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南瓜騒動〜後日談〜
・プロローグ
――あと、何日だろう。考えるたびに胸苦しさが襲い掛かってくる。
シュラインは、陰鬱な表情で顔を上げた。
どんよりと曇った世界は、まるでこの世の終わりのようで…息苦しさに口元を押さえ、帳簿をぱたんと閉じてゆらぁりと立ち上がった。
「――武彦さん、お願い。せめて換気扇は付けて」
どうやったらたった1人でここまで世界を白く染めることが出来るのか。
いそいそと立ち上がり――それでも煙草を口から離そうとしない武彦に、内心で深々とため息を吐いた。実際に目の前でため息を吐きたかったのだが、
――やれば確実にムセる。
・同盟結成
「困りました」
給湯室でしつこい位熱心に湯飲みを洗っていた零が、シュラインが入ってきた途端振り向きもせずに言い放つ。
「…今、どのくらいなの?」
「4箱は軽く」
それじゃヘビーを通り越してチェーンじゃない…そう呟いて、事務所に通じるドアから微妙に洩れてくる白い煙を恨めしげに見つめる。
「それだけなら、まだ良いですけれど」
ぐりっ、とスポンジを力いっぱい回すと、ぱきっ、という小さな音が聞こえ。零の手が止まる。
「……」
黙ったまま、足元のビニール袋に泡が付いたままの湯飲みを持った手を離す。ごとん、と鈍い音がし、中を覗いてみると、既に数個の湯のみが同じような状態で屍を晒していた。中には半分に断ち切ったようなものまである。
「また、やってしまいました。…困りましたね」
引きつった空間の中で、妙に冷静な口調の零が、怖かった。
「煙草代に、消臭剤に、洗剤に…換気扇は回しっぱなしだから電気代も馬鹿にならないんですよね」
「おまけにのど飴とスプレー、それに目薬もね」
はー、っと2人で顔を見合わせてため息を付く。
先日の依頼に付いてきた、いや憑いてきたオマケ…恐らくは生まれて間もない炎の精霊のお陰で、草間興信所は常にない状況に陥っていた。
普段から煙草を嗜好品としてこの上なく愛している武彦が、ライターに住み着いたその精霊を理由に、大っぴらにしかも際限なくすぱすぱやり始めたのだ。まさに今は寝ている時以外は煙草を口から話さない状態。この間などそれで客が1人扉を開けた途端踵を返して逃げてしまった位で。
「煙草はぜいたく品なんです。事務所の維持費を使うものじゃないんです」
「…かと言って、あの子を『消す』のは…」
「それは、私もそこまでは…可愛いですもの」
時折武彦の前髪をちりちりにしはするものの、楽しそうに炎の中で揺らめいている『彼』を無理やり消すのはしのびない。とは言え、もう限界だった。煙草の匂いが染み付いたスーツをクリーニングに出す回数だってこのところ激増しているのだし。
「他の火は?」
不意に、シュラインが呟いた。え?と顔を上げた零に指さした先は、ここ、給湯室の隅にあるキッチン――ガスレンジ。
「ガス台は、武彦さん滅多に使わないでしょ。ここに説得して移動してもらえれば」
「ああ、そうですね!そうです、そうしていただきましょう!――なにがなんでも」
…嬉しそうに言った零の、最後の呟きには、殺気すら感じられた。
・行動開始
「どう?」
「…なかなか外に出る用事がないみたいですね…うーん。どうしましょう?」
最近急に増えた、給湯室での長いティータイム。不審感を抱いているかどうかはともかく、武彦が何かそれについて言って来ることはない。
「偶然を待つより、行動あるのみかしらね。…仕方ないわ、あんまりやりたい手ではなかったのだけれど」
「?」
不思議そうにこっくりと首を傾げる零。にっこりと笑ったシュラインは、それ以上何も言わず給湯室を出て業務を再開した。
「零、そろそろ煙草が切れそうなんだが追加してくれないか?1カートンだと非効率的だから、今度は3つか4つくらい買ってきてくれ」
「…またお使いですか?このところ回数増えてますよ」
渋い顔をしている零に、まあまあ、と武彦が言い両手を上げて取りなす。
「これもまた、コイツを救うためだと思って、な?」
残り少ない煙草を口に咥え、しゅぼ、と火を付ける。
『ヒをおつけいたしますのだー』
来た時よりも大きくなったように見える『それ』が、けけけけっ、と笑い煙草の先に火を付けるとうやうやしく礼をしてしゅるぅん、とライターの中に消えていく。
「…教えましたか?」
「いや。どこからか勝手に覚えてくるみたいだな」
――いつも付けているテレビじゃないんですか?
言いたい言葉をぐっと抑え、事務所のお財布を手に買い物に出ようとする零。
「あ、ちょっと待って零ちゃん。私が出るわ、他に用事もあるから。…他に必要なもの、ある?」
「それでしたら、換気扇用洗剤と、消臭剤の追加をお願いします」
「分かったわ。…それじゃ武彦さん、少し出てますので」
「ああ、頼むよ」
ひらひらと手を振ってシュラインを送り出すと、心底美味そうに煙草を胸いっぱいに吸い込んだ。
それを、恨めしそうに見つめる零。
そんな平穏?なひと時を破ったのは、一本の電話だった。ぱたぱたと走って電話を受け取ろうとする零を手で制し、ぎゅ、と煙草を押し付けて電話を取る。そのすぐ後の表情の変化は流石職業探偵と言おうか、素早くメモとペンを手にさらさらと何か書き付け、早口でいくつか質問を繰り返し、そして電話を切って…暫く煙草に火を付けることもなく口元に手を当てながら天井を見上げる。
「――ふむ」
「どなたからですか?」
「ああ、いや。…依頼人だよ。それも正規のね」
時折ある、本来の『興信所』としての依頼。まあ、と零がぱっと顔を輝かせて嬉しそうに笑みを浮かべる。
「出かけてくる。そうだな…1時間程で戻る」
エマに伝えてくれ、と告げるとすたすたと事務所から消えた武彦。
「いってらっしゃい」
笑顔でそれを送り出した零は、早速事務所の全ての窓を全開にして、冬の冷たい空気を一斉に換気し始めた。
エマが戻ってきたのは、その数分後。
「ただいまー…武彦さんは?」
「依頼の方がいましたので、出かけました」
「そう。――寒くない?」
「このくらいなら、平気です」
ガッツポーズを取る零に、ああそう、と曖昧な笑みを浮かべ、換気が済んだことにして窓を閉めて行く。
「さて、じゃあ始めましょうか」
カートンの束を武彦の机の上に置き、きょとんとする零に言葉をかける。
「――鬼の居ぬ間に、よ」
「ああ」
ぽむ、と手を打ってこっくりと頷くと、武彦が置いて行ったライターをがし、と掴んだ。
・異動願い
「精霊さん、精霊さん」
零が呼びかけながらシュッ、とライターの火を付ける。
『――ナニ』
ちょろっ、とだけ頭を出して、不思議そうに2人を見つめる炎。武彦が使っているライターなのに、何故武彦じゃなくてこの2人なのかと思っているようで、少しずつ少しずつ身体を出していきながらきょときょととあたりを見回している。
『イナイ』
なんで?とでも言うように2人を見上げ、再びあたりを見回して炎の姿でくりん、と?の形を取る。
『フシギ』
「武彦さんは、お出かけしてるの。…でね、あなたに相談なんだけど、良いかしら?」
『そうだん、きくー。オクサマとでんわ?』
―――普段何を見ているんだか。
シュラインと零はゆっくりと話し出した。精霊にも分かるように、簡単な言葉に置き換えながら。
武彦が、ライターを使うために煙草を吸う。その本数が物凄い数になっていること。毎日煙たい思いをしながらいること。つまり、2人が困っている、ということ。
それを聞いて、炎が一瞬完全に引っ込みかけ、そして再び小さく頭をもたげて2人をじ、と見つめた。
「それでね。ここも頻繁に使うし、炎の量も多いから」
ライターごと零を傍に呼んで指先でとんとん、と給湯室に置いてあるガスレンジを叩く。
「こっちのガスレンジに移ってもらえないかな?って。どう?」
『がすれんじ』
何だろう、と興味しんしんで見つめる炎。
「この間、あなたの身体を煮たり焼いたりした場所の、お友達よ」
『ホゥ!タベタ、タベラレタ。――タベタ?』
「もちろん。美味しかったわ」
『ホホホーゥ!!』
「きゃっ」
ボゥン、と一瞬ライターの火が天井近くまで伸び、そしてしゅるるん、と戻って来る。
「――びっくりした」
零が目をまんまるにして、かろうじて焦げずに済んだ天井を見上げている。
「…とにかく、こっちよ。見て」
かち…ぼッ。
『――――――』
円形にバーナーが青い炎を吐き出した瞬間から。
ライターの炎は笑うことも喋ることも忘れ、長い間見入っていた。
ゆらん、ゆらん、と左右にゆっくりと身体を揺らしながら。
「どうしたの?」
暫くしてそっと声をかけたシュラインに、はっとしたように顔を向けて…それから、口の部分がぱっくりと開いて大きな笑みの形になる。
『がすれんじ。いっぱい』
「…移動、してくれますか?」
零の言葉は、確認と言うより哀願に近かった。何しろ、今後暫くの事務所の資金に関わることなのだ。零にしてみればどうしても選んでもらわなければならない選択肢で。
「毎日火は使うから、楽しいわよ?」
後押しはしながらも、強制しようとはしないシュライン。
――ゆらぁん。
『ごー』
まさに喜び勇んで、という言い方が相応しい、飛び跳ねて飛び込んでいく動き。ライターから飛び出した炎はガスレンジの炎たちの中に、混じり、溶けて――消えた。
・報復、そして
「――もう5本目ですよ?」
事務所内に冷たく響く、零の背後からの声に武彦は引っ張り出しかけた煙草をしぶしぶ箱の中に戻し、これしき何でもない、というクールな表情を作って後ろを振り向く――と。
にっこりと。
スプレー式の洗剤と、ヤニで茶色く変色した換気扇の羽と枠を差し出して。
「ビルの裏手に水道がありますから、お願いしますね?」
外は寒い、と言う雰囲気すら与えずに。
武彦はジャケットを着込み、背中を丸めて事務所の外へと消えて行った。
あの日予告どおり1時間程で戻ってきた武彦には、零の実に嬉しそうな笑顔と厳しい節煙管理が待ち構えていた。
そして、シュラインと零に取っては久しぶりの清浄な――ああ、空気ってこんなに美味しいものだったのね、としみじみ味わえる安息の日々が訪れていた。
「そういえば、」
きゅっきゅっ、と窓ガラスを綺麗に磨いていた零が思い出したように振り返り、
「あの日のお客様、結局どうなったんでしょうか?」
「あら、聞いてない?切羽詰った様子だったんだけど、顔を出すのが恥ずかしくなったのか、待ち合わせに来なかったんだそうよ」
新しく買い揃えた湯のみを洗い終えたシュラインが、自分の椅子に就きながら零に言葉をかける。
「そうだったんですか?――って…」
そこでようやく、シュラインの悪戯っぽい笑みに気付く零。
「あなただったんですか」
「ええ」
あんなに簡単に引っかかるとは思わなかったけれど、とシュラインが呟きながら頷き、
「…あまり、騙すのは良いことではないですけど…」
とことこ、と近寄ってきてがし、とシュラインの手を取る。
「よくやってくださいましたっ」
半ば上気した顔で。そして、きゅっ、と眉に力を寄せて。窓を拭いていた雑巾を持ったままで。
「またこんな事があれば、宜しくお願いします――私も、協力しますからっ」
目が潤みかける程――今回のことは腹に据えかねていたらしかった。
『おゆー。おゆー。わいたー』
開いた扉の向こうから、歌うような声が聞こえて来る。お湯がふきこぼれてじゅぅっ、と弾ける音と、まるで楽しんでいるようなきゃーきゃー言う悲鳴も。
「あら、大変」
ぱたぱたと零が扉の向こうに消える。そして、
「新しい湯のみでお茶にしましょうか。お兄さんもそろそろ終わっているでしょうし」
「ああ、それなら呼んでくるわ。零ちゃんはお茶の用意、お願いね」
「はい」
事務所の扉を開け、冬の空気にぶるっと身を震わせ、そして裏手にいる筈の武彦を呼びに出て行く。
――あの日。
買い物を手早く済ませ、得意の声帯模写で依頼人に化け、武彦を騙してしまったことは、仕方なかったと言い訳をしても、未だに罪悪感を消せずにいる。零は満足していたようだが…。
「武彦さん。終わった?」
「ああ、もう少し」
コレも零の罰のつもりか、いや単に冬だからと言ってお湯で洗うという『贅沢』は考えていないだけなのだろう。赤い指先が冷たそうで、思わず武彦からは見えないだろうに顔を背けてしまう。
「終わったら、零ちゃんがお茶にしましょうって。用意してくれてるから、早く早く」
「そうせかすなって。くぅ、自業自得とは言えなかなか落ちないもんだな」
ごしごしと磨く音が響き、そして。
「…公衆電話は、外の音がしない方がいいな。いくら声を変えても、何処からかけているのかが分かれば…言ってる意味は、分かるな?」
「―――――っ」
よし、終わり、と最後に水で綺麗に流し終えて、立ち竦んでいるシュラインに小さく笑いかける。
「どうした?」
「武彦さん、」
言葉が続かない。何か言わないと、と思ってはいても。
「俺が知っていたってこと、零には内緒だぞ?まあ、これ以上意地を張ったら俺の方が追い出されそうだったしな」
行こう、そう言いながら立ち上がる。その手は真赤で酷く冷たそうだったが。
「はい…ごめんなさい」
最後の呟きにぽんぽん、と軽くシュラインの髪を撫でた手は、何故だか温かかった。
・エピローグ
『ぐつぐーつ。こげこーげ』
「焦げてないわよ。もう」
おたまでこつん、と炎の頭を叩く真似をする。きゃぁ、と笑いながら一旦引っ込み、その反対側から今作っているモノを興味深げに覗き込む精霊。
時々ふきこぼれて一部消されながらも、隣のコンロや避難用に置いてあるカップの中に逃げ込んでは事無きを得ている。
すっかりこの場に馴染んだようで、時々揚げ油の『中』に飛び込みたがっては零にたしなめられているが、とにかく毎日楽しそうだった。
ちなみに、避難用のカップは武彦からの贈り物で。コンロの奥、隅っこにちょこんと置かれていた。
オレンジ色の小さなカボチャが中央で不敵に笑っている、カップが。
---END---
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