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勝利の食べ歩き
矢塚朱姫(やつかあけひ)と龍神吠音(たつがみはいね)は、夕暮れの街を二人並んで歩いていた。
「ああ、あそこはどうだ?」
適当な店を指差して朱姫が問うと、吠音は苦笑しつつも嬉しそうに言った。
「ったく、試合が終わったとはいえ、食べ歩きとは嫌がらせか?」
「お祝いなんだ、たまにはいいだろう?」
「たまには、な」
あとの減量が大変なのにと心の隅で思いつつも、お祝いをしようという朱姫の心遣いは嬉しかったから表だって文句は言わない。
まあ、惚れた弱みというのもあるのだろうけど。
龍神吠音の職業はプロボクサーである。それもただのボクサーではなく、一流ボクサー。
顔面にパンチを食らったことがなく、最低でも三ラウンド以内に相手を倒すその強さは、リングの死神とも呼ばれるほど。
だがそんな彼でも、一ラウンドTKOであっさりと勝つというのはそうしょっちゅうあることではない。一ラウンド勝利のお祝いだと言って、朱姫が食べ歩きに誘ってくれたのだ。
朱姫に限りなく恋愛感情に近い想いを抱いている吠音としてはその心遣いは嬉しい、とっても嬉しい。
しかし、ボクサーに減量はつきもの。照れも多分に入っているが、あとのことを考えると諸手を上げて喜べる状況でもない。
だから結局、
「なんだ、嬉しくないのか?」
「半々ってとこだな」
素直に礼を言えなくて、こんなやりとりになってしまう。
「今日は私の奢りだから、金の心配はいらないぞ」
にっこりと邪気なく笑う朱姫に、吠音は心に浮かんだ苦い笑みを隠して笑った。
「おお。ありがとな」
まあ最大の救いは朱姫の手作りではないと言うところか。
朱姫には悪いが、いくら好きな相手でも朱姫の手料理は勘弁願いたい。本人気付いているかどうかはしらないが、彼女の料理の腕は破滅的なのだ。
レシピ通りに作っても、できてくるのは何故か必ず謎料理。ついでに食材も何故か妖しげなものが多い。いったいどこから手に入れてくるんだか時折不思議に思うほどに……。
店に入って席に座ると、朱姫がぽんぽんと料理を注文していった。
「おい、そんなに食うのか?」
「吠音は食べないのか?」
どうやら、二人分一気に頼んだつもりらしい。
「いや、食べるけど」
あとの減量のことも考えて頼むつもりだったんだが……。まあ、今更どうにもならない。
「それにしても、今日は本当に凄かったな。ちょっとカッコ良かったぞ」
「え?」
言われて、思わず顔がニヤける。
「ストレートで一発KOなんてそうそうないだろう」
「ま、まあな」
ちょっと胸を張って頷くと、朱姫が楽しげな笑い声をあげた。
「自慢の親友だな」
なんのてらいもなく言う朱姫の言葉が少し嬉しくもあり、少し寂しくもある。
けれど後ろ半分の感情はしっかりと隠して、吠音はニッと不敵に笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
朱姫は吠音の想いにはまったく気付いていない。吠音のことを大事な親友だと想っている。
それはそれでもちろん嬉しいのだが、恋愛感情を持っている吠音としては、多少なりと異性として見てもらいたいと思う時もあるのだ。
「お待たせしました」
「お、きたきた」
朱姫は運ばれてきた料理を受け取ってテーブルに適当に並べた。
「美味そうだな」
「当然だろう。オススメの美味しい店を選んだんだからな」
にっこりと。朱姫が楽しそうに笑う。
そんな朱姫を見ているとこちらまで楽しい気分になってきて、もう後のことを考えるのはやめようという気分にもなった。
せっかく朱姫が奮発してご馳走してくれているのだ。ここは楽しまなければ損というものだろう。
「へぇ、そりゃいいな」
早速フォークを手にとって、一口料理を口に運ぶ。
見た目を裏切らない味に舌鼓を打って、吠音は朱姫に笑顔で返した。
「あ、ホントに美味い」
「ホントにとは、どう言う意味だ」
「いやあ、別に深い意味はないんだけどな」
料理の腕が悪いから味音痴と言うわけではないだろうけれど、ちょっと一瞬心配してしまったのだ。
結構な量であったが、吠音と朱姫、二人でぺろりと平らげて。さて次はどこに行こうかと相談が始まる。
「吠音はどんな料理が好きなんだ?」
「俺? そうだな、好き嫌いはないけど……」
店を出ての歩きながらの相談。もちろん朱姫にその気はないのだろうけれど、端から見たら恋人同士に見えないこともないのだろうかなんて。吠音はついついそんなことも頭の隅に過ぎったが、すぐさまその思考を振り払う。
何故って、朱姫にはしっかり恋人がいるのだから。
「朱姫オススメは他にはないのか? 美味しいトコならどこでもいいや、俺は」
「オススメがたくさんあるから聞いているんだ。まったく、どこでもいいって言うのが一番案内しがいがないんだぞ」
「悪いな」
言葉の応酬に楽しい笑みを漏らして、吠音が軽く片手を上げる。
「悪いと思うなら好きな料理をあげろ」
「ええ? そうだなあ……。なら、さっき洋食だったから次は和食で」
答えると、朱姫がパッと笑った。
「よしわかった。和食だな。あっちに美味しい寿司屋があるんだ」
指差した先を視線で追って、ふと気付く。
いつのまにやら赤い空は紺に染まり、街は明るいネオンが光っていた。
「それは楽しみだな」
吠音も満面の笑みで返して、二人は夜の街並を歩いて行く。
二人の街中食べ歩きはその日真夜中まで続き、吠音はのちに減量に苦労したのであるが――それでも、そんな苦労も吹っ飛ぶほど、めいっぱいに楽しんだ一日であった。
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