、倒れていた自分をかいがいしく看病してくれ泥で汚れた顔や手足を嫌がらずに拭いてくれる青年に対して、いつしかそんな考えは露と消えていた。

「…どうして、助けてくれたんですか?」

ある日の事。意を決して和紗は聞く。
すると。

「そりゃ目の前で倒れてたら、普通…声をかけるし生きてるかどうか確認するだろう?」

何を当然のことを、と言う様な返答が返って来て。
その問いに和紗は一瞬、どう答えて良いか解らなくなってしまう。

(そう、思えるのは……周りの人々に恵まれているからなのだろうね)

血の馨りからも解る、人に愛される資質を持つであろう人種。
身体は弱いけれども強い心を持つがゆえに許される馨りだった。
室内の中を見渡せば生活は裕福とは言えない。
いいや、生活していくのに苦しい方だと解る。

なのに、彼は微笑うのだ。
何の迷いも無く――強く、強く。
彼の描いていた絵のように強い力で。

「……ああ、そうだ」
「はい?」
「……いつまでも名前が無いと言うのは不便だろう? 和紗…って名前はどうかな?」
「どう、書くんですか?」
「こう言う文字だよ。和する、の和と……糸と音を示す少とを合わせた……薄絹の意味がある紗。どう?」

紙に文字を書きながら、青年は言うと再び和紗にどうか聞いてきた。
それでも尚、考えている和紗を見、
「髪がね、まるで絹のようだったから」
そう、付け加えてくれ…漸く和紗も笑って頷くことが出来た。

「ああ、笑ったね……そうしている方がよほど良い」

青年の言葉に和紗は、初めて何処かが痛むのを感じた。
今まで、感じよう筈が無い痛みに――戸惑いを覚えながらも。


                    +++


道外れの人目につかない場所で和紗は、甘さを感じる赤い液体を啜る。
咽喉の奥から青年が低く、苦しげにうめく声。
でも、それも束の間だ。
暫く経てば、声さえ立てることも忘れてこちらにしがみついてくる。

(血は、また作れば良い――生きている内ならば、幾らでも作れるのだから)

そう、生きている内ならば…………。

生きてこそ、いるのなら――――

再び和紗は昔の記憶を辿る。
自分に名前を付けてくれた人のことを、思い出しながら。

(あの時、感じた痛みは…なんだったのだろう?)

ある日。
使っていたもので悪いのだけれど、と青年は和紗へと絵筆を差し出した。

「…どうして?」
「…僕は、もう使えなくなるからね。良ければ、使って欲しいんだ」
「何でそんなことが……」

解るんだと和紗は問いたかった。
肩を掴んで無茶苦茶に青年を揺さぶってやりたかった。

……が、それらは全て無理な願いであるとも知っていた。

和紗を拾ってくれた当初に比べ青年は、今はもうすっかり細くなり一日に何度も苦しげな堰をしては喀血を繰り返す毎日があり…何度、医者を呼んだか知れない。
だが医者も「もう手の施しようが無い」と首を振るばかりで日に日に、切れていくだろう生命の糸を和紗も感じざるを得なかった。

(もう俺には頷くことしか出来ないとも知っているのに)

「もう一度聞く…使って、くれるんだろう?」
「……はい」

その言葉に安心したように青年は微笑み、そして――次の日には眠るように逝ってしまった。

それは、あっという間に穏やかな日々が消えた瞬間でもあり――何故かどうしても食べることが出来なかった彼を見ることが出来なくなった瞬間でもあった。

思い返せば、様々な記憶が走っては鮮やかに浮かんでいくのに。
ざっと描いていた絵を見たときに微笑んでくれた表情も。
好き嫌いがあまりに多い自分を見かねたように「食べなきゃ駄目だ」と諭そうとしてくれた事さえも。
少し呆れたときに声がやや上ずってしまうことさえ思い返せるのに。

血を、飲みながら「ああ」と漸くある考えが浮かんだ。
こうして、血を貰ってしまえば――記憶を消すだけ、たったそれだけの存在。
当然だ、和紗だとて食事をしなければ生きていけない。
食べるものが違うだけ、それだけなのだから。

なのに、どうしても食べれなかったのは――

(俺を見てくれるその瞳が消えることが、怖かったんだ)

名をくれ、和紗と名を呼び、絵筆を与えてくれた人。
彼の記憶から、自分自身が消えてしまうことがどうしても耐えられなかった。

最期まで俺がいたという記憶を、途切れるだろう最後の日々の記憶を、違えることなく持っていって欲しかった。

(……もう、二度と逢えなくなるから尚更に)


ぐったり倒れこむ青年の冷えた手を感じながら和紗は青年の記憶を丁寧に消していく。
これらは一夜の夢のようなもの。

「――……おやすみ。名前も知らない"誰か"さん」

だから、「食事」の時には誰の名前も聞かない。
呼ぶべきものではない、から。

ゆっくりと街を歩いていたのと同じように再び和紗は歩き出す。
倒れている青年を振り返ることも無く、夜の喧騒の中を。


かつて、遠い昔に自分に名を与えてくれた人が居た。
途切れた糸の向こうに、和紗が胸の痛みを覚えるほどの優しい微笑を浮かべながら。




―End―