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<東京怪談ノベル(シングル)>


白塗りの美女

 ◆

 助けて。
 届かない声。
 誰か気付いて。
 ……お願い。
 気付いて。
 ………………私に、ここにいる私に、誰か気付いて。

 ◆

 呼ばれたような気がして、彼女はふと立ち止った。
 学校帰りの国道沿いの道。交通量の多い道路は、交差点の信号が青に変化したばかりだった。走り出す車の騒音にまぎれて、とても微かな声が聞こえたような気がした。
『……いて』
 海原みなも。13歳。
 その近くの公立の中学校に通う、色白のおとなしそうな少女である。
 美しい海の色を髪に溶いたようななめらかな長い髪に、空の色をした瞳の少女だった。
 彼女は振り返り、辺りを見回した。
「どうしたの、みなも」
 一緒にいた友人達が明るく雑談を繰り返しながら、一人立ち止ったみなもを振り返った。
「ううん、なんでもない……っ」
 その耳に再び、微かな声が届く。
『……て』
 みなもははっとしたように、もう一度振り返った。
 するとガードレールの足元に、煤けて泥だらけになった小さなキーホルダーが目に入った。小さな猫のマスコットのついた、小さなキーホルダー。
 手にとると、玄関の鍵のようなものか、幾つかの鍵がじゃらり、と音をたててみなもの手の平に広がった。
「あ……」
「みなも?」
「みなもちゃん、どうしたの?」
 友人達が振り返って、呼んでいる。
 みなもはそれを手に握ったまま、友人達においついた。
「これが……落ちてたの」
 友人達はみなもの手の中の薄汚れた落し物を見て、眉をしかめた。
「何かしら、鍵?」
「交番に届けたほうがよくない?」
「でも交番って」
 今、出てきた中学校の方角に戻ったところにある交番が、そこから一番近かった。
 真面目なみなもは、戻ってもいいかもしれないと、思ったが、友人達は笑ってそれを引き止めた。
「落としたばかりならそれでいいかもしれないけど……もう、それはずいぶんたっちゃってる感じだし」
「そうそう。明日学校に行ってからでいいんじゃないかしら」
 そういわれると、軽く後ろめたい気持ちになりつつも、友人達の言い分を差し置いて交番に戻る気持ちにはなれない。
 みなもは、友人達に「そうね、そうする」と頷いて、キーホルダーを鞄のポケットに詰め込んだ。
 そして再び、歩き出した。
 友人達の話題は、今が旬のアイドルの話。昨日放送されたドラマの展開予想。
 みなももその話についてゆきながら、いつしかそのキーホルダーのことは頭から消えてしまっていた。



 誰か来る……。
 闇の中で、みなもはそっと目覚めていた。
 静かな真っ暗闇の場所。彼女はその中にあるひんやりした台の上で寝ていた。
 ……ここはどこ?
 学校から帰って、夕食ととって、お風呂に入って、ベッドに入った。
 けれど明らかにそこは、自宅とは思えない場所で。
 ……夢?
 そう思うのが一番、合点が行く気がする。
 足音はコツコツと響き続け、やがてその部屋の前で止まった。
 扉が開く音がして、誰かがが……入ってきた。
「あの……」
 あなたは誰ですか? そう尋ねたかったけれど、唇は動かなかった。
 瞼ひとつ動かすことができない。
 
 ぬちゃっ。

 妙な音がする。
 その足音は多分男だろう。大人の男……みなもはそう思う。
 薬でも打たれたのだろうか。みなもは不安を感じ始めた。
 それになんて寒いのだろう。
 服ぐらい着せてくれたらいいのに……。
 服!?
 自分で思って気がついた。みなもは服をつけていない。
 ……不安が強くなる。
 その時。
 
 男がみなもに向かって近づいてきた。
 冷たい指がみなものお腹に触れた。冷たくて悲鳴をあげたくなる。でも、体はぴくりとも動かない。
 続けて。
 
 ねちゃっ。

 熱い泥のようなものが体に突然かけられた。注がれるようにお腹を中心に、胸に、腰に、太ももに。
(な、なんなの!?)
 気持ち悪さと熱さでみなもは、強く逃げ出したいと思った。なのにけして体は動かない。
 男の手の平がもられた泥を体になすりつけてくる。
 まだ未熟な発達途中の双丘の上に、指をすべらされ、みなもは絶叫したい気持ちになった。
 ……しかし、本当の嫌悪はそれだけですまなかった。
 やがて熱を発していた泥は、空気に晒され、冷め始めた。
 と、同時に、みなもの体に固くへばりついてきたのである。
 男は……その上にまた泥を注いだ。
(……ど、どういうこと)
 みなもは死んではいない。例え夢でもわかる。息をすれば大きく胸は上下する。
 それなのに男はまるでそれを楽しんでいるかのように、みなもの体に何遍も重ねて泥を塗り続けた。
 そして……。
 恐れていたことが起きた。
 熱い泥がみなもの顔の上にびしゃりとかかったのだ。
 鼻腔に薄く開いた唇の隙間にもそれは侵入する。
 かびくさい、いやな匂い。
 息が出来ない。
 僅かに身じろぎしても、男は容赦しなかった。こてを持ち出したのか、ぺた、ぺたっとすでに固まった体の腕に何かを重ね塗りし続ける。
(いや……苦しい! 苦しい!!)
 みなもはもがいた。
 体は指一本動かなかったけれど、その苦しみは尋常ではなかった。
 体の神経の全てが硬直し、流れる血管のすべてが酸素を求めた。
 死にたくないという思いが、気が狂わんばかりに猛々しく心の中で吠える。
 大好きな姉妹達。もう会えなくなるかと思うと、その喪失感で絶望する。
 闇の中から、闇の中に沈んでゆく感覚……。

 みなもは必死で叫びながら、深い意識の沼へと沈んでいった。



 こんな悪夢はもうたくさんだった。
 早く目覚めてしまいたかった。
 けれど、目覚めたみなもは、まだ同じ場所にいた。
 昨日と違うのは、彼女は立たされていたこと。
 彼女の全身は昨日と違わず、何か……粘土のようなもので包まれていた。だからそこがどこかわからない。
 けれど暗闇の向こうを見てみたいと望むと、どこからか光の漏れる場所を見つけ、彼女はそこから外を見ることが出来た。
「……ここは……?」
 広い場所。
 まるで公園のような風景。芝生に包まれてはいるが、まだ工事中らしく、ビニールをかけられたままのベンチや、工事の資材が転がっている。
 彼女はその中に立たされていた。
「どこ?……」
 ここから出して欲しかった。時折、黄色いヘルメットをかぶった作業員がみなもの前を歩いてゆく。けれど、誰も気付かない。
「ここから出して!出して!出して!!」
 叫んでも、叫んでも、誰も気付かない。
 みなもはひたすら祈った。
 念じた。
 夢なら醒めてと叫び続けた。
 その視線の先に、小さな光るものがある。
 キーホルダー。小さな猫のついた、わたしのキーホルダー。
 それは、彼女の家の鍵と、自転車の鍵と、仕事先のロッカーの鍵がついたキーホルダー。
 お願い、それを拾って。警察に届けてくれたら、私が家に戻ってないって気付いてくれるかもしれない。行方不明になってるのだと。
 やがて思いは通じたのか、一人の作業員がキーホルダーを広いあげてくれた。
 泥だらけのそれを、作業員は指で何度か見たあげく、近くのトラックの荷台に放った。
 それがもう使わない資材を積んだ、ゴミ捨て場に向かうトラックなのだとわかり、彼女は絶望した。
(捨てないで!!)
 私を見つけて!
 ここにいるの!!どうか気付いて! ここから出して!!!

 いつしか、彼女の意識はキーホルダーと共にトラックの上にあった。
 信号待ちで止まったトラック。その振動と共に、キーホルダーは跳ね上がり、ガードレールの下に落ちた。
 その道は通学路なのか、制服を着た少女達が楽しげに歩いている。
 彼女は叫んだ。

 助けて!!!
 誰か気付いて!!!
 ………………私に、ここにいる私に、誰か気付いて!!!!

 一人の少女が足を止めた。
 ほっとする彼女。
 その少女はとても綺麗な青い髪をしていた。そして不思議そうな顔で、キーホルダーを拾い上げた。
(私……)
 みなもは、自分を見つめ、目を丸くした。
 その少女はみなも……自分自身。
 驚くと同時に、みなもの遠くなっていく意識。
 
 最後に聞こえたのは、みなもではない違う人の声に聞こえた。

 お願い……私をここから出して……。



 小鳥の声で、みなもは目覚めた。
 体はいやになるほど重かった。
「……」
 青い髪にそっと手をやり、ため息をつく。
 長く……そしてとてもいやな夢だった。そして……。
 みなもは、自分の机の上に、視線を向けた。昨日鞄のポケットに詰めたはずのキーホルダーは、机の上に置かれていた。
 まるで何かを言いたげに……。
「……わかってる」
 みなもは小さく頷き、瞼を伏せた。



 その公園は、春から文化センターが建設される予定地だった。
 まだ早朝、6時を過ぎたばかりの時間では、その工事現場に足を踏み入れるような人もいない。
 キーホルダーを握りしめ、みなもはその工事現場の敷地内にある一つの石膏像の前に佇んでいた。
 人魚を描いた美しい石膏像。製作したのは、みなもは知らない名前だったが、きっと著名な作家なのだろう。
「……」
 みなもはそっと人魚の顔に触れた。
 刹那。
 その人形の瞳から赤い涙があふれて、頬に伝う。
「!!!」
 思わず後ずさりするみなも。
 もう一度見直すと、涙は消えていた。
「……」
 見間違い?
 いや、そんなことはない。
 みなもは悲しげに石膏像を見つめ、それからもう一度、人魚に近づいた。すると、今度はキーホルダーを握った手が勝手に動いた。 
 拳を作り、石膏像に振り上げられる。
 パキッ。
 キーホルダーの鍵の部分が、石膏にヒビを入れた。
 みなもは目をこらす。ヒビ割れたその奥に……彼女がいる。
 そう思うとたまらなかった。無我夢中で、石膏像を叩き始めた。
 両手でただ、叩いた。
 ひびわれた隙間に指を入れ、引きむしるようにして、はがす。

 誰かが叫ぶ声がした。
 出勤してきた工事の作業員だった。彼は、勝手に現場に入り込み、像を壊していた女子中学生を止めようと怒鳴りながら駆けてきた。
 しかし。
 彼が声をかけたとき、みなもは、人魚の顔の石膏をはがし取った。
 その白い壁の向こうから、大きな空洞が作業員をとらえた。
 腐った肉のそげた頭蓋骨。
 何をか言わん雰囲気で、長い黒髪を乱し、それはそこに眠っていた。
 叫び声をあげて、腰を抜かす作業員。
 みなもは、目を細めて、その頭蓋骨に微笑んだ。

「ごめんなさい、長いことお待たせして……」



 赤いランプが光っている。
 パトカーのうちの一台から降りてきたみなもは、ため息をつきながら、それを背に歩き始めた。
 悪夢を見たから来たのだといっても、信じてくれないだろうけど。
 
 ……キーホルダーは警察の人に渡してきた。
 だからもうあんな夢は見ないだろう。……もう二度と。

 
fin.白塗りの美女