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<東京怪談ノベル(シングル)>


いびつな折り鶴と世界の果て



「おはよう、昨日はぐっすり眠れたかな?」
 努めてにこやかに投げ掛けられたあいさつの先、むっとくちびるを噤んだまま窓の外に視線を投げている幼い少女の姿がある。真っ白なベッドシーツは丈の半分ほどしか使用されていない。上体を起こして膝を抱えている少女の姿は、リハビリルームで見かけた昨日の夕方よりもずっと小さく見えた。利き腕である右の手首を骨折して入院している、女の子の患者である。
「お嬢ちゃんが毎日どのくらい頑張ってるのか、先生に見せておくれ。最後まで上手にできたら、ほら――看護婦さんが飴をくれるって」
 白衣の碧眼――少女の担当医である城田京一が横目でちらと一瞥を投じると、傍らでカルテを胸に抱く看護婦がにっこりと微笑みながら大きく頷いた。その様子に、少女の眼差しが訝しみの色を滲ませて一度だけ二人を見比べる。その視線が看護婦から城田に移った時、少女は何か苦いものでも噛みつぶしたかのように顔をしかめ、ふいっとまた窓の外を見下ろすのだった。
 やれやれ。
 そんな風情で両肩を竦めると、城田は看護婦に目配せをしてそっと病室を出ていく。「はぁい、じゃあ看護婦さんに右手を見せてくれるかなぁ? お箸を持つほうの手でーす、どっちでしょう?」看護婦のそんな言葉を背中に聞いた。いやいやながらも右の手首を差しだして見せている少女の気配も感じる。廊下で壁に背中を預けたまま、城田はぼんやりとそんなやりとりを耳にしていた。
「あら先生、やっぱり嫌われちゃったのねぇ?」
 昨日のリハビリルームに居合わせた婦長が通りすがり、眉根を下げて苦笑しながら城田に声をかけていく。それを曖昧な笑みでやりすごしてから、城田は静かなため息をひとつだけ吐きだした。
「せんせいの目はきらい。わたし知ってるもん、おじいちゃんとおんなじ目」
 リハビリルームで小さなピンク色のボールを目の前に、少女が城田に投げたひとことである。慌ててしまったのは城田と共に骨折の経過を確認に来た婦長の方で、おそらくは少女の言葉の意図をいちはやく察したのだろう。困ったように少女の顔をのぞきこんで言う。「駄目よ、先生にそんな事を言っちゃ」
 それからと言うもの、もともと気むずかしくてスタッフの手を焼かせていた少女はますます心を閉ざしてしまい、次いでは先ほどの回診の始末である。看護婦が病室から出てくると、城田に歩みよりながら苦笑した。「先生の目は恐いって、また言ってましたよ。昨日は本当に、何があったんですか?」
「カルテを見て、名前を確認して、握手を求めた。でもあの子はその手を握り返してくれなかったんだ、それだけだよ」
「それだけ?」看護婦が問う。
「それだけ」城田が答える。
 ふうん、と看護婦が腑に落ちない様子でうなった。ナースステーションへと引き返していく道すがら、二人の間にそれ以上の会話はなかった。
 面白いほどに、城田は子供に好かれない。
 それは本人も自覚しているところである――今回の少女ほどの拒絶はめずらしいにしろ、治療をしているあいだ決してニコリともしてくれない子供はざらだし、時には目すら合わせてくれない意固地な子供もいる。そのたびに決まって「先生の目は恐い」などと言われればさすがに閉口するしかないのだ。普段の城田の温厚な様子を知るスタッフからすれば笑い草でしかないらしいが、当の本人にとってはそうはいかない。
「――おじいちゃんとおんなじ目、か。最近の子供はそんな教育をされているのかな」
 少女の言うところの「おじいちゃんの目」とは、おそらく出兵経験者のことを指している。精神力をすり減らし、過度の空腹を経験し、相手――生身の人間を今この瞬間殺すか殺さないかで自分の命の始末が決まる…そんな戦地を経験した者たちがする眼差しと、城田の目を、同一のものだと少女は言っている。おもしろいと思った。人殺しの目をしている、少女は城田にそう言ったも同然であるのだ。
「ちょっと非道い言い方ですよね。私があの子の親だったら、ひっぱたいて怒っているところだけど――でも、一応はお金を払って治療にきているお客様、ですから」
 城田のデスクに湯気のたつ湯呑みを置いて看護婦の一人が言った。先ほど、一緒に回診をした看護婦である。あの子あげた飴に手をつけないで、ごみ箱に捨ててるんですと彼女は続けた。
「私、びっくりしちゃいました。子供のころ、おじいちゃんは戦争に行って日本を護ってきたすごい人なんだよって教わっていたから。それが、先生ご存知ですか? この間、姪っこが学校でもらってきたプリントを見たら、戦争と、戦争に行った人たちは悪人です、みたいな言い回しの文章が書いてあったんですよ。だから、今はあんなふうに、自分のおじいちゃんやひいおじいちゃんを悪く言う子供が多いらしいんです。確かに戦争は良くないけど…あんな風に教えられたら、家長を敬うっていう日本の本質が失われちゃいます。それに、城田先生は『おじいちゃん』なんて言う年じゃないですよ」
 熱っぽく語り始めた看護婦の言葉をまあまあと制しながら、城田は熱い湯呑みに口をつけた。「キミ、随分と古風だったんだねえ。仕方ないよ、あの子まだ十歳にもなってないでしょう? あの子のおじいちゃんとわたしは、多分そんなに年齢が変わらない。このお茶おいしいね、どこの?」
「静岡の新茶です。私が実家から貰ってきました」
 看護婦の微妙な論点の誤差に乗って、城田は湯呑みの中を覗き込んだ。鮮やかな緑色に感嘆すると、二人の会話に耳を傾けていたらしい別の看護婦が城田の問いに笑顔で答える。「深炒り煎茶って、最近はやってるらしいんです」
「へえ、緑茶にもブームがあるんだ。日本もまだまだ捨てたものではないね、わたしも安心して年をとれる」
 冗談めかして城田が言うと、ナースステーションがどっと湧いた。
 これで良い。
 そうだ、みんな忘れてしまえ。
 城田も笑った。笑いながら、湯呑みの中を飲み干して立ち上がる。「さて、今日はもう終わりかな。あとは夜勤の先生にお願いしてください。わたしは帰らせてもらおう」
 お疲れさまでした、などの言葉が口々に城田へ投げかけられる。お疲れさま、と返した城田の背中を、ただ一人じっと見つめている看護婦がいた。それに気づかないふりをして、城田はガラス張りのナースステーションを後にしていく。



「すごいね、リハビリの時は泣かないで頑張れたんだって?」
「・・・・」
「婦長さんは恐いでしょう。あのリハビリは先生でも痛くて泣いてしまうかもしれない」
「・・・・」
「偉いなあ、よし。先生が飴をあげるよ。キミはどんな味が好きかな?」
「・・・・」
「城田先生・・・・いたいけすぎて涙を誘います」
 城田は諦めて、指先につまんだグレープキャンディの包みを解いて自分の口に放り込んだ。爪の先ほどの小さなもので、子供に与えても虫歯になりにくい類いのものである。治療や診察を痛がって泣きだす子供を宥めるために、この病棟の看護婦は必ずポケットにこれを何粒かしのばせている。五種類の味があって、城田は比較的このグレープ味が好きだった。
「そんなに気にすること無いと思いますよ、あの子も来週の頭には退院ですし」
「それとこれとは話が違うんだ。ああいう気難しい子供に懐かれるか否かは、わたしの開業に関わる問題でもある」
「なら、イチゴ味をあげてみれば良いんです。あの子のごみ箱、いつもピンク色の飴だけ捨てられてないみたいだから」
「味の好みも、わたしがあの子から教えてもらえないと意味がない」
 ナースステーションには、城田と当番の看護婦だけが残されている。奥歯で飽きてしまった飴をカリカリと噛みくだき、城田は威厳のこもった声で看護婦に言う。「これは、わたし自身の問題なんだ」
 やれやれ、と言ったように肩をすくめながら、看護婦がほつれた前髪を指先で直す。「そんなふうに真面目すぎるところが、かえって子供を構えさせているのかもしれませんよ?」
「…そうだなあ…」
 デスクに置いた小さな鏡を覗き込む。蛍光灯の光を反射させて、そこには顔色の悪い初老の男が映り込んでいた。他でもない、城田自身の顔である。穏やかな碧眼が此方をじっと見つめている。平静を装う瞳は深く透き通るような青をたたえており、それは世界の終わりにある図書館で客を待っている司書の面持ちを城田に彷彿とさせた。世界の終わりだ。その先には何もない。
「――そんなに恐いかな。キミはどう思う?」
 ギシリ、と瑣末な椅子をきしませながら、城田は看護婦に向きかえった。「正直に言っていいよ。その方がわたしのためになる」
「わからないですよ」看護婦は笑って答えた。「城田先生は、城田先生じゃないですか。恐いもなにも、わからないです」
 それに城田は苦笑した。良い答えだと思った。恐いも恐くないも言わない、その答えは誰も傷つけないし、どこにも辿りつかない。
「でも、キミだって恐いと思ったことが一度くらいはあるんだろう。実際にわたしはキミに手を挙げたことは無いし、怒鳴りつけたこともない。それでも、今までに一度くらいは――ああ、」
 城田がゆっくりと椅子から立ちあがる。看護婦は城田の言葉を耳にしながら、机に向って書き物をしている。
 城田が緩慢な足を進めはじめて、看護婦の方へと近づいていく。看護婦は微動だにせず、城田を見上げることもせずに机に視線を落としている。
 一度切った言葉を城田は続ける。「例えば…今はどう?」看護婦はそれでも動かない。机上のカルテを凝視している。右のペンは小刻みに震えていた。
「――キミか。最近、わたしの回りをいろいろと嗅ぎ回っていたのは。それで、何かキミの興味を引くものは発見できたのかな……例えば、『人殺しの証拠』とか…?」
 看護婦が跳ねるように背中をすくめて、椅子の足下にうずくまった。机の上に取り残されたのは真っ白な便箋である。最初から書き物などしていなかったのだ。それに一瞥を投じたあとで城田は続けた。「生憎、そんなものはどこを探しても見つからないよ。火のないところに煙は立たないって昔から言うだろう、何もないところには何もないんだ。何もないところには何もないし、何かあっても、何もない。キミの喜びそうものは、どこを探しても、どう探しても、何もない。――わかる?」
 その声音は非道く優しかった。取り返しのつかない失態に崩れ落ちた看護婦を優しく宥めている医師のように、非道く優しく、そしてゆっくりとした口調だった。看護婦が涙に濡れた眼差しをそっと上げて、城田の顔色をうかがう。ひっ、と喉の奥を鳴らしたきり、彼女はその夜二度と口を開くことはなかった。
「キミだって、自分の手帳を…無遠慮な人に覗かれたくはないだろう?」
 鋭利な刃物を思わせる、その切っ先のような眼差し。
 毛穴が開くほどの殺意を滲ませた城田の眼差しは、平素の穏便を微塵も感じさせない城田のもう一つの顔、であった。
「物分かりのいい聡明な看護婦は、このあと私に熱い茶を淹れてくれるかな。キミの持ってきてくれた…深炒り煎茶、だっけ? あれは良いね、甘味があって香ばしい。しばらくは夜勤が愉しみだ、今週は――何だ、ずっとキミとじゃないか。プロの淹れる茶が呑めるなんて仕合わせだ」
 震えなのか頷きなのか判らないほどの小刻みで、看護婦は首を縦にふりながらのろのろと立ち上がった。そして、城田とは目を合わせないまま給湯室へと足を運んでいく。さながら、手痛い治療を受けたあとの幼い患者である。恐怖に強ばった首すじが上手にうごかせないのである。一瞬だ――城田は空想する。ほんの一瞬で、背後から手を回してその喉をかっ切ることができる。両腕で首すじを拘束し、非力なニワトリのように細く連なる骨を小気味よくひねり折ってしまうこともできる。それをしないのは、恐ろしいからではない。する必要がないからだ。彼女はこれから先、城田の回りを嗅ぎ回るようなことはしないだろう。彼の過去について何らかの欠片を引っ張り出してきて、声高々に彼の罪を糾弾することもないだろう。それでいいのだ。それで全ては、何ごともなく回っていく。何ごともなく、続けられていく。
 城田にとってはただ静寂の、看護婦にとってはこの世で一番長い夜が明けていく。



 看護婦たちのやんわりとしたアドバイスを蹴って――たいていは『やめた方がいい』といった種類のものだった――明日がとうとう退院だという気むずかしやの少女の病室へ、城田は勤務明けの夕方に寄った。少女は城田が訪ねていくととても不機嫌そうに彼を眺め――そして何やら一生懸命に折り紙を折っていた。城田はそれに構わず見舞い用の丸椅子に腰を下ろし、少女の小さくあどけない指先をじっと見つめる。
「――どうしてせんせいは、人をころすの?」少女が折り紙を折りながら城田に問う。僅かに首をかしげてから、城田はゆっくりと言葉を選んで少女の問いに答える。
「…必要があったからだよ。大切なものや、どうしても庇わなきゃいけないものがあった場合、先生は人を殺す。それが必要で、そうしなくちゃいけないから殺すんだ」
「しんだ人はどこにいくの?」少女はなおも問う。こしらえているのは折り鶴らしい、角の拙い羽根を少女は苦心して尖らせようと指を繰っている。
「どこにもいかない。そこに留まる――留まるって判る? そこにしゃがんで、どこにも行かずにじっとしてるんだ」
「しんだ人にも、大切なものがある?」
「もちろん」
「しんだ人には、もう庇えない?」
「もちろん」
 少女はにこりともしなければ、城田の言葉に顔をしかめることもしなかった。夕焼けが小さな手を照らしている。いびつな折り鶴はくちゃくちゃのくちばしで、僅かに右に傾いてテーブルの上に置かれた。
「・・・せんせいの目は、こわいからきらい。おじいちゃんもこわかった。おじいちゃんね、戦争でたくさん人をころしてきたんだよ」
 城田の碧眼が細められ、睫毛が頬に深い影を落とす。今にその理由が判る、と少女に言いたかった。いつまでも判らないままかもしれない、とも思った。哀しげに城田が笑ったのは、少女のそんな未来を同時に思い浮かべたからだった。どんな道を歩いていくのだろう。どんな無力感に苛まれることがあって、どんな希望に照らされることがあるのだろう。
「……明日は退院だね。おじいちゃんも、キミを迎えにきてくれるのかな」
「おじいちゃんはしんじゃったもん。去年、雪がふるちょっとまえ」
 城田はテーブルの上に置かれたいびつな折り鶴を見つめていた。廊下の方からは遠い喧騒と、夕食の匂いが漂いはじめている。今に看護婦がトレイを片手に、病室のドアをノックするだろう。缶詰めの汁がところどころを凝固させている甘いヨーグルトの匂いが、いやがおうなしにここは病院であるということを物語っているような気がした。
 それでも、ここは世界の終わりではない。少なくとも、世界の終わりだけの場所ではない。日々ここでいくつもの命が涙とともに産まれ落ちて、いくつもの命が涙とともに崩れ落ちる。ここは、そういう場所なのだ。
 少女の頭に手を伸ばすことが、城田にはためらわれた。拒まれることや泣かれることを畏れたからではなかった。幼い少女のかたくなな心に、自分が触れてはいけないような気がしたからだ。「そうか」城田は言った。「さみしいね」
 うん、と少女が声もなく頷く。
 テーブルの上に長く頼りない影を伸ばしている折り鶴を、二人はずいぶんと長いあいだ、黙ってじっと見つめていた。

 退院の日、少女を迎えにきた両親は何度も城田に頭を下げた。両手にパジャマや着替えや洗顔用具の詰まった袋を何個もかかえ、その様子に城田までもが困ったように笑いながら頭を下げ返す。
「利き手の骨折でしたから、鉛筆やお箸の練習にはもう少し時間がかかるかもしれません。ご両親が優しくフォローしてあげてください」
 そんな伝達をする婦長にまで何度も何度も頭を下げ、しまいにはエレベーターの扉に頭をぶつけて苦笑いしていた父親を少女はつまらなそうな顔でじっと見上げていた。城田や他のスタッフだけにではなく、もともとぶっきらぼうな少女だったのだ。
「もう、階段の柱に手を入れて遊んではダメだよ。痛い思いはしたくないだろう?」
 城田が話しかけると、少女は無言で母親の足にしがみつく。例外というわけではなかったが、やはり城田も彼女には好かれていないのだ。じと、と城田を見上げたあと、すっぽりと母親の影に隠れてしまった少女の姿はもう見えなかった。子供に隠し事はきかないのだと、城田はつくづくと思う。
 少女の両親は、エレベーターが閉まってしまうその瞬間まで、城田や婦長に頭を下げっぱなしだった。ナビゲーターが一階目指して順調に下降していくのを確認してから、二人はナースステーションへと引き返していく。
「やっぱり、私の開業は当分さきのことになりそうだ。今のままでは幼児禁制の病院にしなくてはいけなくなる」
 そんな城田のぼやきを聞いて、婦長は笑った。「そうですよ、城田先生は当分ここに腰を落ちつけてくださらないと困ります。こんなに子供に嫌われる先生は珍しいけれど、こんなに嫌われてもへこたれない先生だって珍しいんです」
 声音からして、婦長はどうやら褒めているらしい。有り難うと城田は返して、小さなため息を吐いた。