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雨の中に……
【青い夢】
最近、よく、夢を見る。
雨の夢。
霧のような、霞のような、細かい雨。
音も聞こえない。目にも見えない。家の中で、俺は、黙って気配を追っている。
外に出る。初めて、気付く。
今日は雨降り。霧の雨の日。
全てのものが露を帯び、しっとりと濡れている。吹き抜ける一陣の風までもが、重く、冷たかった。
どんな天気でも、俺は、奔放に駆ける大気の流れを感じることが出来るはずなのに……この雨が、感覚を狂わせる。
ふと、何かが、頭の片隅を過ぎった。
夢の中で、夢を見るように。あるいは、これは、幻なのか?
一生懸命考えて、記憶を手繰っても、どこまでも掴み所がない。
俺は、何を、探しているのだろう?
遙か頭上を覆う雲に、問いかける。その向こうに居るはずの太陽に、会いたい。
呼んでいるのは、誰?
求めているのは、何?
【雨の中に……】
雨はやまない。
朝から、陰気に降り続けている。
クラスメートの誰も、この程度なら大して濡れないから、平気だよ、と、笑うけど。
こんな日は、何かを思い出しそうになるから、好きではない。
思い出さなければと思うのに、それが、ひどく、怖い。
思い出さなければならない理由なんか無いのに、俺は、何を、焦っているのだろう?
「朝幸ー! 帰ろうぜ!」
良くも悪くも食べ盛りの俺たちに、弁当一つというのは、昼食としては絶望的に少ない。放課後には耐え難いほど空腹になっている腹を抱えて、毎度毎度、帰宅途中の軽食屋に立ち寄るのが、俺と悪友たちの日課になっていた。
でも、今日は、行きたくない。
その誘いも断って、一人、霧雨の中を、歩いた。
「傘、忘れた……」
友人たちの言うとおり、確かに、それほど濡れない。
だけど、何故か、芯から体が冷えて行く。
冷気がまとわり付く。ひどく寒い。思わず二の腕をさすると、服が水を含んで重くなっていた。少しずつ、少しずつ、俺自身が気付かないほどゆっくりと、染み込んでいったのだ。
雨という名の、記憶の欠片。
ふと、立ち止まった。
手入れされていない棚に、手入れされていない、藤。限りなく野生に近い乱雑な薄紫の茂みの影に、ひっそりと、子犬が佇んでいる。
目があったら、駄目だ。きっと連れ帰ってしまう。うちに犬を飼う予定なんか無い。いきなり生きた土産を持ち帰ったら…………怒り狂う母さんの顔が、あまりにもきっぱりと目に浮かぶ。
俺は、意を決して、その場を通り抜けた。
冷たい雨が、この時ばかりは、ありがたい。
心まで、冷やしてくれるみたいだ。
犬は付いてくる。
俺は振り返らずに歩く。
音のない雨は、子犬の悲しげな声までは消してくれない。自分の足音と、それにぴったり寄り添ってくる子犬の足音と、少し掠れた、鳴き声。
元気が無くなっている。
俺はついに立ち止まった。
「ついて来ちゃ駄目だ! 俺は飼えないんだから……こんなに濡れて……」
不意に、五感が、歪んだ。
今の景色に、知らない景色が、重なる。
不思議だった。気を失いかけているはずなのに、視界が狭まらない。それどころか、無限に近い広がりを見せる。頭の奥が冴えて、今まで逃していた音までも、明確に捉えることが出来るようになったような感覚。
流れ込んでくる。
誰かの思い出。
誰か? 流れ込む?
違う。
元々あったものが、蘇っただけ。誰かの思い出? これが赤の他人のものであるはずがない。これは、俺の記憶。俺の過去。今ではない場所に生きてきた時の…………遠い、遠い、残像。
「行っちゃうの?」
「大丈夫」
そう笑って、雨の中を出て行った、父。
朝が終わり、昼を過ぎて、夜になっても、帰ってこなかった。日が変わり、月が移り、やがて年が明けても……ただいまの声は、二度と、聞けない。
「行っちゃうの?」
「大丈夫よ」
母が、父を、探しに出る。大丈夫。あの日の父と、同じように笑いながら。
嘘つき。嘘つき。
大丈夫? そんな根拠がどこにある?
二人とも、帰っては来なかった。大丈夫。信じたから、待ったのに。さよならの一言を紡ぎ出す暇もなく、別れは、あまりにも、唐突すぎた。
「雨が……雨が、二人を」
大切な人は、いつも、雨の中に、消える。
後悔だけが、雨の中に、残る。
「嫌いだ……雨なんて」
記憶は、ひどく途切れ途切れに。
自分のもののようにも、他人のもののようにも思える。
曖昧で、全てが朧に霞んでしまう。感情だけが、漣のように押し寄せる。
雨の中を、当てもなく待ち続ける、自分。
今日は? 明日は? 明後日は?
一年後は?
十年後は?
待ち続けることは、愚かなことなのか?
「行かないでよ」
今でも、怖い。
雨の中に、親しい人が出かけていくのが、怖くてたまらない。
行っちゃ駄目だ。帰って来れないから。
行っちゃ駄目なんだよ。これが、最後になるかも知れないから。
「助けて」
子犬が、足下にすり寄ってくる。
もう、見捨てられない。
ゆっくりと抱き上げる。濡れて毛が寝てしまっているのに、それでも、子犬は、温かかった。
抱き締める。
心臓の音が、聞こえる。生きている音。生きている証。
「なんで……」
今日、初めて出会った、子犬。
濡れて、粗末な、見捨てられた弱い生き物。
それなのに……。
どうして、こんなに、温かいのだろう?
母さんの大目玉には平謝りで対処して、俺は、何とか、子犬を家族の一員として家の中に引き入れることに成功した。
俺の小遣いから子犬の食費を出すとか、恐ろしいことを言っていたような気がするけど……冗談だと信じたい。
高校生の月々の小遣いから、ペットの食事代を引かれたら、ハッキリ言ってマイナスだ。
いくらうちの母親でも、そこまでの鬼ではないと…………いや。それくらいのことは、平気でやりそうだ。あうう……身も心も財布も寒すぎるよ……。
「お前なぁ……物凄く高く付いたぞ」
子犬は、俺の台詞なんか、全く無視。
美味しそうに、温めたミルクを飲んでいる。
口の周りがびしょびしょだ。べろんと大きく舌を出して、一舐めした。それから、先にベッドに入った俺の布団の中に、さも当然という顔をして、潜り込んできた。
まだ少しミルクくさい舌で、俺の頬を舐めてくる。
いいってば……寝ろよ。
俺は、最近、変な夢ばかり見て、どうせ、落ち着いて眠れないんだから……。
お前まで、飼い主に似ることはないんだよ。
「ああ……でも。暖かいなぁ……お前」
子犬の体温って、何度なんだろ?
湯たんぽを抱いているみたいに、暖かい。
体が温もる。指先までも、火照ってくる。睡魔が心地よいものだって、しばらくの間、忘れていた。懐かしさに、何故か、涙が出そうになった。
その日、夢は、見なかった。
次の日も。
その次の日も。
二度と、あの不思議な夢を見ることは、無かった。
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