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<東京怪談ノベル(シングル)>


ホワイトアウト



 シューティンググラスの黄色が視界を鋭く染める時、藍は地球上のどんな獰猛よりも凍てついた本能を持つ。研ぎ澄まされ、洗練された視界の中心に人型の的を据えると、その輪郭が目に痛かった。今なら、的に規則的に張り巡らされている点線の点と点の境目にだって銃弾を食い込ませることができそうだ。
 銃を両手に握りこめてその口を的に伸ばすと、上腕の筋肉が歓喜に張りつめたような気がした。それをありありと藍――藍銀華は実感し、ともすれば急ききってトリガーを引いてしまおうとする人差指を理性で制する。
 しばらくは、拮抗である。藍の中の研ぎ澄まされた本能と、その鋭さを窘めるような理性とのはざまで彼女は息をひそめ、そして――銃口を下ろした。
 地下の射撃場では、壁の向こうに濃密な地下の静寂がある。そのせいでことさら場内に銃声は響き渡るのだろう。藍と同じく訓練のために的へ向けての射撃を繰り返している同僚たちの銃声は、プロテクターとプラグの向こうで藍の琴線に触れぬ程度の大きさで響き渡ったが、硝煙とともに鼻腔から入り込んでくる重厚な振動だけは避ける術がない。
 眼差しは的をじっと見すえたままで、藍は右手に銃を握り直している。グローブの軋みが心地よい。それは藍に、己の存在理由をすぐ目の前まで提示してくれているような気がする。晒された存在理由は、いつも藍が手を伸ばすと勿体ぶって掻き消えていく。その理由は彼女には判らない。ただ、端正すぎる凛々しい眼差しが僅かに伏せられるだけである――そこには年相応の少女性などと言った甘い和らぎはない。
 その証拠に、ここで行われるべきは、演習ではなく訓練であると藍は思う。いかに的へ上手に銃弾を撃ち込むかの演習ではない。己を制し、いざと言う時のためにどう効果的に標的を仕留めることができるか、それを己自身と探り合う訓練である。だから藍は、手指が最も望んだ時には的を射ない。狂喜し、猛る己の体内を力強く制し、押し込めたあとで漸く的を射るべくトリガーを引く。それをするから、いざと言うときに迷うことがない。いざと言うときに、標的をしとめそこねることがない。
「今日も絶好調かい、藍銀華? お前が訓練場に来ると的が泣くぜ、風穴なしでは終われないってね」
 冷やかしなのかあいさつなのか判らない口調で、同僚が藍に話しかけてくる。プロテクターに阻まれて聞こえなかった振りをして藍が遣り過ごすと、同僚は肩を竦めて歩いていってしまった。安っぽい軽口が彼女は好きではない。少なくとも、ここはそういう場所ではない。
 ――が、そんな思考の端で、違う、と藍のどこかが自分自身に告げていた。
 普段なら、せめて同僚の言葉に愛想笑いを口許に浮かべることくらいできたはずだ。ばかにされていたわけではないし、彼の声音に侮蔑の色があったわけでもないのだから。
 そこに至り、ようやく藍は確信する。認めざるを得ない、そう思い至る。
 自分が苛立っている原因とも言える、幼い侵入者の後ろ姿を思い浮かべると胸を刺す、不安にも似たほんの小さな仕え、である。

「異常ありません。任務を続行します」
 あの日に自分がレシーバーに返した、抑揚のない声音は今も藍の耳の奥に響きつづけていた。どうしてあの時、銃口を向けた相手を撃たなかったのだろうと思う。どうして銃を下ろして相手を逃し、あまつさえその存在を上司に報告しなかったのだろうとも。侵入者はその華奢な両手にどんな武器を携えてもいなかったし(体術が武器、という輩もいる。武器を所持していないからと言って安く見ることは禁物だが)、おそらくは藍の気配にもまったく気がついていなかったのだろう。どうトリガーを引いても、仕留め逃しのない距離。
 弾は一発で足りるはずだった、相手のこめかみを打ち抜いて終わりである。もしも即死の様子がなかったとしても、床の上でのたうちまわるであろうその姿をただ見ていれば済んだはずだ。
 それなのに、自分はあの日、それをしなかった。
 理由は判らない。
 闇に慣れた目で、藍はあの瞬間はっきりと相手の顔を見た。藍の気配を全く気取っていなかった侵入者は、藍がこめかみに銃口を押し当てた瞬間に非道く絶望に歪んだ光を放って、彼女を見上げた。
 その瞬間、確かに藍は見たのだった――その丸く陰った瞳の中に、幼いころの自分の姿を。
 どうしてそう感じたのかは判らない。藍がその日に任務としていたのは要人警護で、相手はその要人を暗殺しにやってきたどこかの組織の人間だったのだと思う(実際、相手が所属していたと思われる暗殺組織が警察によって一斉検挙されたと聞く。今はほぼ壊滅したと言っても過言はなかったろう)。性別までは判らなかった――藍よりも僅かに低い背丈、恐怖に打ち震える子供のように大きく潤んだ眼差し。大人の男ではないだろう事だけが見てとれた。あんな危うい目ができるのは、大人の男ではありえない。
 ただ、藍は、こめかみに銃口に突き付けられて息を呑む相手の眼差しをじっと見つめ――そのあとで、銃をゆっくりと下ろしたのだ。行け、そんな口唇の動きすら相手の目に留めさせて。
 会社に報告することもしなかった。自分の前を小さな侵入者が通り過ぎ、その数分後にはおそらくその屋敷を脱出したであろうことを、会社にも同僚にも藍は口を噤んだままでいた。もしもあの日拘束した若い男を警察が締め上げたならば、仲間がいたことが表ざたになり再捜索されることになるかもしれない。だが今のところ、藍の耳にそう言った噂は入ってきてはいない。
 感傷か、気まぐれか。
 どうしてあの時、相手を逃そうという気になったのか、数日経った今でも藍には答えを導くことができなかった。細く白い首筋に見た昔の自分、幼い頃の自分と重ねた面影――それが何だと言うんだ。幼い頃の自分は自分であって、あの時の相手ではない。暗殺者を逃したからと言って、自分の何がどう変わるわけでもないと言うのに――それなのに。
 許されたい。そう思ったと言うのだろうか。

 ただじっと、遠くにぶら下がっている射撃の的を凝視する自分にはっと気がつき、藍は掌中の銃を堅く握り締めなおした。グローブが軋む。人前ではめったに外すことのないそれは手のひらになじみ、そんな軋みを感じた時くらいしか着用していることすら思い出すことがない。何を今更。藍は思う。今更、自分は自分の過去に対して、何をどう悔やんでいると言うのだ。
 深く、そして長い呼吸を二度ほど繰り返した。ふたたび視界は痛いほど的の輪郭を強調させはじめ、上腕はただ静かに熱を帯びはじめる。そうだ、それでいい。それでこそ、完璧に任務を遂行できる。
 あの子を見逃したんじゃない。
 自分を見逃したんだ。
 あの子を許したんじゃない。
 自分が、許されたかったんだ。
 右手をすっと目の前に延ばし、それに左手を添えた。互いの腕が銃を引きあうように側腕部に力を込めると、熱を込めた上腕が低く唸るような気がする(自分は、自分の何を見逃そうと思ったのだろう?)。銃口を真っすぐに的へと定めて、細く、それでいて力強い呼吸で心肺を整えた(自分は、自分の何を許されたいと願ったんだろう?)。
 甘えは、許されないのだ。そう思うと、藍の眼差しが僅かに細められ――長い睫毛が白い頬に影を落とした。
「――次は無い」
 非道く大人びた少女のような、細く高い呟きが銃声に打ち消される。
 肩を竦ませるように一度だけ震えた的が遠くで、その心臓部を貫かれては哀しくはためいていた。