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<東京怪談ノベル(シングル)>


920回目の雪


 ――おウ、寒い、寒いってンだ。
 白い息をつきながら、獣は顔をしかめて肩を抱く。そんな仕草を見せたのも束の間の話だ。すぐに、黒い獣は肩を抱いた手をコートのポケットに突っ込んで、群れの中に消えていく。
 ――おウ、雪、雪だ。雪が降るたびに思い出してちゃ、たまったもんじゃないってンだ。
 東京の空から降る雪は、東京を滅ぼすこともないだろう。ただの1尺も積もらぬままに、今日の夕刻には消えるはず。
 昼下がりの群れの中に消えたのは、藍原和馬という獣。
 雪に震えて、半ば避けつつ、火を恐れる獣のように、和馬は雪を避けるのだ。

 その日は一夜を股にかけたアルバイトの明けだった。薄汚れた作業着から黒スーツに着替え、コートを羽織って、彼は表通りに出ていた。夜は明けたはずなのに、いつまでも空は暗いままだった。太陽は鉛色の緞帳の後ろに控えている。今日は出て来る気がないらしい。
 夜通し倉庫の中で荷物をあっちへこっちへ運んでいた和馬は、自分は24時間働かされていたのかと錯覚してしまった。夜から夜へ出た気分だ。それほど空は暗かった。スクランブルを見下ろすワイドビジョンが、昼のニュースを流している。関東地方はこの冬一番の冷えこみだそうだ。
「なるほどね」
 和馬は思わず知らず、キャスターの言葉に相槌を打つ。
「で、まァた替わったってか」
 その報道番組はもうかなりの長寿なはずだが、ニュースを伝えるキャスターはころころ替わっている――ように、和馬には思えていた。この冬一番の冷えこみだと言っている女性が、明らかに以前見た女性とは違うような気がしていた。
「……もう、名前なんか覚えてやらねエ……」
 もう、覚えていられない。
 覚えた端から消えていく。
 雪だ。
 人は所詮、その冬一番の冷えこみの日に降る小雪に過ぎない。和馬に触れ、次の瞬間には跡形もなく消えていく。

 あア。虚しい。


 その瞳に宿る光と炎は、三十路の男が持つものではない。


 男には、爪と牙があった。
 はらはらと音もなく雪が降る、その昼下がり。
 褐色にも灰色にも見える毛並みには、点々と血がこびりついていた。それは彼自身の血でもあったが、ほとんどは他者の身体からしぶいたものであった。
 夜通し彼は牙を剥き、爪を閃かせていた気がした。夜は明けたはずなのに、いつまでも空は暗いままだった。太陽は鉛色の緞帳の後ろに控えている。今日は出て来る気がないらしい。
「ちくしょう。疲れた。こんなことになるなら、もう少し上乗せしとくんだった……」
 思わず知らずぼやきながら、男はその場にどうと倒れた。どのみちこの裏通りを通る者などそうそういないのだ。雪が降っていようといまいと、夜のように暗ければ、昼でもこの通りを好き好んで歩く人間はまずいない。
 薄汚れたその辺りに寝そべりながら、男は眠ろうとしていた。眠る前に、今回の仕事の内容を忘れようとした。
 ――これが頭金だ。明日中に片付けてくれたなら倍払う。やつは裏通りのある家を間借りしている。その家の主人は傷つけるな。やつだけを消すんだ。
 忘れることなど出来なかった。
 男はのろのろと顔を上げた。それまで、実は雪が降っていることに気がつかなかったのだ。息を整え、傷口を塞ぐことに集中していて、初めて手の甲に落ちて溶けた雪を意識した。
 剃刀でうっかり切ってしまった傷ならば、ものの10秒で癒える。刀剣で膾切りにされた傷であるならば、一刻ほど大人しくじっといていたらいい。
 だが、いちど脳に刻み込まれた記憶は、どう足掻いても消えることがなかった。
 男は、蝋の中に爪の先や髪の毛を閉じ込めて人に見立て、標的が死ぬまで呪うこともあったし、水鏡の中にソロモンの霊を呼びつけて、他人の不幸や己の富を願うこともあれば、爪と牙を使って直接命を奪うこともした。彼は、何でもやったのだ。無限の時間とヒトを凌駕した力を、もっと建設的なことに使うことも考えた。しかし、建設的なことに使おうと思って人助けの看板を掲げても、やってくる依頼は後ろめたいものばかりだった。
 少し疲れてしまった……。

 目を開けてみると、目の前に女がいた。驚いた。思わず男は獣の速さで身構えた。色白の女は、男の素早さに驚いて、身体を強張らせた。見開いた目は翠、ぱっと広がった髪は漆黒。しばしの間、お互いに驚いている男女の画が、うら寂しい通りに片隅に在った。
「……何だよ、誰だ」
「……ごめんなさい。怪我をしているようだったから……」
 女は真っ赤になっている手をこすり合わせながら、すまなそうに声を絞り出した。
 見覚えがある女だ、と男は目をすがめた。
「どっかで会ったか?」
「覚えているの?」
 女は、はああと白い震えた息を吐いた。
 女が着ている毛皮の上着は、なかなかの値打ちがありそうだった。だが、女はけして金持ちといった風情ではない。真っ赤に冷えた手は荒れていたし、靴はかなり年季が入ったものだった。上着はきっと、何ヵ月分もの稼ぎを貯めて、この冬のために買ったものか――誰かに贈られたものなのだろう。
「ねえ、覚えているの?」
 男は、女の上着から女の顔に目を移した。
「悪い」
 彼は、眉をひそめた。
「もう、いちいちひとの名前と顔を覚えたくなくてな」
「会ったのは昨日の夜なのに」
 そう言って、女ははらりと上着を脱ぎ捨てた。
 この冬一番の冷えこみの昼下がり、女は一枚のネグリジェだけで、そこに立っていた。白い肌と白いネグリジェは、血に染まっていた。
 思い出した。
 二度と忘れることの出来ない記憶が蘇ってくる。
「……あたしの……あのひとを……よくも! この、オオカミ!!」
 閃いたのは銀の短刀!
 胸にねじ込まれた刃!
 灼けつく痛みに、男の口から飛び出したのは、狼の咆哮。
 あの翠の目。

 そうだった。
 ――その家の主人は傷つけるな。やつだけを消すんだ。
 珍しいと思ったのだ。このご時世、女が主人のあの古い家。事情など知ったことではない。ただ、その女主人の愛人を殺すことが仕事だった。
 目が合ってしまったのだ。へまをした。
 ――その家の主人は傷つけるな。やつだけを消すんだ。
 見られても、殺せるはずがなかった。
 だから獣は、逃げたのだ。
 女はそして、とても美しかった。

 女は美しいままだ、白と赤と翠の色彩が美しすぎる。
 銀だ、恐ろしい銀だ。
 男は胸の傷を庇いながら逃げ出した。
「赦してくれよ!」
 銀の刃は柔らかいはずなのに、男の傷口から血が止まらない。
「俺だって、気は進まなかったんだ! いつだってそうだ! こんな仕事やりたいはずねエだろうが! ちくしょう! バカヤロウ! こンちくしょう!!」

 依頼人は、女を我が物にしようとしたのだろうか。
 それとも、愛する男を奪い、その悲しみを味わわせてやるつもりだったのだろうか。
 獣にとっては、どうでもいいことだ。
 血は止まらず、さっぱり涙も出なかった。
 小雪が傷口に飛びこんで、泣き叫びたくなるほどの痛みを生んだ。

 獣はその町を出て、二度と戻ることはなかった。名前も変え、仕事も変えた。
 だが彼が藍原和馬と名乗り、何でも屋と称して昼夜を問わずアルバイトに徹するようになるのは、まだまだ先の話なのだ。


 しくり、と胸が痛む。雪が飛びこんできた痛みが蘇る。
 和馬は思わず胸に手をやって、顔をしかめた。その顔が、デパートのショーウインドウに映っている。
 ――辛気臭い顔しやがって。
 漏れる溜息は凍えて白い。
 ――雪が嫌なら、ニューギニアかどっかに行きゃアいいんだ。ケダモノにはお似合いさ。雪のないジャングルってやつがな。それに、ジャングルなら、銀のナイフもありゃしない。
 コートの襟を立てて歩む和馬が戻る先は、しかし、東京の片隅のアパートなのだ。
 思い出してしまった色彩が、つい最近知ったばかりの友人にそっくりだと――彼は自分の記憶力の良さを恨むのだった。

 あア。虚しい。



<了>