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<東京怪談ノベル(シングル)>


いたみの疾い



 脇腹が、眠りを妨げられた獰猛な獣が唸りをあげているかのように鈍く痛んでいる。先ほどまではそこがじくじくとした熱をうったえてもいたが、今は流れて固まった血液が素肌にうっすらと冷たさを伝えはじめていた。傷はかなり深いのだろうが、夜闇の中ではそれを確かめるすべもない。
 男は、非道く疲弊していた。指先は凍てつき、身体が鉛のように重たい。先だって腹を切られた時に外套のポケットが浅く斬り込まれていたが、かろうじてそこに忍ばせていたキーチェインは零れ落ちずにすんでいたらしい。それほどたくさんの鍵などついていない、男――影山軍司郎はおっくうそうにそれを指先に捉え、たどたどしくカギ穴を探る。
 木枠に透かしガラスを嵌め込まれている引き戸はその間、影山の体重を支えながらガシャガシャとせわしなくガラスを鳴らしていた。やがて影山が引き戸の鍵を開けて中に身体を滑り込ませると、しんと静まりかえった暗闇の中で深い安堵のため息が空気を震わせる。
 いささか、油断をしすぎたものか。影山は自嘲に歪めたくちびるをちらと舐めて目を閉じた。愛すべき激動の昭和は、もう十年以上も前に終わりを告げたのだ。力ある者が統べ、護る時代。大儀に生きることを善しとされ、命を抛つ美学が存在した最後の時代――平成は肌に合わぬ、影山は思う。虚飾と安穏、仕組まれた平和。薄っぺらな若者、薄っぺらな文化、薄っぺらな交歓。それに馴染んで、こんな醜態をさらす己自身も、それらを笑えたものでは無かったが。
「――大正生まれの肉体にも、ガタつきが顕れたというだけの事かもしれぬ」
 無駄に時間を重ねてきたのだと思いたくはない。己にしかなせぬ所業を重ねて来たと、胸を張って豪語できる程の傲慢さは持ちあわせていなかったとしても、己に残された数少ない選択肢の中で影山は常に善かれと信じる道を選んで生きていたのである。それがいかに後ろ向きな瞬間を持ったとしても、結果的には決して最善ではない道だったとしても、だ。
 重い瞼をゆるりと開け、暗い室内をぐるりと見回す。遠くの棚の上には、ちょっとした診療所にも比肩するほどのさまざまな治療器具が出し放したままになっていた。合わせが少し開いたまま鈍い銀色を放っている鋏、裾がほつれてしわのよった包帯、ステンレスの容器に詰め込まれた消毒薬――それらの類いである。影山が大きくゆっくりと、まばたきをする。その眼光の鋭さに脅えたかのように、棚上の器具たちが刹那――震えのような振動を起こした。
 と。
「動けない、とりあえずはこれを塞いでくれないか」
 引き戸に背中をあずけたままで掠れた声、影山がその場に崩れ落ちるのと同時に…その大きな体躯を気づかって彼に駆け寄る、机上の器具たちの小さな影が跳ねた。



 ともすれば手放してしまいそうな意識を、裂けた脇腹に滴る消毒液の焼ける痛みが引き戻す。影山は低く唸り、冷たい床の上で眉をしかめた。
 人は、理由なしには生きていけない生き物であるという。与えられた理由のみにあらず、自ずから生きるための理由と目的を知らずのうちに導きだし、それを糧に日々という時間の流れを摩耗していかなくてはいけない、憐れな生き物であるという。
 ならば、己が存在する理由とは、いったい何なのだろうか。
 ある者は、巡り合った連れ合いを護るための生を選ぶ。
 ある者は、己の信じた道を貫くための生を選び、そして死を選ぶ。
 日々の欲や煩悩に身を浸す者もいれば、生きる理由が見つからぬと言ってその生を断つ者もある。
 そのどれも選ばぬ己は、何を目的に生を繋いでいるというのだろうか。
 影山は己に問う。思えば昭和は、激動の時代であり、愁いと混沌の時代であり、そして愛すべき未練と別れの時代でもあった。強者と弱者には明確な境目があり、信じるに足るものをひた追うことはえてして容易い時代でもあった。ところが、今はどうだ。薬莢が地を打つ身の引き締まるような小さな音も、少しばかり敬礼が上手にいかなかったからと言って下官を撲つ将校も、薄い米ぬかの匂いが染みた芋の葉と実の煮物もここにはない。
 この国を発つ朝、悲喜交交の顔がそれでも声高々にアーチを作ってくれた誇り高い軍歌も、
 満州で嗅いだ日本人と満州人の汗と血の染みた泥の匂いも、
 かの鉄道が聞かせる遠い汽笛の音も、
 煙が尾を引く橙色の空も、
 ここにはない。
 それでも、影山はその耳の奥でいつでも、縦に長く列を連ねる日本軍の軍靴の音をその耳に聞くことができたし、まずいまずいと思いながらも空にした芋の葉を煮た粥のうつわの焼けた柄までをもありありと思い浮かべることができた。遠い大陸で、泥と汗にまみれて見上げた遠い夕暮れを思う。既に名前すら思い出せなくなってしまったあの村で、痩せた馬を追っていた少年は生きていたならどんな大人に育ったのだろうか。
 わからない。
 それでも、何かの約束や祝詞のように、あの日の光景が影山の脳裏に浮かんでは消えていき、彼の心を大陸へと飛ばしていった。
 呪い。
 そう思うことはやめた。絶望に屈辱を重ねても何も生まれない。
 あの日の仲間は一人死に、二人死に、何人かは身をひそめるようにその姿をくらまし、今はおそらく誰一人生き残ってはいないのだろう。お国のためと戦った靖国の仲間のもとへ他の誰もが後を追っても、己だけが、悪魔のまやかしに囚われて生へし恥を晒し続けている。
 滑稽だ。本土からやってきたばかりの若い日本兵たちを据えた眼差しでじっと見つめながら、夢の中の影山は自嘲を深くした。君は、土嚢の山に隠された地雷で命を落とす。君は、やがて配給途絶える貧しい生活の中で病魔に冒されて苦しんで死んでいく。一人一人の顔を順に眺めながら影山は思っている。
 でも、案ずることはない。
 今に他の誰もが、君のあとを追って生を断ちきって往くのだから――私以外は、すべからく。



 ひどく浅い眠りの中、だから現実との境目はあいまいなままやってきた。影山の周囲に、己が役目を終えて意識を失った『かりそめの生命』たちが転がっている。影山の腹を縫った小さな針が自分の意志で糸を断ちきり、宙でふ――と生を途切れさせた時に床へ転かりおちた。その針音が、影山を現実の世界へと引き戻したのである。
 混沌とした、重苦しい休息。影山を意識を失ったときとまったく同じ姿勢で、引き戸に肩を預けたまま床の上に転がっていた。いつのまにか、裂かれた外套までもがきちんと縫い合わせられていた。気を利かせたつもりなのだろうか、薄っぺらな生の時を貼り付けただけの縫い針が? そう思うと、さすがの影山も苦笑を禁じえなかった。
 どれくらいの間、玄関に横たわっていたのだろうと影山は辺りを見回した。部屋の奥にある簡素な壁時計が闇の中で秒針を鳴らしている。ほんの数十分――痛みも疲労も取れない筈である。血液を少しずつ失っていくことへの脱力感はすでに無かったが、今は縫い合わせた傷口がふたたび熱を持ちはじめていた。夢を見ていたような気がしたが、もう影山にはその内容が思い出せなかった。大陸の夢だったろうか、下官の引き締まった真面目な顔つきだけが目の裏にこびりついていた。
 がらり。身を起こそうとしたら、背中で透かしガラスが安っぽい音を立てる。鍵は閉まっていた。己で閉めたものか、それとも『それ』たちが閉めたものか。裂き傷の熱と痛みに脳を痺れさせながら影山が考える。答えは出ない。それで善い。
 立ち上がると、思いのほか出血が多かったのだろうか、影山の視界が僅かに揺れた。そのまま部屋の奥へと歩を進めて行くと、箪笥の前で立ち止り緩慢な着替えをはじめる。いくらきちんと縫いあわされているとはいえ、血のりのこびりついたシャツで運転をするわけには行くまい。立ち止ることを影山は憎む。その場に立ち止り、己の次第に戸惑うことがあれば、脆弱な己の意識など正常を保っていられよう筈がないと。骨肉の存在を感じさせる痛み、理由無き生へと投げやりに与えられる幾許かの意味と理由。それらで常に意識を満たして置かねばならなかった。たとえそれが更なる混濁を生むことになってもだ。
 折りのついた清潔なシャツに腕を通し、脱いだものは畳の上に置き放した。それらの始末は、帰ってから考えれば善い。
 今一度、時計を確認した。腹が痛む。意識が朦朧とするようであったが、じきに治るだろうと玄関へ向った。
 散らばっている医療器具を踏みつけてしまわぬよう大股に歩を進め、影山は自宅を後にしていく。