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<東京怪談ノベル(シングル)>


さあ、いち、にの、さん


 白い巨塔……もとい、白い病院内にて。
 はッと我に返った彼は、がばと身を起こした。
 白い部屋、白いベッド、白い枕、白い上っ張り。
 ベッドの傍らには『508 宇奈月 慎一郎様』と印字されたプレート。
「どこですかあ! ここはどこですかあ!」
 がっちり閉ざされた白い扉をゴンゴン叩きながら、宇奈月慎一郎は叫ぶのだ。
 彼は、入院していた。


 だがベッドの傍らをふと見れば、愛用のパソコンと、全焼してしまった屋敷から持ち出した数冊の本があったのだ。
「僕は正気なのに……」
 おい、知ってるか? コロシをやったホシはなあ、まず「オレはやってない」って言うんだよ。
「ですからほんとに正気なんですって」
 乱れた髪をかき上げて、口を尖らせながら、慎一郎はベッドに戻った。
 『幻夢卿考察』、『エルトダウン・シャーズ』(英訳)、『6年生のさんすう』……自分はあの大火事の中で、一体何を考えてこの本をチョイスしたのであろうか。というか慎一郎は覚えていないのだ。何故この病院に自分がいま入院しているかも、何故この本だけが手元にあるのかも。
 懐かしい教科書『6年生のさんすう』には、「うなづきしんいちろう」の名前がしっかり油性ペンでしたためられている。中を開けば、例題にきちんと正しい答えを書きこんでいる幼い文字があり、意味不明な落書きもあった。「きょうのきゅうしょく おでん」との記述もある。大変興味深い。彼は6年生の頃からおでん中毒だったらしい。
 そんなことも、すっかり忘れていた。
 くすり、くすくす、あはは、
 彼は昔を思い出し、そうして小さく笑うのだ。
 そう言えば、ずっと見ていた教育番組があった。今は亡き両親に、録画までしてもらって……。

 ああ、あの白いオバケ。
 なつかしい。
 彼のおかげで、文系な僕も算数が好きになれた。
 そうだ、僕のパソコンは友達なら何でも呼べる。
 彼も友達だ。きっと来てくれる。いや絶対に。

『てっぷらとーん!』
 ぼむ!

『ねえねえおにいさーん、きょうはなにをおしえてくれるの?』
 パクパクと大きな口を開閉させて、オバケは喋る。その声は明らかにアテレコだ。どこかで誰かがこのオバケを動かし、声をリアルタイムでアテている。慎一郎がしかし、それを追求するはずもないのだ。かつての友達が来てくれたなら、それで充分だ。
「今日はですねえ、暇なので、お相手をお願いしたいのです」
『なあんだ、かずをおしえてくれるわけじゃないんだ』
「ああっ、スネないで! 僕を見捨てないでええ」
『きょうのおにいさん、へんだなあ。みすてるわけがないじゃないか。だっておにいさん、おもしろいもの。もっともっと、ぼくらにちかづいてもらわなくっちゃ……そうだろ?』
 パクパクパクパク。
 こくこくこくこく、慎一郎は涙目で頷いた。
 にやあ、と白いオバケは微笑んだ。ただでさえ大きな口が、音もなく裂けたようであった。ボタンを縫いつけただけのような大きな目に、星の光が宿っていた。
『さあ……おしえてよう。ぼく、もっともっとしりたいよ』

「では、ええと、そうですねえ。1年が何日か知っていますか?」
『ちきゅうのいちねんだよね? ぼくしってる! 365にちだ!』
「ブー! 外れですー」
『えぇ! うそだあ!』
「正確には、365.256日なんです」
『びみょうだねー。……あっ! でもそれじゃ、しょうすうてんいかがどんどんたまっていって、どんどんずれていっちゃうんじゃない?』
「えらいえらい。だから『うるう年』があるんですよ」
『うるーどし?』
「256と256をどんどん足していってごらん」
『うー、えーと、……ゆびがたりないよ! ふやしてもいい?』
「はは、ちょっと難しかったですか? わかりやすく言うと、地球が太陽の周りを一周するのには、365日と4分の1日かかるんです」
『おにいさん、ずるいや! そういってくれたらわかったのにー。よんぶんのいちってことは、よんかいくりかえせばいちになるよね。ということは……』

 にやあ、
 白いオバケは微笑む。
 よくよく見ると、その貌は……
 貌は……
 覚えていられない、
 どこからどこまでがオバケの顔で、どこからがオバケの指なのか。
 そもそもこのオバケが、人が動かしたものであることなど、慎一郎は知っていたはずなのだ。いま慎一郎はこのパペットの紐など握ってはいないし――
 このオバケは、どこからかやってきてくれた。
 慎一郎のためだけに、無限にある時間を割いた。

『よねんにいちどだ。よねんにいちど、いちにちふやせばいいんだね』
「そう! よくできました!」
 にやあ、
『おにいさん、おもしろいね。ますますきにいったよ。どんどんぼくらにおしえてよ。おにいさんがどうやってもんだいをだしていくのか、どこでもんだいをかんがえるのか、どうやってぼくらをしっていくのか』
 にやあ、
 その笑みはひどく鮮明に脳裏に焼きつくのに、やはりオバケの貌を覚えてはいられない。
『ぼく、もういかなくちゃ。あの、ばかでめもみえないかみさまがまってるんだ。ずっとるすにしてると、おこるんだ。あのかみさま、ばかなのに、ちからだけはあるんだもの。もういってだいじょうぶだよね、しんいちろうおにいさん?』
「ええ、もう、日が暮れます」
『まったねー。てっぷらとーん!』

 そうして、白い病室の中には、宇奈月慎一郎だけが残される。
 バッテリーが切れてとうに使えないノートパソコンの終了処理をして、慎一郎は満ち足りた微笑みを浮かべた。
 そして、大人しくベッドの中に潜りこんだ。

 白い白い角から、得体の知れない煙が沸き起こる。
 がふっ、ぐるるるるる、ぅぶるるるる!
 白いオバケが携える、青い粘液と涎にまみれた猟犬が、唸りながら伏せをした。
『さあ、このおにいさんをみはっておいてよ。もっともっとぼくらはたのしまなくっちゃ。だってさ、ぼくらひまなんだもの』
 にやあ、
 無貌のオバケは空虚な笑みを浮かべると、白い角へと消えていった。
 その緑とも青ともつかぬ影は、黒い男のものであり、翼を持った燃え上がる三つ目のものであり、月に向かって吼えるものであり、エジプト神官のもので、
 白いオバケのものだった。
「てっぷらとーん……くすくす」
 永遠の夢の中で、慎一郎は挨拶をしている。




<了>