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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


海には届かない願い


 その日は東京の骨董品屋『櫻月堂』の暖簾が下がっていた。
 店主の武神一樹と、店員の草壁さくらが、連れ立って小さな漁村に来ていたからだ。村の名前を一樹は失念してしまった。
 ふたりはこの漁村のさる家から、商談を持ちかけられていた。蔵を整理したところ、幻の『潮騒焼』が出てきたというのだ。
 漁村は太平洋に面した小さなもので、背後はせり出した山脈の原生林に囲まれ、ちょっとした陸の孤島であった。心なしか古びた潮の香りを嗅ぐと、不思議と一樹とさくらは――不快感と不安に胸を掴まれた思いを抱いたのだった。
 潮騒焼がみつかった家は、この漁村に住む一族の本家であるようだった。古いが、屋敷は大きかった。木の床や柱が、潮の匂いを吸い込んでいた。木と潮の匂いは混ざり合い、奇妙な匂いを放っていた。
 屋敷の主は何とも奇妙な顔立ちをしていた。いやに目と口が大きく、まるで蛙のようだ。首が太く短いので、ほとんど頭が胴体に直接繋がっているように見えた。体躯はずんぐりとしており、ひどく猫背でもあった。主人は東京からの客をあたたかく歓迎し、客間へと自ら案内をした。
「こちらでございます」
 主人は大きな口の端を吊り上げて、滑稽な笑みを見せた。主人が障子を開けると、樫の座卓に置かれた桐の壷が視界に飛び込んできた。
 それが、潮騒焼であった。


「どうも買う気にならないな」
 一樹はうなじをかきながら、そうぼやいた。何度同じことをぼやいたか、さくらはちゃんと数えている。
「それ、もう6回も聞きましたわ。気がおすすみにならないのであれば、お断りしましょう」
「んー……」
「一樹様、何を気にかけていらっしゃいますの?」
「……んー」
 潮騒焼。
 幻の焼物。
 一樹も、話には聞いたことがあったし、写真を見たこともある。郷土美術館のガラスケースに入ったものなら、見たことがあった。ただ、触れられるほどに近くで潮騒焼を見たのは今回が初めてだ。
 潮騒焼は、一言で言えば異様であった。
 ――異形だ。
 主人が桐の箱を開けて壷を取り出したとき、思わず一樹とさくらは顔を見合せてしまった。壷にまるで絡みついているかのような紋様が、潮の流れのように美しく渦を巻き、絶妙な上薬の加減によって、瑠璃と群青が混在しているのが――潮騒焼というものだ。
 だがこの漁村で発見されたものは、少なくとも、一樹やさくらの目には『潮騒焼』とうつらなかった。壷に絡みついているのは、吸盤を供えた触手のようだった。青黒い色彩が、澱んだ深淵を表していた。
「さくら、お前ならあの壷……買うか?」
「……」
「どうなんだ」
「……ちょっとあれは……」
「だろう」
 一樹は顔を上げて、顎を撫でた。見上げた空は鉛色だ。聞こえる潮騒も少し荒々しい。
「ちょっとあれは、ちょっとアレだ」
 少し考えます、と主人に断ってから、ふたりは屋敷を出ると、あてもなく村を歩いているのだった。しかし少し考えるまでもなく、一樹とさくらの結論は出ていた。
 少し歩いただけで、ふたりは村の外れにまで来ていた。小ぢんまりとしたこの村は、あの旧家の屋敷を中央に置いているらしい。
 ぴくり、とさくらが視線をあらぬ方向に向けた。一樹にはそう見えた。どうかしたか、とは訊かなかった。さくらがこう反応するときは、いつも「どうかした」ときなのだ。
「一樹様!」
 さくらが緑の目を見開いた。その視線の先に、女があった――それを認めるや否や、一樹は走り出していた。


「もう、いや」「もう、生みたくない」「もう」「もう……」
 女は呪文のようにそう訴えながら死んでいった。
 着ているものと言えば、垢じみた襦袢1枚くらいのものだ。村医者はろくに女性を診ようとはせずに、すぐにかぶりを振った。女の目は濁っていて、言葉には力がなく、また意味も持っていないように思われた。
 ――いや、俺とさくらには届いた。だから迷わず逝ってくれ。迷ってしまったなら、俺が送ってやるから……。
 女を抱き起こした一樹の腕には、不愉快な悪臭が残っていた。
『もう、生みたくない……』
 魚の臭いだ。
『もう、いや』
 深淵の臭いだった。
 顔を上げた一樹に、さくらが哀しげな表情を見せた。ふたりは何も言葉を交わさず、随分遅くやってきた隣町の救急車に、死体が担ぎ込まれるのを見守っていた。


 この辺りには、『海送り』という独特の風習が残っているのだと、一樹が自ら列車の中でさくらに話して聞かせたのだった。七五三を神社ではなく、海で行うのだ。神主は海に向かって祝詞を上げる。この村の人間たちは、皆海から命を授かった。
「あの主人の顔を見たときに、気づけばよかったな。初めて見たわけじゃなかった」
 不快極まりない悪臭は消えない。一樹は腕を見つめながら呟いた。
 この村には、港らしい港がない。船も少ない。特に珍しい形の岩も名産物もなく、観光客も寄りつかない。隣町から呼び寄せた救急車が到着したのは、連絡から40分も経ってからだった。そんな、外界から隔離されたこの村が――廃れずにここに在り続けるのは何故なのか。村と町というものは、他の村と町と繋がっていなければ、存在すら出来ない儚いものだ。
 『海送り』、
 そうだ、この村は、海と繋がっている。
「彼女のあの身体では、それほど長く歩けないはずだ」
 そして、汚れた素足にはさほどの傷がなかった。
「あの海辺――」
「探ってみよう」
 ふたりが、海辺の岩場に、人がやっと通れるほどの隙間を見つけたのは――それから1時間後のことだった。鉛色の空が落ちてきて、海は唸り声を上げ始めていた。

 あの女は、この光を頼りにしていたのだろう。
 闇の中で振り返った一樹はそう思った。
 湿った岩の隙間から、外界の光が漏れている。鉛色の不安な光でも、あの女にとっては希望だったに違いない。
 岩の中の道は、どこまでも続いているようだった。放置された魚の屍骸が放つものに似た臭気は、道を進むにつれて強くなり、終いにはふたりとも鼻と口を押さえて進まなければならなくなっていた。吸い込むとくらくらするほどに、悪臭は強烈なものだった。
 この臭いもまた、生命の源である海が放つものなのだ。それに目を背ける人間も多い。
 ――海とは、生と死だ。
 一樹はさくらの手を引きながら、顔をしかめて、誰かにそう諭すのだ。
 どうやら、開けた場所に出たらしい。悪臭は消えず、また辺りは暗闇の中にあった。さくらが、上向きにした手のひらに、ふうっと息を吹きかけた。炎が生まれ、彼女の手のひらの上に浮き上がる。炎が辺りを照らしだし、同時にけたたましい悲鳴が上がった。
「いやぁああッ!」「来ないで!」「もういやぁああ!」「もうやめて! もういや!」
 デジャ・ヴュを誘うその悲鳴に、一樹は走り出していた。
「ひいいっ、いいいっ、きいいいいっ――」「待て」「やめてやめてやめて」「落ち着け」「いいぃやぁああ、ひぃいいい」「やめて! やめて! やめて!」「助けてやる!」
 黴が生えた木の格子はしかし、頑丈なものだった。
 ここは部屋であるらしい――忌まわしい儀式を行い、贄を閉じ込めておくためのものだ。魚臭い祭壇が中央にあった。女たちは、儀式を見せつけられもしていたに違いない。
「こんな、ひどいことが――」
 祭壇を炎で照らして、さくらは形のいい眉をひそめた。一樹だけではなく彼女にも、この祭壇で道具のように扱われた女たちの魂の悲鳴が伝わってきたのだ。遠い昔から、ここで女たちは死ぬよりも辛い目に遭わされてきたのだ。
「さくら!」
「はい!」
 一樹が引いた。さくらは手に浮かべていた炎を、一樹が居た場所に投げつけた。古い錠前が弾け飛び、格子が開いた。
「ここで何をしている!」
 重い扉が開く音がし、カンテラの光と怒号が降り注いできた。
「その台詞、そのままお前に返してやるか!」
 一樹は声の主に体当たりをした。蛙のような悲鳴を上げて、男が倒れた。一樹はその辺りにあった鈍器で、男の頭を殴りつけた。殺意は充分に合ったが、男は死ななかった。鈍器で殴ったそのときに、一樹の手に伝わった衝撃は、妙にどよんとしたものだった。
「こいつ、もう……」
 頭を殴りつけられたはずの男が猛然と立ち上がり、強烈な悪臭を放つあぎとを広げて、一樹の首筋に咬みつこうとした。一樹は咄嗟に身を引くと、手にした鈍器をその大きな口の中に突っ込んだ。
 さくらの新たな炎が、男の姿を照らし出す。蛙のような顔には、まだ人間のものの造作が残っていたが――鈍器を咥えているのは、ずらりと並んだ牙だった。
 そして、一樹が手にしていたその鈍器は、蛸に似た存在を象った神像であったらしい。
「さくら、彼女たちを連れて逃げてくれ。俺はこの村を封じてやる!」
 さくらは何も言わずに頷くと、狂える女たちの手を引いて、もと来た道を引き返していった。4人いる女のうちふたりが妊娠していることに気がついて、さくらは唇を噛んだ。

 『海送り』とは――
 本当に、子供を海に送ることであったのだ。
 彼らにとってはきっと、海に帰すといった方が正しいのだろう。

「日ノ本がお前たちの神を望むと思うか」
 一樹は、潮騒焼を手に取った。
「俺が神と認めない輩を、日ノ本が神と認めると思うのかッ! この地を食らおうとしか考えない、お前たちの神を!」
 異形の壷が砕けた。
 一樹の祈りと訴えは、日ノ本という形を持たないものに届いた。光ではない何かが、漁村の中心から広がった。荒れ果てた波が、そのとき静まりかえり――鉛色の雲が、ざあッと音を立てて引いたのだ。
「――ああ、急がなくては」
 潮騒すらも止んだそのとき、さくらが張り詰めた声を上げた。武神一樹の名を呼ばなかったのは、彼女が一樹を信頼していたからだ。
 日ノ本はあまり待ってくれない。
 だが、少しだけなら待ってくれる。
 その間に、さくらは4人の女を連れて、高台へとのぼったのだった。


 一樹とさくらが名を忘れた村は、もうない。
 津波が残らずさらっていってしまった。日ノ本を囲む波もまた、日ノ本のものであるからだ。
 貝殻も残っていない浜で、一樹が神宝を取り出す。
 魚臭い狂気は地に沈み、白い魂のかけらたちは、迷うことなく空に向かっていった。
 だが問題は何ひとつ解決していないのだと、ふたりは隣町の病院に運ばれる4人の女を見送りながら考えた。
 村がひとつ滅んだくらい、かれらにとっては何でもない。
 そして――海に帰るべき命は、少なくともまだふたつ残っているのだから。




<了>