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<東京怪談ノベル(シングル)>


ブラックアウト



 歩幅の狭い少年の肩とこすれるように、人々は足早に歩を進めている。どうしてそんなに急ぎ足で道を行くのか、彼――ゼゼ・イヴレインには理解できなかった。フェイド・インしては遠ざかっていく会話、携帯電話への怒鳴り声、そして笑い声。しかしその方が都合が良いであろう事もゼゼは知っていた。人込みは自分の姿を隠すことのできる絶好の隠れみのだ。少なくとも銃弾が飛んでくることはないし、刃物におどされてもうまく逃げおおせる可能性も高い――もっとも、そんなものにつけ狙われるほど愚鈍な彼でもなかったのだが。
 彼は黙々と人込みの中を往く。端正な横顔に表情は感じられない、興味ぶかげにどこかへ視線をさまよわせることもしない。彼を華奢な女の子だと安易に勘違いして声をかけようとしていた若い男が、ちらと横目すら与えないゼゼの横顔にうろたえた様子を見せた。彼の後ろ姿を見送りながら、男はいささか面食らったように目をまたたかせている。
 死んじまえ、みんな。
 不穏な独白を脳裏に浮かべて、ゼゼはただ黙々と駅への道を歩んだ。年頃の少年らしくはないだろう、鋭く冴えた眼差しは昂ぶった獣の冷静さをはらんでいる。己の範疇に踏み込もうとする者すべてに牙を剥く野生の鋭さだ。それでいて冴えわたった赤い瞳には、目の前を歩く大学生の背中も、踏みつけられて澱んだ灰色になったチューインガムもくず紙も映されてはいない。荒廃と喧騒のさなか、彼の視線はただ真っすぐ前を――未来と、それに附随する過去のみをじっと見すえている。
 その目は、あの日の自分に注がれた視線と同じものである。
 その目は、あの日に自分を蔑んだ視線と同じものである。
 虚空が胸をじわじわと侵食していくのを感じると、ほんの少しだけゼゼの眼差しが細められた。緋色の瞳をまつげが陰らせる。苛立ちが原因かもしれない。彼にはわからない。
 やがて、ぽっかりと空いた胸の空洞に、下水に蓄積している汚泥にも似た憎悪の念がふつふつと沸き上がってくるのをゼゼは感じた。握りしめた拳の理由ならわかる。殺意だ。明確で、鋭利で、そして限りなく絶望に似た殺意。手のひらに鈍い熱さを感じれば、爪が食い込んで薄い皮がピンク色に滲んだのを知った。血。疼くような熱は感じたが、痛みはない。痛みがあればいいと思った。痛めば胸の痛みは幾分かやわらぐだろう。
「行け、やばいからゼゼ」
 要人暗殺――それがその時のゼゼの使命だった――は、決して一人で立ち回ることはない。実行することを決められた一人と、それを助けるもう一人。ゼゼが身を寄せていたその組織では、決まって二人のチームで作戦を実行することになっていた。ちっと風邪引いちまっておかしいかも、そんなパートナーの言葉をゼゼは思い出す。でも大丈夫だから、熱もないし、っていうかいつもより冴えてるし。
 そのときならまだ引き返せたのだ。パートナーを変えてくれ、そう上層部に噛みつくこともできたろう、が、ゼゼもパートナーもそれをしなかった。それをしないまま、パートナーが不意にもらしたくしゃみで、全てが終った。
 パートナーが包囲され、ゼゼは跳ねるように駆けて暗闇のなか物陰に身を寄せた。背中を壁にぴったりと付け、視線だけで警護の包囲網を逡巡する。そのこめかみに感じた、ひんやりとした銃口の冷たさをゼゼは一生忘れることがないだろう。心臓が鷲掴みにされるような衝撃と、めまい。ひくりと肺が痙攣し、ゼゼは横目で銃の主を見る。
 おそらくは、自分よりも僅かに年上だった。パートナーを取り巻いている要人警護の連中と同じ制服の、袖から真っすぐに伸ばされていた手首がゼゼよりもほんの少し大人びていた。大人の男の腕でも、ましてや身長でもない。
 表の警護がぐるりと辺りを照らした懐中電灯の帯が、相手の顔を一瞬だけ捉えた。
 目。
 そこにはどんな感情も篭ってはいなかった。
 じっとゼゼを見つめ、非道くゆっくりとしたまばたきをした――それはいつになく速い動悸を刻んでいた自分の心臓のせいだったのか、ゼゼにはうまく思い出せないのだったが。
「――……」
 こめかみから、冷たい硬質が退いた。行け。眼差しがそう言っているようにも見えた。今生を手放す決意ならいつでもできていた――数分後の自分の生死を予測できない生活である。死への片道切符は常にゼゼの胸にあった。みはった両目でゼゼは、自分に銃口を突き付けていた警護を凝視する。その目は、やはり軽侮に透きとおりすぎているように見えた。
 ゼゼは再び跳ねる、更なる暗闇へ向って。後ろから背中を狙われる可能性は充分あった、だが、凍てついた目をした影はそれをしなかった。暗闇は排気ダクトへと繋がっていた。パートナーが確保した脱出口だ。
 埃と煙草の脂と汗とネズミの糞に汚れたゼゼは、後を振り返ることなく駆けた。任務に出てこれほどまでに息を切らしたことはなかった。スマートな仕事、スマートな脱出、スマートな身のこなし。崩れ落ちるように膝を折り、両手のゆびで土を掴んだのはどれくらい走ったあとだったのだろう。警護の尾行を恐れて、二日さまよった。三日目の昼、ニュースでアジトが報道されているのを見た。それでゼゼはようやく、この街に戻ってきた。
 ちらりと視線を投げたドトールコーヒーのオープンテラスで、恋人らしき男に甘えて笑っている女が髪をかきあげながら隣の席の男を見る。その視線があの日、自分を逃がした警護の目を彷彿とさせる。隣の席の男は独りテーブルに腰を下ろし、何やら熱心に分厚い書物に読み耽っていた。
 背すじに鋭い戦慄が走り、ゼゼの歩調が僅かに緩められる。
 が、予感にも似たそんな仕草はすぐに解かれてしまった。自分はあの時、暗がりで壁に背中を付けたとき、すでに傍らにいたのであろう警護の気配を感じることができなかった。無理だ。あんな身のこなしは女に――しかもあんな馬鹿みたいに短いスカートを履くようなタイプの――できるわけがないのだ。男だろう、ゼゼは想像する。自分と同じような境遇、自分と同じような身体能力、自分とおなじような容姿と年齢。そんな男に決まってる。そうでなければ、あんな目はできない。ゼゼはふたたび真っすぐ前を見て歩きはじめた。そして、深い孤独の胸へと意識を没頭させていく。
 黄色と黒のボーダーテープの向こうに見た暗い事務所の窓を、ゼゼは思う。今しがたの光景だ。角には紺色の制服を着た警官が何人も警備を固めていた。電気屋のショウウインドウに陳列されていたテレビで見たニュースは、嘘ではなかったのだ。事務所――人材派遣の事務所と小さな看板が貼ってあったが、そこはゼゼの与していた組織のアジトだった――の窓は暗く、ガラスが割られていた。捜索明けだったのだろうか、わずかに覗くことができた室内は無人で、見慣れたアルミの棚やデスクの回りには紙の束が散乱していた。決してゼゼが中を見せてもらえなかった引出しも虚ろに開けられて、書類の白が中途半端にはみ出ていた。
 組織の者は、おそらく一人残らず逮捕されてしまっている。大規模ではあったが決して結束が堅いわけではなかった組織の上層部が、もし一人でも逃げおおせていたとしても誰かがその居場所に関して口を割るだろう。文字通りの壊滅、である。
 間違いない。
 もう、帰る場所はなくなってしまったのだ。
「――ちくしょう」
 ゼゼの隣を行く男が、そんな不意の独白を不審げに一瞥した。だがその様子をゼゼに気取らせる様子はない。ここは大通り、有象無象がひしめく安穏なブタ牧場なのだ。誰も迷い込んだオオカミを糾弾しない。糾弾することの果てにある屠殺への予感を、誰もがその腹に秘めているのだ。ゼゼは歩いた。
 する事はすでに決まっていた。
 あの日、自分を蔑んだ者への復讐。
 侮蔑には制裁を、壊滅へは破滅を。
 その後の事はその後考えればいい。
 夕暮れの大通りには、昼の明るさへの淡い後悔と、夜の眩しさへの仄かな期待が入り交じった複雑な空気に満ちている。ゼゼは歩く。喧騒は止まない。