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<東京怪談ノベル(シングル)>


Do I ever.

 春立つとはいえ暦の名のみ、吹く風は厳しさを増すのみで、温もりなど微塵も感じられず来るべき季節はまだ遠い。
 が、この時期、花の便りに先駆けて風は甘く香る…それは心の奥に秘めやかな、恋心を託して甘いチョコレートの香りだ。
 春待ち詫びて逸る気持ちは花芽をつける草木だけではないのか、膨らむ想いが花開くのか実を結ぶのか、はたまた散ってしまうのか…結果はどうあれ、想う人が居る者ならば挑まずに居られない国民行事である。
 そして月刊アトラスの恋するアルバイター、湖影龍之助もその例に漏れず、製菓業界の陰謀に乗って軽やかなステップで踊っていた。
 それは決して比喩ではない。
 浮き立つ気持ちが足を止める事を阻むのか、エレベーターの前を素通りして非常階段へ、二段とばしに駆け上がり、踊り場毎にターンなども決めながら、龍之助はココアの香りを振りまきながらバイト先の扉を開ける。
「ちーッス、バイトっすーッ! ついでに郵便回収して来たっスよーッ♪」
「おー、ご苦労さんー」
バターンと勢いよく開かれた扉が起こした気流に、入り口付近のデスクの書類が宙を舞うが、通りすがりの編集員は動揺すらせず、散った書類が床に落ちる前にはしはしはしっと受け止める。
「あれ、龍之助くん、今日休みじゃなかった?」
手提げ袋を片手に、デスクの間を練り歩いていた女性編集員が訝しげに問いを向ける。
「休みッスよ! コレ後で仕分けしますからッ!」
アルバイト要員で使い回しているデスクに下げた紙袋…そして、大事そうに胸に抱えた箱を置く。
「そうか、今日はバレンタインだもんねぇ」
甘い香りにそれを察し、しみじみと頷く…間に距離と問いを詰められる。
「三下さんは何処っスか!?」
「え、と……資料室に閉じ込められてたけど」
「ありがとーッス!」
が、そのまま駆け出そうとした龍之助の腕を、彼女はがっしと掴んで阻み、手にした紙袋からチョコを龍之助に差し出した。
「一応、気持ちの物だからね」
と、お義理以外の何物でもない、一掴みのピーナッツ入りアルファベットチョコレートを龍之助は有り難く頂戴する。
「あ、龍之助くん、チョコ持ってかないと!」
慌ててデスクに置き忘れられそうな大切な品を示すが、龍之助はぶんぶんと首を横に振った。
「三下さんの仕事手伝って、とっとと終わらせられたら二人揃って上がらせて貰えるんスよ〜♪だから後でいいんス! 」
それは無料奉仕では?
 疑問をそのまま口に出すには、勇気が要る。
「編集長の粋な計らいっス!」
 道理で、今日の三下の業務予定に時間と手間ばかりかかる集計やら資料集めやらが集中しているワケだ。
 ……本人が幸せそうなら、まあいいか。と。彼女は賢明にも心中で割り切った。
 二人がかりでも定時に終わらせられるかな、と心中に敏腕編集長への畏怖を確固たるものにしながら、彼女は「良かったわね」と表面上だけは朗らかに龍之助に同意した。


「お疲れさまっした〜!」
龍之助の明るい声で背を送られて、最後の編集員が帰路につく。
 資料室に閉じ込められていた…と称した女性編集員の言は比喩でなく、扉の前、整理待ちの書類が積み上げられるに、引いても押しても扉の開かないにっちもさっちも行かない状況
 手伝わせている焦りからか、いつもより三割り増しへぼな三下に作業は遅々として進まず、編集部に残るのは、最早二人だけである。
「ゴ、ゴメンね龍之助くん。もうすぐ、あと少しで終わるから……」
何度目か知れない弁明、他の者であればとうにキレて見捨てていたろうが、恋に血迷う龍之助にとって、愛しい人と同じ作業が苦であろう筈もない。
「全然気にしてないっスよ、三下さん。ゆっくりでいいですから……っと、其処、集計違うくないっスか?」
「あ……ホントだ、ゴメン、ゴメンよ〜」
あせあせと消しゴムをかける、力加減を誤ってか、用紙がビリリと半ばまで裂けた。
「あぁぁぁぁッ!」
身も世もない三下の叫びも、愛の前では保護意欲を掻き立てる響きなのか、龍之助はそれすらも微笑ましく見守り、破れた紙を取り上げた。
「どっちにしろ、後で清書するんスから。後ろにテープでも貼っとけばOKっスよ」
ぺたぺたと後ろからテープで補強し、処理済の書類の上に重ねる。
「後は俺が打ち出しとくっスから。そろそろ一息入れませんか?」
「そうだね……ちょっと喉も渇いたかな」
その言葉にうきうきと…しつつも、その実を悟らせないようにさり気なく、龍之助は来客用のドリップ珈琲を淹れる間に、持参していた箱を流し台の上で開けた。
 中には、チョコレートケーキがホールでまるごと納められていた。
 二週間前から母に特訓を請い、家では蔓延するチョコレート臭に兄弟に辟易され、男子校では味見と称しては級友達を沈没させ、私財を投じて有名店のチョコレートを食べ比べ、汗と努力と涙の結晶にちょっとしょっぱげな…否、実際には如何なる名パティシエの手によるものに比肩して遜色のない、芸術と呼んで然るべき、一昼夜かけて作成された芸術的な一品である。
 最も、濃淡のないまさしくチョコレート色のみのシンプルな外観からそれを判じるのは少し難、だが。
 龍之助はその完成品に躊躇なくナイフを入れ、三角に切り取った。
 乱雑に散るアンケート葉書を取り纏めている三下の元へ戻り、湯気も暖かな珈琲と、チョコケーキを差し出す。
 出来るだけさり気なく、気負いは欠片もないように。
「お疲れさまっス」
「ありがとう……わぁ、ケーキか嬉しいなぁ」
かけた言葉に、三下は甘いモノ好きな一面を覗かせて喜色で以て受け取った。
 表面に薄く均一に塗られたチョコ、切り出されたスポンジは地層の如く縞を作って、どれも茶系の統一感に見た目の計算も尽くされ、その生地の目の細かさに刃のがないケーキフォークでもスと切れる。
 椅子の背を抱き込むように座り、珈琲を啜りながら三下がケーキを口に運ぶのを見守って…龍之助は、目元だけを綻ばせた。
「……スゴイ、美味しいよコレ!」
一口パクリ、と口にした途端に、三下の気配がパッと明るくなる。
「何層にもなったスポンジに練り込んだチョコの種類が違うんだね。それで香りも味も調和してくどくないのは少し淡白に仕上げてあるからかな。それからチョコだけにならないように、キャラメルが混ぜてる遊び心が味に変化をつけてていいね。でも全体的な決め手は表面のチョコが舌で溶けて濃厚に……」
「三下さん、グルメコーナーに転向出来そうっスね」
能書きは大層ながら、はくはくと子供のように食べ進める三下の絶賛に、龍之助は笑う。
「う……でも、食べたら呪われるフルコースとか、材料がとんでもない満漢全席とか……は、イヤだなぁ」
企画として有り得そうだが、その際の食べ物の克明な描写より、犠牲者の行動及び心理…ぶっちゃけどれだけの不幸っぷりを晒すかが記事として読者のハートを鷲掴むだろう。
 他愛ない話題の笑いに混ぜて、龍之助はあっという間に空になった皿を示して三下に提案する。
「三下さん、よければケーキまだあるっスよ。残り持って帰って下さい」
「え、いいの!?」
箱ごと差し出せば、余程気に入ったのか、押し頂くように受け取って喜色満面三下に、龍之助も労苦を報われた、その満足感以上の嬉しさに頷く。
 甘いチョコに託して、想いを告げる日。
(俺が三下さんにチョコ渡しても、別にいいっスよね)
 だが、今日が何の日であるか、どんな想いが籠もっているか…などは一切、口にしない。
(……そりゃ、俺の事好きになってくれれば嬉しいけど……)
それでも切ない息は、つい口を突いて出てしまう。
 告白と共にチョコを渡して晴れて恋人同士、なんて乙女ちっくシチュエーションに憧れなくもない青少年だが、想いを伝える手段の為だけで、チョコレートを渡すのはなんだかな、と思う。
 そんな大義名分がなくとも、想いは常に抱くものであるから。

 ただ、好きなだけ。
 好きだから、そうしたいだけ。

 それをバレンタイン・デーにチョコを渡せば、お返しにホワイト・デー…と、半ば儀礼になったそれは三下に気を遣わせるだけなのは承知、それに大事な気持ちを義務で遣り取りしたくはない。
「アァ、もうこんな時間か……そろそろ上がろうか」
龍之助の手を借りても結局平素よりほんの少しだけ退社の早まった午後9時ちょっと前、の時刻に三下が時計を見上げた。
 それに、龍之助は胃の上を手で押さえた。
「腹も減ったっスね……家に帰るまで保ちそうねないし……」
飽くまでも自然を装って龍之助は、今日、本来の目的を口にした。
「三下さん、おごるんで、飯食いに行くの付き合って下さいっス♪」
ささやかな誘いは、龍之助の精一杯のおねだりである。
 たとえ一秒でも、共にする時間がバレンタインデーよりもホワイトデーよりも大切な日、想いの報われる大事な時間。
 チョコに秘めた想いへの、報いはそれで充分。
「いいよ……でも」
あっさりと承諾した三下が、続けた語尾に思わず、胃を押さえた手に力が入り、ググゥと情けなく腹の虫が泣く。
「おごりはダメだよ。僕は大人なんだし、ケーキも貰っちゃったしね。ちゃんと僕が持つからね」
せいぜいの威厳を込めて、薄い胸を叩いた三下、その衝撃に咽せていたら世話はない。
 げほと咳き込みかけ、三下はふとスーツの胸ポケットに手を入れた。
「あ、そうだ……龍之助くん、これ昼間に貰ったんだけど、お腹空いてるならコレあげるよ」
店に着くまでの口慰みに、のつもりで差し出されたそれは、ピーナッツ入りのアルファベットチョコレート。
「……三下さん、ありがとうっス! すげぇ……嬉しいっス!!」
義理で配られていたそれは胸ポケットに入れられていたせいで少し溶けかけている。
 決してそのチョコに意味はない、他意はないけれども……。
 嬉しくて、死にそうな程幸せだと、感じてしまう、聖バレンタインデー。
 それは想う者、想われる者……全てに等しく祝福の与えられる日である。