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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


音絆の響


 握り締めた受話器を見つめ、彼はひどく困惑した表情を浮かべていた。
 深夜0時過ぎの、呼び出し音。
 最近では特に珍しくも無いそれは、やはりというか何と言うか……毎日ほぼこの時刻にかかってくる、兄からの電話だった。
 特に何の用事も無いのに、毎日毎日掛かってくるその電話。
 仕事で家にいなければ、携帯電話にまでかけてくるそれを、けれども彼は鬱陶しく思う事もなく、半ば諦念を持ちつつ受け入れていた。本来の自分ならば「鬱陶しい」の一言で切り捨てるところを、どうしてもそうできないのは――相手が、血を分けた「兄」だからだろうか。
 いや、血だけではなく、全く同じ遺伝子を持つ存在だからだろうか。
 ――唐突に現れた、肉親。
 けれども、疑いようもなくそれが間違いなく自分の兄だと認識できたのは、おそらく、兄が自分と同じ顔をしていた為だろう。
 一卵性双生児。
 それが、兄と自分とを説明する上で一番簡単な言葉だった。
 同じ顔がすぐ目の前に現れ、双子の兄なのだと言われたら……理解する他ないだろう。
 同じ遺伝子を持つ双子ゆえに、引かれあったのだろうか。出会いは本当に、偶然が折り重なった上での事だった。
 それは12月22日の、奇跡。
 ……それ以来、夜毎繰り返される、兄からのコール。
 いつもは他愛ない話だけで終わるのだが、今日の電話は違っていた。
 それが、彼に困惑を抱かせたのだが。


『お願い。明後日、パガニーニのカプリースの11、13、15を演奏してくれないかな。合わせても大体八分くらいの曲だし、キミなら二日でも何とかできるよね?』
 電話の相手――向坂 愁(こうさか・しゅう)は、弟である香坂 蓮(こうさか・れん)に開口一番そう告げた。
 またいつものように「今日は何してたの?」だの「ちゃんとご飯食べた?」だのとどうでもいいような事を訊かれ続けるんだろうと思っていた蓮は、その予想外の言葉に受話器を耳に当てたまま数度目を瞬かせた。
 パガニーニの、カプリース?
 いまいち状況を理解できないままに、ゆっくりと問い返す。
「え……? 演奏って……」
『うん。一応僕が弾く予定だったんだけどね』
「弾く予定って、確か、ヴァイオリンは今手元に無いとか何とか言ってなかったか?」
 昨年の八月から日本に滞在している、仮にもヴァイオリニストであるはずの愁は、何故かヴァイオリンをイタリアの実家に置いてきたままだと言うのである。どうしてなのかは聞いていないが、その間にヴァイオリンに触れているような感じはなかったし……とすると、かれこれ五ヶ月近く、ヴァイオリンに触れていない事になる。
 一日でも習練を怠ると腕が落ちると言われ、幼い頃から師により毎日練習する事を体と本能に叩き込まれている蓮とは違い、どこかヴァイオリンに対して熱が欠けている愁。唐突の代弾きも、練習不足のせいだろうか?
 怪訝そうに問い返す蓮の言葉に、愁は電話の向こうで小さく笑った。
『ヴァイオリンは先日適当なのを買ったんだけどね。実は今日、マンションの階段から足踏み外しちゃって、手をついた拍子に左腕を捻っちゃって』
 適当なヴァイオリンを買った所でそれに慣れるのにも時間がかかるだろう、とか、どうしてそんなものではなく本来の自分の物をイタリアから届けてもらわなかったのか、とか。
 そんな言葉は、愁の言葉の後述を聞いてかき消された。
 目を見開いて受話器を強く握り、声を叩きつけた。
「腕、大丈夫だったのか?!」
『ん? ああ、平気平気。折れたりはしてないから。でも一週間ほど固定しておかないといけなくて』
「あ、あぁ……そう、か……」
 安堵の吐息を漏らす。場所が足とかならこんなに心配はしなかっただろうが、腕、と聞き、我が事のように焦ってしまったのである。
 腕を使えないヴァイオリニストなど、足の折れた馬のようなものだ。
 価値が無い。
 心配げな蓮とは正反対に、愁の方はごくごくのんびりとしたいつもの調子だった。其処にはまったく焦りなどない。
『だから、ね? レンにお願いできないかと思って』
「それは……別に構わないが」
『あ、本当?! よかったっ。レンになら安心して任せられるよ』
 電話越しにも伝わってくる、ひどくほっとしたようなその声。それを聞きながら、蓮は目で壁際に置いてある黒い本棚に並べられている幾つもの楽譜を見やった。丁度パガニーニのカプリースなら、技巧の習練のためにここ最近師にレッスンで何度もやらされていた為、暗譜はほぼ出来ている。明後日の公演でも問題ないだろう。
 しかし、まさか兄から代弾きとはいえ演奏の依頼が入るとは思わなかった。
「11、13、15……だな」
『うん、そう。大丈夫かな? あまり日数ないけど。ついでに、あんまりにも唐突だから、何か他に仕事とか入ってないかな? レン、ヴァイオリン以外にも何か仕事してるでしょ? だからそれが心配で』
「ああ、それは問題ない」
 淡々と答え、カレンダーを見やる。仕事の予定は何も書き込んでない。突然何か舞い込む事も予想されるが、まあそれは一日遅らせ貰うかキャンセルしてもらえば何とかなるだろう。
 よかった、ともう一度繰り返した愁は、けれども一呼吸置き、少し声のトーンを落として言い難そうに言を紡いだ。
『でね、一応、その……悪いんだけど、今からプログラムとかパンフレットとかの修正できないから、レンには僕の名前で演奏してもらう事になっちゃうんだけど……それって、困るかな?』
「え?」
 愁の、名前で?
 香坂 蓮、ではなく、向坂 愁、として?
「それ、は……」
 いくら顔が同じでも、いくら彼が実の兄でも……さすがにそれには抵抗を覚えた蓮である。
 自分の名前が表に出ないという事が問題なのではない。否、それが全く気にならないと言えば嘘になるが……それよりも、それは愁の演奏を聞きに来た客を騙す事に他ならないという事が、微妙な感情を生んだのである。
 他の事に関しては多少の裏切りも小細工も気にはしない蓮だが、ヴァイオリンの事に関してだけは変にストイックだった。
 言葉を詰まらせ黙り込んだ蓮の様子が気になったのか、愁が気遣わしげな声を紡ぐ。
『レン? ダメならダメでいいんだよ? うん……レンもヴァイオリニストだもんね。やっぱりそれは困るよね。ゴメン、無神経なお願いして。今の話なかった事にして』
「あ……だがどうするんだ? 今から他に代弾きなんて……」
 見つかるはずが無い。
 それに、愁はかすかに笑った。
『まあ、最悪の場合は自分でどうにかするよ。パガニーニみたいな技巧を凝らした曲は元から苦手なんだけどね。ベートーヴェンのスプリングなら得意なのになぁ』
「スプリングも何も……何言ってるんだ。無理して余計に腕を傷めでもしたらどうする?」
『それもまあ自業自得っていうか……仕方ないよね』
 諦めたように笑う愁のその声が酷く耳に痛い。
 いや、痛むのは耳ではなく……。
 無意識に胸の辺りに手を当てながら、蓮は短く息を吐いた。
 赤の他人ならば、放置しただろう。けれど、今この電話の向こうにいるのは自分をずっと捜し続けてくれていた兄だ。「会いたかった」「生きていてくれてよかった」と、自分を抱き締めてくれた人である。
 ……放っておけるわけがなかった。
『……レン?』
 溜息が聞こえたのだろう、怪訝そうに愁が問いかけた。それに、相手には見えないと分かっていながらも緩く頭を振る。さら、と細い黒髪が動きに合わせて揺れた。
「それで? 何時に何処へ行けばいいんだ?」
『……え? レン、それって』
「顔、同じだし。髪をどうにかすればバレないだろう。幸い、世間的にヴァイオリニストとして認められていないから、俺は。何か疑われる事もないだろう」
『僕として、演奏してくれるの? 本当にいいの? レン?』
「……腕、使えなくなったら……」
 胸に当てていた手を目の前に持ち上げて、掌を見つめる。多分、この手と全く同じ形をしている、兄の手を思い。
「ヴァイオリン弾けなくなったら、しゅ……兄さん、困るだろう?」
『……そうだね。……ごめんね、レン』
 かすれた声が返される。
 そして、暫しの沈黙。
 開かれた電話回線で繋がる、離れた空間。こちらの部屋は防音壁の為、外界からの音も完全に遮断されているが、愁の部屋の方も妙に静かだった。
 ふと、蓮はその沈黙を持て余すように青い双眸を窓の方へと向けた。カーテンを開けたままのその窓の向こうには、街の明かりが幾つも灯っている。その光は星光よりもずっと強く、虚空にある闇を薄く溶かしている。
『……レン』
 聞きなれた声が耳に触れる。
 自分の発するそれに似た――けれども、自分のそれよりずっと、優しい響きを持つ音。
「……何だ?」
『もう一つ、お願いしてもいいかな』
「え?」
『……当日は僕が持って行くヴァイオリンを使ってくれるかな?』
「……え?」
 言われた言葉に眉を寄せる。
「それは、どういう……」
『理由は聞かないで。お願い。それじゃ、時間と場所だけ言っておくね』
 事務的に用件だけさっさと言うと、愁は唐突に通話を切ってしまった。
 虚しく繰り返される音を暫し耳に取り込みながら、蓮は眉を寄せたまままたその目を窓の向こうへと向けた。
 一体、何を考えているのだろう。
「……何を……」
 呟きを聞く者は、誰もいない。


 蓮との電話を切った愁は、何かを考え込むように口許に手を当てていた。
 そして、ふとその唇に笑みを浮かべる。
「ごめんね、レン。色々と驚く事ばかりになっちゃいそうだけどその辺は勘弁してね」
 けれどもその呟きにはまったく謝罪の色が浮かんではいなかった。
 むしろ其処にあるのは、愉悦。
 よっ、と軽く声を発して突っ伏していた床から体を起こすと、愁は近くに放り出していた、起動させっぱなしのノートパソコンを引き寄せた。スライドパッドに指先を滑らせると、幾何学模様を描いていたスクリーンセイバーが止まり、デスクトップ画面を映し出す。
「さて、と。こちらに着くのは何時ですか、と」
 メーラーを開き、中身をチェックする。届いていたのは、一通のメール。慣れた手つきで操作してそれを開き、中を見る。
「……明日の15時15分に成田、か。そ・れ・で・は、お・む・か・え・に・あ・が・り・ま・す……っと」
 言葉に出しつつ右手のみでキーを打ち、返信し返す。送信中を示す表示が消えるのを見守りもせずまたパソコンを放置し、ごろりと仰向けにフローリングに横たわる。
 そしてその目を細めた。
「……ごめんね、か」
 そう言えば、弟が簡単に態度を軟化させることくらい、出会ってからこの約一ヶ月間の付き合いでよく分かっていた。無理強いするよりも、押してから少し引いてみせた方が、彼には物事を承諾させやすい、と。
 そしてその目論見どおりに事は運び、彼を舞台に引きずり出す事に成功した。
 後は、ここからどう糸を絡ませていくか、だ。
 ちらりと、カーテンの隙間から見える窓の向こうの景色へと目を移す。
 広がる、冬の夜空。きっと自分たちが生まれた時と同じ星座が、そこにある。


 翌日。
 低めのざわめきに満ちた成田空港内。
 その第一旅客ターミナル一階、到着ロビーの到着出口付近で、流れ出てくる人波をぼんやりと眺めていた愁は、その流れに乗って現れた1人の男に目を止めた。黒いコートを纏った、比較的長身のその男。
 凛と伸ばされた背筋。まっすぐに前を見ているその目。
 久々に見る姿だった。
「父さん」
 軽く右手を持ち上げて声をかける。と、その男がふっと首を動かして愁の方を見やった。
 黒髪に、青い瞳。
 それは自分と、そして弟と同じ色。
 その青い瞳に愁の姿を映した彼は、優しげな容貌に穏やかな笑みを浮かべると、綺麗なシルバーのキャリーケースを引きながら愁の方へと歩み寄ってきた。
 その、キャリーを引くのと逆の手には、見慣れた形のケースのハンドルが握られている。
 ヴァイオリンケース、だ。
「ありがとう、愁。迎えに来てくれて」
 ハイバリトンの、優しい響きを持つその声を聞くのも、久々だった。もうここ一年近く、彼との言葉のやりとりはすべてメールによるものだったからだ。
 ……まあ、電話がかかってきても取ろうとしなかったのは自分なのだが。
 昔から、どうも自分の父であるにもかかわらず、父と思えないこの人物。それが、自分が彼との間に距離をおきたがってしまう原因だった。
 ……もっとも、それだけが原因ではない。
 本当はもっと、根底の部分で自分は彼をずっと、許せないでいたからだ。
 年中仕事で世界を飛び回っている忙しい父。家族の事を気にはかけていても、結局は仕事を優先させ、自分を、母を、振り返らなかった人。
 自分が――自分と弟が生まれた時にも、いや、生まれる以前からもずっと、彼は仕事だと言い、母の傍になんかろくに居なかった。
 だから、生まれた双子の息子の内の一人が原因不明の死を迎えてしまったと聞かされても、それを鵜呑みにして信じてしまった。傍に居なかったため、本当は何が起きたのかなんて、何も知らないのだ。知ろうともしないし、母を問い質しもしなかった。
 それが彼なりの母への気遣いだったのかどうかは分からない。
 けれど、心配をかけたくないと言う母のその思いの上にただ胡坐をかいて、自分の好きな事を好きなだけしているようにしか、愁には見えなかったのだ。
 父に、優しさが無いわけではない。
 だが、優しいからこそ許せないこともある。
 思いをかけていなくて帰ってこないのなら諦められる。けれども、思いをかけながらも帰ってこないのは、裏切りのように感じられて。
「…………」
 ふっと息をつく。そんな様々な暗い思いを悟られないように。
 手を伸ばし、愁は父の手からキャリーケースの取っ手を引き取ろうとしたが、それよりも先に、その手にヴァイオリンケースの取っ手を掴まされてしまう。
 ちらと視線を上げると、その視線を受けた父は穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと歩き出した。
「元気だったかな?」
「もちろん。ちょっと食生活が悪くて貧血起こしたりはしてたけど、もう平気だし」
「そうか。一人暮らしなんかさせたことがなかったから心配していたんだが」
「いやだな。僕だってもう子供じゃないんだから」
「そうか、もう誕生日も迎えたんだったね。愁にしてみたら日本で初めて向かえた誕生日だったか」
「恋人もいなくて一人寂しく、って感じだったけどね」
「ん? 珍しいね、君にしては。恋人がいないなんて」
「え? やだなぁ、僕だってフリーな時くらいはあるよ」
 他愛ない会話を交わしながら、ロビーを出る。
 空は曇りがち。頬を撫でる風はひどく冷たく、愁は右手を口許に当てた。吐いた息が白く曇り、風に流されていく。
「そういえば、愁」
 停まっているタクシーに向かって歩きながら、ふと父が首を傾げた。
「明日のコンサート、大丈夫かい?」
「え? あー……」
「私も日本での演奏会は久々だから楽しみではあるけれども。何よりも久々に君の演奏を聴けるのが楽しみなんだよ」
 曲はパガニーニだったかな、と呟く父に、発しそうになる笑いを何とか抑えて静かに微笑む。
 何かを企んでいるなんて、知られないように。
「そう、カプリースだよ」
「珍しいね、君がパガニーニなんて。てっきり君の得意なベートーヴェンの"春"で来ると思ったんだが。ヴァイオリンだって家に置きっぱなしなんだろう? よく練習できたね。新しいのを買ったのかい?」
 それに、愁は緩く頭を振る。そして昨夜蓮に言ったのとはまったく違う言葉を発する。
「買ってないけど。まあその辺は問題なく。ああでも」
 愁は手に持ったヴァイオリンケースへと視線を落とした。
「……父さん。お願いがあるんだけど」
「何かな」
 客待ちのタクシーに歩み寄ると、気づいた運転手がトランクを開けた。そこにキャリーケースを放り込む父を暫し眺め、愁は、怪我をしているはずの左手に持っていたヴァイオリンケースを少し持ち上げ。
 言った。
「当日、僕にこれを貸してもらえないかな。父さんの……グァルネリ・デル・ジェスを」
 その言葉に、父――若い頃からグァルネリ・デル・ジェスの終身貸与を受けているヴァイオリニスト、向坂和依(こうさか・かずい)は驚いたように視線を返した。
 冷たい風が、二人の間で一つ、吹いた。


 コンサート当日。
 ツバのある帽子を目深に被り、先日愁に指定されたホールに時間より少し前に到着した蓮は、コートの裾を翻して控え室の方へと移動した。
 人とすれ違うたびに深く俯き、ただでさえ帽子で隠した顔をさらに見られないように注意する。
 ……なんでこんな怪しげな行動をとらなければならないんだろう……と内心で溜息をつくが、引き受けたのが自分である以上、それは誰に向けて言える文句でもなかった。
 いつもはホールに入る時には必ず持ってくるヴァイオリンも、今日はその手にはない。一応持ってきたほうがいいだろうかと家を出る寸前まで悩んだのだが、兄がああいうのなら持ってきても荷物になるだけだろうと思い、結局置いてきたのである。
 それにしても。
 通路を歩きながら、蓮は吐息を漏らした。
(何も本番当日に使った事のない物を使わせなくてもいいだろうに……)
 もっとも、それが愁の愛器であるというのなら話は別だ。
 今日、自分は愁の替え玉になる訳である。念入りに疑われないようにする為なら、使用するヴァイオリンも変えたほうがいいに決まっている。
 愁から、彼がどんなヴァイオリンを使っているのか等、今まで一切聞いたことがない。ただ、自分のヴァイオリンを見て「デル・ジェスモデルなんだね。僕のとはえらい違いだ」と呟いていたのを聞いた事がある為、彼の使用ヴァイオリンがグァルネリの流れを汲む物で無い事はなんとなくわかっているのだが……。
 考え事をしながら歩いている、その蓮の肩が背後からポンと叩かれた。突然の事に、思わず大仰なほどに身を強張らせて、蓮が振り返る。
「おはよう、レン」
 そこには、左腕を白い三角巾で吊った愁が立っていた。一瞬スタッフか何かかと思った蓮は、詰めていた息を大きく吐いた。
「何だ……驚かせるな」
「え? ああゴメンゴメン、ビックリさせちゃった?」
「それより、どうするんだ。ここまで来たのはいいが、このままじゃ……」
 帽子を取れば、その下にはいつもと変わらぬ蓮の髪がある。前髪の一部を金に染めたのもそのままだ。
 それに、愁が小さく笑った。そして右手で蓮の腕を取る。
「大丈夫。とりあえずこっちに来て」


 そういえばまだ今日のプログラム等、何も聞かされていなかったなと思いながら、蓮は目の前と襟足にかかる髪の感触に疎ましげな息を漏らした。
 そんな蓮の前には、さっきまで蓮が被っていた帽子を被っている愁がいる。
 今、二人は控え室にいた。部屋には他の人間は誰一人いず、二人の行動を怪しむ目もなかった。
「はい、これでよし、と。そっくりそっくり。誰が見ても僕だって思うよこれなら」
 蓮にタキシードを着せて正装させ、右手だけで器用に蓮に用意していた、自分と同じ髪型のヘアウィッグを被せてその仕上がりを確認していた愁は、満足げに頷いた。
「まあ僕はいつもオールバックにするんだけどね、演奏するには前髪鬱陶しいから。でも、今日は仕方ないね」
「……切ればいいのに。いつもこんな鬱陶しい視界なのか。目が悪くなるぞ」
 目の前にかかる前髪をひとつまみし、軽く指先で引っ張る蓮を見ながら、愁は肩を竦める。浮かべる笑みは、苦笑。
「あまり自分の顔を母さんに見せたくなかったんだよ。だから前髪伸ばしてるんだ」
「……見せたく、ない?」
 言われた言葉に、蓮が何とも言えない表情になる。
 愁が言うところの「自分の顔」というのはつまり、蓮と同じ顔、ということだ。……いや、それは横に置いておくとしても、一体自分の顔を母親に見せたくないというのは、どういうことなのか。
 問いたいが口にはできない蓮。それに愁はいつもと同じ微笑みを見せた。
「僕の顔を見たら、どうしても双子の君の顔も思い出してしまいそうでしょ? 僕を見る、と言う事はつまり、君を見る、ということだよ。実際には傍にいない、自分が手放してしまった息子の顔をね」
「…………」
「……そろそろ、僕に何か一つくらい聞いてみてもいいんじゃない? レン?」
 黙り込む蓮の顔を見、愁は笑みを消して真顔で問う。だが、蓮は何も言わなかった。見つめられるのを厭うように、無言で視線を逸らせる。
 その頬に、愁はそっと手を添えた。そして間近に顔を覗き込む。
「まだ怖い? でも、いつまでも聞かないままでいられるとは思わないでしょ? 既に君は僕を知ってしまったんだ。何も知らない頃には戻れないんだよ」
「…………」
「君が質問できないなら、僕が話してあげるよ。君はただ黙って聞いていればいい」
「……めろ……」
 その言葉に、蓮が緩く頭を振る。いつもより長い髪が揺れて耳元や首筋に触れる。
「やめろ、今は聞きたくない」
「このままだと、君はずっと僕に何も聞かないつもりじゃないの? 何も知らないまま居ようとするんじゃないの?」
「…………」
「……まあいいよ。怖いから聞きたくないなんて、もうきっと、言ってられないから」
 いつになく突き放すようなひどく冷めた声で言うと、愁はぽんと蓮の頭に右手を置いた。そして、またいつものようににこりと微笑む。
「まあ今は演奏前だし。コンセントレーション乱すのもマズいしね。ごめんね」
「…………」
「あ、そうだ。君に使ってもらうヴァイオリン持ってくるから。待ってて」
「……調弦は……」
「ああ、それはちゃんとしてもらってるから大丈夫だよ」
 ひらりと右手を振って、愁は部屋を後にする。
 その背を見送り、蓮は怪訝な顔をした。
 調弦、「してもらってる」?
「……一体何がどうなってるんだ……」
 軽く舌打ちする。
 いつもより見づらい視界がまるで自分から何かを隠しているかのようで、蓮の苛立ちをわずかに増させていた。


「それじゃ、お借りします」
 両腕に大事そうにヴァイオリンケースを抱えて、愁は深々と丁寧に頭を下げた。
 それに、微かに笑ったのは、正装姿の向坂和依だった。まだ私服姿の愁を見、首を傾げる。
「それよりも君も早く着替えないと、間に合わないんじゃないか?」
「……そうだね。父さんはどこで僕の演奏聞くの?」
 ゆっくりと頭を上げて問う愁のその左腕に、三角巾は無い。
 ここは蓮が居るのとは別の控え室である。
 ゆったりと椅子に腰掛けて愁の様子を眺めている和依は、目を細めて息子に微笑みかけた。
「舞台袖かな。演奏終ったらすぐにヴァイオリンを返してもらわないとならないし」
「調弦は?」
「言われたとおり、しておいたよ。そのまま使ってもらって構わない」
「お手数お掛けしました」
「どうせ私が使うにしてもする事だし、手間ではないよ。一応お借りしてる方にも連絡して、承諾は得てあるから。今回限り、ということだが」
 言って、頬杖をついて緩く首を傾げながら「それにしても」と和依が続ける。
「私はてっきり、愁はグァルネリが嫌いなんだと思っていたよ。なのに使いたいなんて言うとは驚いた。何か日本に来て心境に変化でもあったのかな?」
「え? ああ……それは、とても。とても大きな変化があったよ」
 きっと、彼が今日の「向坂 愁」の演奏を聞いたら目を瞠るだろう。驚きのあまりその場から動けなくなってしまうかもしれない。
 その反応を思い、愁は微かに笑うともう一度頭を下げた。
「それでは、また後ほど」
「楽しみにしているよ、君の奏でるグァルネリの音色」
「ええ、期待していてください」
 自分に技巧面で難があることを理解している為いつもなら絶対に言えないようなその台詞を今日はさらりと紡ぎ、愁は部屋を出た。


 伸ばした襟足の髪を一つに纏めて帽子を目深に被り、左腕に白い三角巾を復活させて右腕のみでヴァイオリンケースを抱きながら、愁は蓮がいる控え室へと行こうとして――ふと通路の途中で足を止めた。
 部屋の前に、人がいる。
 どうやら中にいる「愁」を呼びに来たスタッフらしい。ドアを開けて何事かを中に言っている。
「っと……マズいかな」
 一人ごち、慌ててどこかに身を隠そうとしたが、そんな愁には気づかずスタッフは歩き去っていった。横を通り過ぎる時にもまったく愁の方へ意識を向けてはいなかった。もしかしたら自分もスタッフだと思われたのかもしれない。
「……セーフ、かな」
 呟くと、ドアの方を見やる。と、ちょうどその時中から途方に暮れた顔つきで「愁」――もとい、蓮が出てきた。
 舞台袖へ、と呼ばれたはいいが手元にヴァイオリンが無いし、できれば時間までに一度くらいは使った事の無いそのヴァイオリンを試し弾きくらいはしておきたかったのだが……。
 短く吐息を漏らし、仕方なく舞台袖に向かって歩き出そうとしたところ、「待って!」という聞きなれた声が耳に入り、蓮は顔をそちらへ向けた。そこには、ヴァイオリンケースを抱いて駆け寄って来る愁がいた。
 思わず「遅い!」と怒鳴りかけるが、大きく息を吐いて気を落ち着かせる。
「遅いぞ、持ってくるのが」
「ゴメンゴメンッ、もうスタンバイしなきゃいけないんだね? じゃあ……これ、ケースごと持ってって」
 言って、抱いていたヴァイオリンケースを蓮の手に押し付ける。それを、何を問うでもなく素直に受け取り、蓮は伸び気味の髪を揺らせて通路奥へと歩いていく。
 遠ざかるその背を暫し眺めると、愁はふと口許に笑みを浮かべた。
「さて……それじゃあ僕も行こうか。父のヴァイオリンを奏でる生き別れの息子の音色を聴きに」


 指定の待ち場に来た蓮は、すぐにお願いしますというスタッフの声に急かされるようにし、床上に置いたヴァイオリンケースの蓋を開いた。
 そして何の気なくいつものようにおさめられているヴァイオリンのネックを掴み、取り出そうとして。
「――――……」
 その手を止めた。
 伸ばしたままの手の、その細い指先が震える。
 ――これ、は……。
「向坂さん? 急いでください」
 後ろから声を掛けられても、暫く蓮は動けなかった。
 長い前髪の向こうに見える、その、姿。
 そのヴァイオリンは。
「……っ」
 何かに急きたてられるように、ヴァイオリンを、ステージから零れてくる光に表板をかざすように持ち上げる。左側のf字の孔から中を覗き込む。
 裏板の内側に貼られたラベルが見える。それはこのヴァイオリンの製作者を記した物。
 ――"Joseph Guarnerius fecit"
 文字を目で追って頭の中で読み上げた蓮は、愕然とした。
 書き付けられていたのはその文字と、クレモナという文字、製作年数、そしてそれらの右側に十字架の模様と、その十字の下に「IHS」の文字。
 間違いなく、それは蓮がずっと恋い焦がれてきた――グァルネリ・デル・ジェス、そのものだった。
 どうしてこんなものを愁が自分に渡したのかが分からない。
 いや、それ以前に、どうして愁がこんなものを手に入れられたのか?
「――――」
 頭の中がくらくらした。芯が揺れて、自分が何をしているのか、どこにいるのか、何をしなければならないのかすら分からなくなる。
 まさか、こんなところでこんな状況で、このヴァイオリンを手にできるとは思わなかった。今現在、かなりの無茶をしながらも必死に金儲けをして貯金を増やしているのは、このヴァイオリンを手にするという目的があったからだ。そうして金を貯めた所で、本当に手にできるのかどうかすらも怪しいと思っていたのに。
 何故、今、自分の手許にこれがあるのか――…。
 妙な浮遊感に抱かれながら、蓮はスタッフに促されるままにステージへと頼りなげな足取りで移動した。
 手に、唐突に具現した長年の夢を、携えて。


 ホールを、まるで透明の波が満たし、包んでいくかのような……。
 そんな音色を耳に入れつつ、舞台上で弓を弦へと滑らせる奏者の姿を見、舞台袖に居た向坂和依は目を見開いていた。
 確かに……確かに今その舞台にいるのは、息子の愁だ。
 が、明らかに――明らかに、彼の音とは違う。
 自分の息子だからと言って、和依は愁の演奏を贔屓目で見るような事はしない。彼がこれほどの演奏を出来るほどの技術を持っていないことはよく知っている。
 愁は、幼い頃から自分が教えてきた生徒である。だからこそそのレベルもよく分かっている。
 ヴァイオリンを日本へ持ってこなかった彼が、この数ヶ月でここまでレベルを上げられるはずが無い。
 だが、今そこで演奏しているのは紛れもなく愁である。伸ばした黒髪が弓を運ぶたびに動きにあわせて揺れている。
 ……一体、どういうことなのか。
 いや、それよりも。
「……なんて音だ」
 ぽつりと声が零れた。
 自分が弾き慣れ、よく聞いているグァルネリの音とはまた微妙に違ったその音。
 透き通るように鋭く澄んだソプラノ、どこまでも広がっていくかのような錯覚を覚えさせられるほど深みと温かみのあるバッソ。
 半ば陶然とした思いでその音色を聴いていた、その時。
 傍らに、誰かが立った。構わず、和依は曲を聴き続けていたのだが。
「……どう、父さん? 彼の音は」
 音色にかぶさるように耳に流れ込んできたその声に、はっと弾かれるように和依が視線をステージ上から傍らへと転じる。
 そして、視線の先にいる者を見、青い双眸を見開いた。
「……愁……?!」
「見事なものでしょ? 僕は彼の方が父さんよりもっとずっとグァルネリを持つに相応しいと思うんだけどね?」
 微笑んで、和依の傍らに立った愁は帽子を片手に持ち、舞台上を見ている。
 一体何がどうなっているのか分からず、和依も愁の視線を追うようにもう一度舞台を見、そして再び愁へと視線を戻す。
「一体どういう事だね愁、これは。あれは誰だ、どう見ても君じゃないか」
「僕に見えて当たり前でしょ」
 顔に笑みを貼り付けたまま、愁は父へと視線を転じ。
「あれは僕の双子の弟なんだから」
「……双子の、弟……?!」
「母さんが死んだって貴方に教えてた、僕の弟だよ。名前くらいは覚えてるよね?」
 その言葉に導かれるように、和依の唇が声もなく震えた。
 ――れ・ん。
 くすっと、愁が小さな笑声を零した。
 その父の顔に浮かぶ驚愕の表情を見て、酷く満足そうに笑う。
「生きてたんだよ、ずっとレンはこの日本で。僕が日本に来たのは、彼を捜すため。そして貴方に会わせる為だ。……ああ、もう終わるね」
 最後の音を弾き切り、ステージ上の愁――蓮が、ゆっくりと弓を下ろした。そして深々と頭を下げ、湧き上がる拍手の中を無表情で歩き、舞台袖へと戻っていく。
「お疲れ様」
 なんだか酷くぼんやりとした様子の蓮に、愁が声を掛ける。と、ようやくふと蓮が目を上げ、愁を見た。
 そして双眸を見開く。
 帽子もつけず、そして左腕に三角巾をつけても居ない、その愁の姿に。何事もなかったように――いつものようににこにこと穏やかに微笑んでいるその顔に、蓮は鋭い視線を向けて口を開いた。
「……一体どういうことなんだ? 腕はどうした。いや、それよりどうしてあんたがグァルネリなんて持って……」
「それは私のヴァイオリンだ」
 問い詰めようとした蓮の言葉を遮るように、愁の傍らから和依が声を発する。それに引かれるように蓮が、顔を和依へと向けた。
 愁と同じ顔。
 目の前に二つ並ぶその同じ顔に、和依は深く一つ吐息をつき、そして蓮へと手を差し出した。
「見事な演奏だったよ、レン」
 さらりと、どこか親しみを込めたような口調で自分の名を呼ばれ、蓮は困惑したように眉を顰める。
 誰だ?
 どうして自分の名前を知っている?
 いくら自分がヴァイオリニストでも、名も売れていない、世間的に認められてもいないこんな自分の名が、デル・ジェスを持つ奏者になど知られているはずが無い。
 その蓮の疑問に答えるように、くすくすと笑いながら愁がレンの手からヴァイオリンを受け取りながら、言った。
「顔、見たことあるはずだよ? 名前も知ってるはずだ。お守りの中に写真、入ってるでしょ? その写真の裏に書いてない? 『Kazui-Kousaka 'Del-Gesu'』って」
「え……?」
 言われても、咄嗟には理解できなかった。暫し動きを止め――思考すらも止め、ただただ愁と、そしてデル・ジェスの奏者を見て。
 ゆっくりと、愁に言われた言葉を脳に引き入れ。
「……まさか」
 導かれた結論に蓮がかすれた声を零した。
 それに、グァルネリを和依に手渡しながら、愁が蓮の頭に被せていたヘアウィッグを引きずり下ろしてその双眸を覗き込み、笑った。
「僕と君の、父親だよ」


 後はもう、何がどうなったか分からない。
 気がつけば、蓮はタキシード姿のまま自宅のドア前に立っていた。
 頭の中には靄がかかったかのように、上手く思考が働かない。
「…………」
 着替えずに戻ってきた為、鍵がないという事も――いや、それ以前に鍵を開けなければ部屋に入れないという事も、失念してしまっていた。
 やけに重く感じる手を伸ばし、ドアノブを回す。
 ……と、ドアはすんなりと開いた。鍵がかかっていなかったらしい。
 そこでようやく、蓮は自分が出がけに鍵をかけていかなかったのだろうかと考えた。だがすぐにそれもどうでもよくなる。
 もう今は、何も考えたくなかった。
 せっかく弾いた、求め続けていたグァルネリ・デル・ジェスの音色さえも、もう朧な記憶の彼方に飛んで行ってしまっている。
 疲れたような足取りで、室内へ移動し――ふと、蓮はリビングのソファの上にあるヴァイオリンケースを見やった。
 そしてゆるく首を傾げる。
 そのケースの上に、一枚の紙切れが乗っていた。が、それを見て首を傾げたわけではない。
 そこにあるケースが、自分の物ではなかったからだ。
 そのケースは、ここ数ヶ月ずっと居候している師の物である。
「…………」
 ぼんやりしたままの頭で、蓮は自分のヴァイオリンケースをどこへ置いたかと考える。そして思い当たった場所を見やるが、そこには何もない。
「…………」
 なんなのだろう。もしかしたら、師が蓮の物と自分の物を取り違えて持って出かけたのだろうか?
 ありえないとは思いながらも、とりあえずケースの上にある紙切れを手に取る。そしてそこに綴られている文字を見た。
 途端、蓮の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
 はらりとその手から、紙切れが舞い落ちる。
 そこに綴られていたのは、師からのメッセージだった。

『カプリース、聴きました。貴方の父のデル・ジェスで奏でた音色、なかなか上出来でした。
 けれど、やはり貴方にはあのヴァイオリンは合わないと思います。
 ですので、貴方に差し上げたデル・ジェスモデルのヴァイオリンは返していただきます。
 代わりに、私のヴァイオリンを使いなさい。
 きっと、今の貴方にはそちらの方が合うと思います。
 もう実父に会った今、貴方が合わないデル・ジェスを求め続ける理由もないでしょう?
 次に会う時には、もう私の指導が必要ないくらいの奏者になっていなさい。
 貴方になら、できるはず。貴方は私の、たった一人の愛弟子なのですから。』

 のろのろと座り込んだまま手を伸ばし、蓮は置かれていたヴァイオリンケースを引き寄せて、開いた。
 納められているのは、師のヴァイオリン――ジュゼッペ・アントニオ・ロッカ。
「……っ」
 途端、その双眸から透明な雫が零れ落ちた。
 去り際にのみ、優しい言葉をかけていく師。その言葉が、今はあまりにも痛かった。
 その存在が、また自分の傍から消えてしまったという事も。

 いつかは居なくなるだろうと思っていた師が、去り際に残していったジュゼッペ・アントニオ・ロッカ。
 そして突然引き合わされた実父・向坂和依のグァルネリ・デル・ジェス。


 吹き荒れた嵐はやむ事無く、涙を零し続ける蓮の胸の内をいつまでも揺さぶり続けていた。
 二つの名器の、音色と共に。