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インタレスティング・ドラッグ:1『蔓延』
なにかに驚いたらしく、鳩がいっせいに飛び立った。
午下がりの公園は、のどかそのものである。今日はとくに、日が差していて風もぬるい。噴水べりやベンチには、休憩中のビジネスマンたちや、デートする男女のすがたが見られた。
すこし離れた木陰のベンチに、その女は座っている。
全身、黒い服に身を包んだ女だった。貴婦人をきどったか、つば広の帽子もやはり黒く、その影に隠れて表情は今ひとつうかがいしれない。だが、流れる黒髪や、紅をさした口元はいかにも艶めいて、美しい女であると知れた。
やがて、ひとりの老紳士が、やってきて、女が腰掛けるベンチに座った。
たまたま、散歩の途中であいているところを見つけ、相席に腰掛けた――といった振る舞いだった。
だがおもむろに、紳士は内ポケットから取り出したものを、そっとベンチの上に置く。
女は、そんな男の顔も見ずに、差し出されたそれを手に取った。
「『その男』です」
紳士は、つぶやくように言った。
その目は、あくまで、鳩の群れを見ていた。
「一千万でどうでしょう」
一千万。文字通り、女は値踏みをするように目を伏せた。
「結構ですわ。……なにかご希望は」
「特には。お任せします」
女は写真をしまうと、すっと立ち上がった。そして振り返りもせずに歩き出す。
一千万円。写真の男の命に、それほどの価値があるのか、あの男がいなくなることで、紳士がどのような利益を得るのか、それは黒澤早百合のあずかり知らぬことだ。
決して悪い仕事ではない。そのことだけで、彼女には充分だった。
東京の闇に生きるものであれば、一度くらいはその名を聞いたことがあっただろう。莫大な報酬とひきかえに、しかし、いともあざやかに、この世から人間を消し去ってくれるその組織のことを。
黒い百合は、新たな獲物を前に、闇にあやしい芳香を放ち始めている。
■ 暗殺者たちの午後 ■
「ねえ、『ギフト』って知ってる――?」
「青と赤のツートン・カラーの、ちいさなカプセルなんだって」
何の変哲もない、どこにでもあるような事務室であった。
おもての、ドアのガラスには「黒澤人材派遣」の文字。窓を背にしたデスクで、早百合は資料から目を上げた。
数人の女子社員たち(といっても、部屋には女性しかいなかったのだが)のささやきかわす声が耳に入ったからだった。
「『ギフト』を飲むと、“とくべつなちから”が貰えるらしいよ」
「出来ないことなんて、なくなるんだって……」
早百合は、形のいい眉をひそめた。
「ちょっと貴女たち」
教師に注意を受けた女生徒よろしく、女たちはさっと黙り込んだ。
「お喋りもいいけど仕事もしなさいよ」
「でも黒澤さぁん」
女子社員のひとりが言った。
「……仕事なんてないじゃないですかぁ」
「…………」
言われてはじめて気がついたとでもいうように、早百合は目をしばたいた。
黒澤人材派遣は、いわゆるダミー会社である。人材派遣会社として、登記されているものの、実質、そうした業務はやっていないに等しい。
「あのねえ」
ため息まじりに言う。
「仕事っていうのはね、自分でつくり出すものよ。いろいろあるでしょう。……おもての花壇の世話とか、換気扇の掃除とか、パソコンのウィルスチェックとか」
「私たち、そんなことをするために雇われてるわけじゃないですよね」
言い返されて、いよいよ早百合は声を荒げた。
「だってそれは貴女たちがろくに『仕事』ができないからでしょう。どこの世界に目標の境遇に同情したあげくに、ごはんをつくってあげて、繕いものまでやってあげる殺し屋がいるのよ! うちは家政婦紹介所じゃないのよ。人材派遣は世を忍ぶ借りの姿。由緒正しい東京屈指の暗殺組織なんですからね」
女子社員は黙りこんだ。
「このぶんじゃ今度の『仕事』も結局、私がやるしかなさそうね」
大袈裟に肩をすくめる。
「ところで、貴女たち。……その『ギフト』っていうのはいったい何なの」
「やだ、聞いてらしたんですかぁ?」
「そりゃ聞こえるわ。“特別な力”っていったい何よ。うさんくさいわねえ」
「黒澤さんは……“力”が欲しいとは思わないんですか?」
「素敵な男性と出会えて結婚できるようになる力なら、百錠だって飲んでみせるわ」
冗談とも本気ともつかぬ口調で早百合は言った。女たちはその妙な気迫に押されるような気持ちになった。
「ま、とにかく」
ばさり、と、持っていた資料の束を、女子社員たちに渡す早百合。
「これが今度の標的よ。調べておいてくれないかしら。決行は私がやるけれどね。この不景気にやっと舞い込んできたおいしい仕事だから、失敗は許されないわ」
傲然と、早百合は胸をそらして言い放つのだった。
――そんなことがあったのが、もう数日前のことになる。
早百合は、暮れてゆく六本木の街を歩いていた。
この不景気に舞い込んでいたおいしい仕事――そうは言ったものの、いつだって、彼女はこの仕事を心の底から楽しんではいない。世間の人々が「殺し屋」という言葉にどんなイメージを抱くかは知らないが、殺すことを楽しむようになってしまっては、逆に殺人を「仕事」には出来なくなるのだと思う。
職業としての殺人は一種の必要悪であり、ある意味で聖職でもある。早百合は彼女の親より受け継いだ稼業を、そう理解していた。だからこそ彼女はこの仕事を愛しもしなければ厭いもせず、しかし、つねに厳粛に、誇りと矜持とを持って臨んでいるのだった。
彼女に仕事を依頼するために法外な報酬を要求されるのは、それだけの覚悟と意義のある殺人しか、この誇りある仕事の対象には出来ないのだという意志のあらわれなのだ。
彼女にとっての正装とでもいうべきエレガントな黒いドレスで、美しい死神はその部屋に足を踏み入れた。
あらかじめ、非合法な手段で用意した合鍵で難なくマンションのドアは開き、主人の命を狙う女を受け入れたのである。
猫のような忍び足で、寝室の戸口をくぐり抜け――
鋭い刃の切っ先が、すみやかに目標をめがけて空を切った――のだが。
「…………」
早百合の瞳に、押し殺した暗い憤りの火が灯った。
そこには、彼女が消すはずだった命が、すでに事切れてよこたわっていたのである。
■ 闇に咲く花 ■
そして、またたく間に、そのビルのまわりには、警官たちがひしめくようになった。
砂糖に蟻がたかるように、警察は事件にたかる。
(冗談じゃないわ)
すこし離れたところから、蟻のように走りまわる警官たちの様子を見守る早百合の表情は苦々しいものだった。
(殺し屋の面目まるつぶれじゃないの)
もし、超常の視覚を持つものがいれば、早百合の怒りの気にあてられて、周辺にいた不運な浮遊霊が蒸発してしまったのが見てとれただろう。
ベッドの上で――男は息絶えていた。
カッと見開かれた白目も、だらりと口から飛び出た、変色して膨れ上がった舌も、死斑の浮いた肌も、苦悶にあがいたらしい指や四肢……そういったものは、殺人をなりわいとする早百合にとって見慣れたものだ。そんなことで、早百合が尻込みするはずもない。だが……自身がこれからその手で息の根を止めようとしていた人物が、誰か他の者の手によって殺されていたなどというのは、彼女に言いようもない憤りと、屈辱をもたらしたのだった。
(……?)
ふと、そのとき、早百合の目に止まった黒い影があった。
彼女と同じく、遠巻きに事件現場を見物していた野次馬たちの群れからそっと離れ、近くのビルとビルの隙間へと消えた男の二人連れだ。早百合は社会の闇に生きる身。常人でないものの気配はすぐにわかる。
静かに、すみやかに、彼女は男たちの後を追う。
「たぶん、これも事件の……いや事件群のひとつと見ていいと思う」
物陰に身をひそめた早百合の耳に、男たちのそんな話声が入ってきた。
「未知の毒物のようなものが検出されたらしい」
(毒物……)
早百合の目がすっと細くなった。
「一週間前の事件と同一犯ということですね」
「おそらく。渋谷の絞殺魔と皮剥ぎ殺人、雑司ヶ谷の頚椎折り、代々木周辺の針穴殺人……地域ごとに特色があきらかだ。複数の殺人者が同時期に活動していると見て間違いないが……」
声をひそめてささやきあう男たちは、黒服に黒いネクタイ、そして黒眼鏡という、一種、異様な風体の二人組だった。一見すると見分けもつきづらい。
ふと、男のひとりが、なにか物音を聞いたとでもいうように、振り向いた。
「誰かいるのか」
言いながら、物陰をのぞきこむ――が、猫の仔一匹見当たらない。彼は連れに向かって肩をすくめて見せた。
「こう事件が続いては神経質になり過ぎる」
男たちは笑い合った。
だが――
男はその嗅覚に、かすかに、花の香りを感じたような気がして、なんとなく落ち着かなげに視線をさまよわせる。残り香のように空気にまじったそれは、百合の香りのように思われた。
そんなことがあってさえ……
六本木の街は、また新しい夜をむかえれば、いつもと変わらぬ華やぎと喧しさを取り戻す。
その一角で、無残に殺害されたものがいたことを知っていようといまいと、この街に生きるものたちには、日々を糧を得るための暮らしというものがあったのだし、かれらのもとを訪れる客たちにしてみても、所詮、知りもしない人間の生き死になど、なんのかかわりもないことだったのだ。
その中年紳士もまた、いつもと変わらぬ週末を、どこかなじみの店ででも過ごしたのだろう。アルコールに紅潮した顔と、すこしふらつく足取りで、夜の通りを歩いている。
さて、タクシーを拾うか、それとももう一軒だけひやかすか。
逡巡するように、革靴がよろけた。
――と、男の視界に、まず飛び込んできたのは、その女の脚線であった。
黒いドレスのスリットからのぞく、網タイツにつつまれたすらりと伸びた脚。同じく黒いハイヒールから、順に視線をたどって見れば、締った腰のラインと、ゆたかな胸のふくらみ、そして、白いうなじに、微笑を浮かべた紅い唇が、はっとするほどの艶かしさでもって、男に訴えかけてくるのだった。
「こんばんは」
女は言った。その声を聴いた途端、男はもとよりアルコールによってゆるんでいた意志が、あらがいようもなくとろけてゆくのを感じた。
「……どうかしら」
そんな男の内心を見透かしたように、女はストレートに問うた。
あやつられたように、男が頷く。
婉然と、黒い女は笑う。さながら濃厚な芳香を放つ、闇色の妖花のようであった。
■ うしろの正面 ■
工事中のビルのフロアに、男は導かれた。
誰の目もない、暗い場所へとつくやいなや、男は何もはばからず、女の身体を抱きすくめる。
荒く、湿った息遣い。
男の指が女の衣服の隙間へと滑り込んでゆく――が、女はやんわりとその手をいさめるように抑える。
彼女の唇が、にいっ――と、凄絶な笑みを形づくった。むせかえるような色香を漂わせていたが、同時に、おそるべき危険なたくらみを隠した笑みだった。
「せっかちね」
女は言った。
口紅と同色の、あざやかなマニキュアに彩られた爪が、男の首すじから顎、そして頬をたどり、そっと、唇をなぞった。
「まずはキスからはじめるものよ。中学生でも知ってるわ」
こくこくと、男は頷く。
闇の中で、男女のシルエットが重なる――。
「…………」
そのあいだ、男の腕は女の腰に回されていた。……が、やがて、ぶるぶるとふるえだし、その指が、なにかを掻きむしるようにゆがみはじめ――
「……あ……が……ぁッ!」
男は女をつきとばすようにその身を離し、はげしく喘ぎながら、よろめいた。
甲高い女の笑い声が、闇に響く。
「どうかしら? 死のキスの味は……」
地面に膝をつき、ふたつに身を折って、男は苦しげな呻き声をあげた。
その様子を見て、女は笑い転げた。おかしくて仕様がない、といった風だ。そのあいだも、男は手を伸ばし、どうすればその苦悶から逃れられるのかと、地面の上をのたうちまわっていたが、とうとう救い主はあらわれることはなかった。
男が動かなくなるのを満足げに見下ろしてから、女はきびすを返す。
そのとき。
「それが“手”なわけね」
「誰」
闇の向こうから、ゆっくりと、もうひとりの、黒い女がすがたをあらわす。
ふわり、と、百合の香りが闇に散った。
「いったい何なの、この殺し方? 無計画ったらありゃしない。快楽殺人なんていえば聞こえはいいけど……子どものお遊びと一緒ね。いいこと、殺しはね、プロの手でなされるものよ。こんな稚拙な殺人――私はみとめない」
「何なの。あんた、誰よ」
女の紅い唇が、憎々しげに吐き棄てた。
「私が誰をどう殺そうと私の勝手。これが私が授かった力なんだから」
「……何ですって」
「そう――これが私の与えられたギフト『メッセージ・オブ・ルージュ』。馬鹿な男たちを天国へ送る猛毒のキス……」
くすくすと、邪悪な忍び笑いが漏れた――かと見えた次の瞬間、紅い霧のようなものが、女の唇から吹き出された!
「……!」
だが、相対する女――それはむろん黒澤早百合だ――は、信じられない機敏な動きで、そのあやしい噴霧をかわし、女と距離を取っていた。
「私の仕事の邪魔をしたこと……許さないわ」
早百合の手の中に……いつのまにか一振りの剣が握られている。
闇を結晶させてつくったような、黒い刃だった。その刃の上を、パチパチと弾けるような音を立てて、電光が踊る。
「こう見えても私……」
早百合は笑った。
「……それなりに残酷なのよね」
その夜――
まったく季節外れの雷が、ほんの一瞬、東京の空に走った。
あまつさえ、六本木の一角に落雷しさえしたことで、ちょっとした騒ぎになった。落ちた現場は、無人の工事中のビルだったため、被害はないものと思われていたが、ビルのフロアから、連続殺人の犠牲者と思われる中年男性の毒殺死体が発見されたことで、事件はさらなる騒ぎへと発展したのである。
そしてそのとき、黒服に黒眼鏡の男は、背後に感じた気配にふと立ち止まった。
「ふりむかないで」
その背中に、女の声が掛かった。
そして、どさりと、地面になにかを投げ出す音。
「連続毒殺犯の女を置いておくわ。後は好きにして頂戴」
「……私が誰か、ご存じなので?」
言われたとおり、振り向かずに、男は言った。
「いいえ。警察……ではないわよね」
「そうですね。公務員というところは同じですが」
「あら。いいわね、公務員。安定してて」
「はい?」
「……いいえ。とにかく、犯人は渡したわ」
「なぜです。あなたは一体」
「それは聞かないほうがいいわね。ちょっと残念な気もするけれど」
「…………」
「私の中にふたつの気持ちがあるの。これも何かの縁だと思う気持ちと、むやみに、表の世界のひとと、縁をもってはいけないと思う気持ちが」
自嘲めいたため息が発せられた。
「私は……決して堅気の人間でなどありませんよ」
後ろをふりかえることなく、彼は内ポケットから取り出したものを、背後へと放った。
それは一枚の名刺だった。たしかに、それを、背後の人物が手に取った――そんな気配があった。
「ありがとう。頂戴しておくわ。宮内庁――調伏二係、八島真さん」
その気配が遠ざかってから、男――八島はふりかえる。
ただ、そこには一人の女がぐったりと伸びており、夜の風には、かすかな百合の香りが、ただよっているばかりなのだった。
(了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2098/黒澤・早百合/女/29歳/暗殺組織の首領】
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■ ライター通信 ■
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リッキー2号です。
お待たせいたしました、「インタレスティング・ドラッグ:1『蔓延』」をお届けします。
ゲリラ開けで受注させていただいた追加募集ぶんですが、第2話募集時期ギリギリのあわただしい納品になってしまいました、スミマセン。
このたびは、初のシリーズものシナリオにご参加いただいて光栄です。
第1話にあたる本作は完全個別執筆ということで、いつもの調査依頼等にくらべると、
分量的には控え目になっていますが、そのぶん、各PCさまそれぞれのストーリーを
クローズアップする形になっています。
>黒澤・早百合さま
プレイングを加味しまして、八島さんとの微妙〜なからみになっています。
この後、どう転ぶのかは神のみぞ知ると申しましょうか、
楽しみなような怖いような(笑)。
よろしければ、第2話以降もおつきあいいただけるとさいわいです。
ご参加ありがとうございました。
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