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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


男心と冬の朝


 冬の日の出は遅い。
 ようやく空が白んでくる時間、すでに身体のあったまった様子の青年が1人ボクシングジムの中でトレーニングに勤しんでいた。


 バシッ……パンパン…バシッ……
 キュッキュッ、と床を踏締める音とリズミカルな、それでいて鈍く重い音がする。
 バンッ―――!!


 左のジャブを右ストレートそして最後の左フックでサンドバックが大きく右に揺らいだ。
 サンドバックを吊るしている鎖が大きく軋んで静かな室内にギィィィ―――という、耳につく音がした。
「っ……」
 まだ左右に揺れ続けるサンドバックを前に乱れた息を整えようと、浅く呼吸を繰り返す龍神吠音(たつがみ・はいね)の頭にタオルがかかる。
「ほら、汗はすぐ拭いた方が良いぞ」
 吠音が振り向くと、そこには先ほどまで自転車に乗ってジョギングに付合ってくれた矢塚朱姫(やつか・あけひ)が立っていた。
「サンキュ」
 吠音は朱姫に投げられたタオルで顔の汗を拭く。吠音の髪は汗ですっかり濡れそぼって額にぺったりと張りついている。
 ふと横を向くと、シャドウボクシング用の大きな鏡にそんな自分の姿が映りがしがしと乱暴なまでの手つきで髪をかき乱した。
「で、この後はどうするんだ?」
 ボクシングに関しては殆ど無知に近い朱姫は吠音にそう尋ねた。
「そうだなぁ、この後パンチングボールとダブルパンチングボールだろ、んでロープスキッピングに筋トレやって整理体操やって終了ってとこか」
 次々にその後の練習予定を指折り数えていく吠音に厭きれにも似た感嘆の吐息を朱姫は漏らす。
 吠音はそれには気付かないようで、
「その前に、ちょっと休憩な」
と、首にタオルをそのままかけると吠音はシャドウボクシング用の大きな鏡の前の床に寝転んだ。
 床の冷たさが熱をもった身体に気持ち良い。
 今日は日曜。
 学校が休みの朱姫は試合の近い吠音のトレーニングにつきあっていた。
 とはいっても、ジョギングをしていた吠音の横を自転車で平走したが、練習メニューを聞くと、その後手伝えそうなことといえば筋力トレーニングで、背筋を鍛えるトレーニングの際にうつ伏せになった吠音の足を押さえたり、練習の時間を計ったりという本当に補助的なことを手伝えるくらいだ。
 ジムの中に沈黙が落ちる。
 普段なら騒がしいジムの中も、休日の早朝という時間帯の為か吠音と朱姫の他には誰も居ない。
 吠音に、
「明日さぁ、トレーニング付合ってくんねぇ?」
と言われて、気軽に
「いいけど……」
と、返事をしたことを朱姫はらしくもなく少し後悔していた。
―――結局、私が居ても大して役に立つ事が出きるわけじゃないし。
「なぁ、吠音、私が居たとこでじゃまになってるだけじゃないのか、やっぱり……」
「んなことねぇよ」
 朱姫には見えなかったがうつ伏せた吠音の顔は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 それは、役に立つとか立たないとか、そんな事は関係ナシに単純に朱姫に見ていて欲しいという男心の機微が判らない朱姫に対してなのか、それともそんな朱姫だと判っているのにこの複雑な想いを抱いてしまっている自分に対して向けられている顔なのか……それは吠音自身にも判らない。
 ただ、吠音は自分の朱姫に対する気持ちが、友情からもう1歩踏み出した気持ちになりつつあることは自覚していた。
 だが、どうも朱姫の方はというと親友以外のナニモノでもないと思っているようで―――
 まぁ、だからこそこんな誰も居ない室内で2人きりでいても変わらないいつものままでいるのだろう。
 ヘタにギクシャクされるよりは良いか……と、吠音は自分にそう言い聞かせるしかない。
「でも、試合まであと少しだろ?」
「試合前の最終調整だからいいんだよ。これ以上やるとオーバートレーニングでかえって逆効果だし、それに俺が朱姫に手伝って欲しいんだから」
 朱姫にボクシングの詳しい事はよく判らないが、本人がそういうのならいいのだろうとそのことに関してはそれ以上言わない事にした。
 まるでワガママな子供の言い分のようなことを言う吠音だが、ボクシングに向かう姿勢は真摯なものだということは朱姫も知っている。
 吠音は階級で言うとバンタム級だから体重は115ポンドから118ポンド―――53.5キロまでに抑えなければいけない。
 吠音は特別身長が高いというわけではない。だが、それにしても普通なら減量で苦しむ事もあるだろうに、普段からかなり自分を律した生活をしているのか、吠音のそんな姿を朱姫が見た事はなかった。
 吠音はいつも自分の道をしっかりと考えていて、計画的にその道を進んでいるように見える。
「吠音は凄いな」
 突然の朱姫の台詞に、吠音はようやく上半身を起こした。
「別に凄かねぇよ。俺はいつでも自分の思う通りに……自分がやりたいように生きてるだけだからなぁ。ぶっちゃけ、そうやってたら成り行きでこうなってただけだろ」
 少し茶化すように軽くいなしたのは、照れが半分というところだ。
「ま、見てろよな朱姫。次の試合もKO決めてやるからよ」
 その台詞もあながちはったりではない。
 人をくったような笑みを浮かべているが、毎回3ラウンド以内に相手を倒す吠音はまだ4回戦ボーイながらボクシング雑誌などでは『リングの死神』などと渾名され末は世界チャンピオンと期待されている注目株なのだ。
「うん。頑張れよ吠音」
 珍しく、素直に朱姫はそう返した。
「あ、なんだったら試合が終わったら何か作って持っていってやろうか? お腹空いてるだろう」
「げ……」
「げ?」
「いや……ほら、俺が勝ったら奢ってやるよ貴重なファイトマネーでな」
 微妙に引っかからないわけでもないが、深くは追求しない事にする。


「俺がチャンピオンになったら真っ先に、ベルト触らせてやるよ」
「期待しないで待ってるからな」


 軽口を叩き合う2人を昇ったばかりの朝陽の眩しい光が照らしていた。