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<東京怪談ノベル(シングル)>


鬼の話

 さく、さく、さく――。

 雪を踏み固める、小さな足音。
 東京が雪化粧をまとうのは、どちらかといえば珍しい。まだ、朝も早い頃のことである。まだ出歩く人々がおらぬゆえに、ふうわりと積もった白粉は、瑕ひとつつけられることなく、路の上にさえとどまっているのだ。

 さく、さく、さく――。

 小気味良い音とともに、真っ白い路を踏み初めてゆく。
 気温は低い。道行を羽織り、相棒たるからくり人形を抱いて歩く橘の息は白かった。しかし、彼女のおもては相も変わらず凍りついた湖面のようで、その内心はうかがいしれない。だが、腕に抱かれた相棒の表情が、心なしか和らいで見えることで、この天からの贈り物を、彼女が決して厭うていないことが察せられた。

 さく、さく……

 立ち止まる。
 雪が、未明の薄明かりを照り返し、空は曇天であるのに、周囲は奇妙にぼんやりと明るいのである。しかしそれは、物をはっきりと明るみに出すというよりは、かえって視界の輪郭をぼやけさせ、風景をおぼろげな、うつつめいたものに見せていた。
 雪に覆われた東京の街、それ自体が、まぼろしででもあるかのような――まるで、町並はそのままに、幽冥界(かくりよ)に紛れ込んでしまったかような、そんな気さえ、朝まだきの雪の路を歩いていると思われてくるのだ。
 だから――
 ふと目を上げた向こうに、その黒い影が立っていたときも、橘は、さほど驚きはしなかった。いつか行き当たるのではないか――、心のどこかで、そんなことを予想していたような気さえする。
 それはぼんやりと、人のかたちをしていた。
 しかし、足元の雪はまっさらで、橘のように、どこからか歩いてきた足跡がどこにも見当たらないのを知るまでもなく、それは人ではなかった。
(鬼――)
 そう、鬼だ。
 筋骨隆々の大男、というわけではない。むしろほっそりとして見える。だがどんなに目をこらしてみても、男とも女とも、その顔つきや服装は掴めてこない。だが、その頭に二本の角を、不吉にもそなえていることは見てとれる。
(怨めしや)
 声にならない声が、風に乗る。
 はっ、と、橘の目がかすかに見開かれた。
 鬼は、片腕を失っている。
 千切れたところから、ぼたぼたと、黒いものがしたたった。――血ではない。それは雪に染みることはなく、まるで虫のようにのたうちながら、しゅうしゅうと蒸発してゆく。
 ――怨みだ。橘は悟った。人の、怨みや呪いの念が集まって、鬼はできているのだ。
(オオオオオオォォォォ――ンンン)
 哀しみとも、憤りともつかぬ咆哮。
 まばたきの時間で、鬼は橘の眼前にまで迫っている。片腕が、ぶん、と冷たい朝の空気を裂いた。ぎらりと黒光りする鈎爪!
 だが、思わぬ素早さで、橘は避けている。この可憐な少女に、斯様に機敏な動きができたことに、見た者がいれば驚いたことだろう。
 だが鬼は、諦めることなく、再び爪をふるう。
 それもまた器用に避けながら、人形を抱いた少女は、雪を蹴って走った。
 転がりこむように、開けた場所へ出る。児童公園かなにかだろうか。だが今は、真っ白な雪原だ。
「物騒なやっちゃなぁ」
 橘のかわりに、人形の口が言葉を発した。
「いきなりご挨拶やで」
 鬼は、首を傾げるような動作を見せた。
(貴様――)
 橘は、鬼が、その目もまた失っているのを知った。はっきりとした顔かたちは杳として知れないのだが、両目にあたるところには、ぽっかりと無残な穴が開いて、どくどくと、どす黒いなにかが流れ出てきているのである。
(いや――たしかに、あの人間の匂いがするわ……)
 その言葉に、水たまりに張った薄氷にひびが入るように、橘の表情が揺らいだ。
「ま、まさか」
 手負いの鬼はなおも挑みかかってきた。
「お、おまえ、あの人に……あの人に会うたんか!?」
(あぁ、憎い憎い。憎いのぅ――)
 鬼の、哭くような声……。
(憎き人間)
(この爪で引き裂いて――この牙で噛み裂いて)
(目をえぐり、鼻をそぎ、耳をちぎり)
(血をすすり、臓腑をひきだし、皮をはぎ、骨をくだき)
(無明の闇へと連れ去ってくれようぞ――)
 もしも――
 あの人がこの鬼に出会い、調伏せんと闘ったというのなら。
 だが、目と腕を奪ったところで取り逃したのだとしたら。
(さもなくば、どうしてわが怨みの晴れようか)
(怨めしや)
(恨めしや……)
(憎い憎い憎い憎い……)
 そこで、あの人と同じ匂いをもった橘と出会い、怨みに狂って襲い掛かってきたのなら。
「ど、どこで」
 すがるように叫ぶ。
「どこで会うたんや! あの人は、今どこに――」
 言い終えることは、できなかった。
 鬼の一撃。
 無残な音を立てて砕け散ったのは、橘の腕ではない、あくまでも人形のそれだ。だが、彼女のおもてに苦痛の表情が浮かんだ。その衝撃によって、もろともに、橘の身体も吹き飛ばされる。小柄な少女の身体は木の幹に激突し、どさどさと、枝からの雪崩を招く。
(八つ裂きにしてくれる)
 呪わしい言葉を吐きながら、ゆらめく影がかたちとなった鬼は、橘をもとめて宙を舞った。黒い死神のように、木の下に倒れている彼女のもとに降り立ち、鋭い爪を向けて――
(…………)
 鬼には、はっきりとした表情はない。
 だが、もしそれがわかれば、きっと、あっけにとられたような顔になっていたはずだ。
 雪煙の中、積もった雪の上には、ぽつんと、白い花を模した髪飾りがひとつ。
 どこにも、少女の姿はなかったのだから。
(!)
 反射的に見上げる。この期におよんで、ずいぶんと、人間臭い動作を、鬼はしたものだった。樹上の枝から、飛び降りてくる橘。きらりと、細い糸がきらめくのが見えた。砕けたからくりの腕からほつれた操り糸だ。糸を頼りに少女は木の上へ逃れていたのである。
 ぴたり――と、刃が鬼の首筋にあたる。
 抜き放った飾太刀を握る人形の左手……そして、失われた右手の代わりは、橘自身の手がつとめる。
「その怨み、この断ち花が断ってくれる」
 高らかに、宣する。
 そして、橘の藍の瞳が、鬼の深淵のような眼窩を見据えた。くちびるが、吐息のようにかすかな声を紡ぎ出す。

「斬ります」

 斬――!
 一瞬、だった。
 この世に形のあるものないものを問わず、あらゆる因果を断ち切る刃。それに怨みの一切を切り捨てられた鬼は、その存在する土台を失い、霧散しているのだった。

 さく、さく、さく――。

「この街におるんや」
 ぽつり、と、つぶやいた。
 ほう――、と、橘は、手に息をかけて、暖める。彼女の髪にゆれるのは、雪の中から拾い上げた髪飾り。白い花の思い出とともに、瞼の裏に浮かぶかの人は、確かにこの地にいるのだ。
 曇天から、夜半に降っただけでは降り足りなかったと見えて、新たに粉雪が舞い散り始めていた。片腕の相棒をいたわるように抱き、橘は雪の路を歩き続ける。
 その足跡を覆い隠すように、雪はあとからあとから、降り続けているのだった。

(了)