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ノイの受難
何をするでもなく、ふらりと家を出た。
高く住んだ青空、冷たい空気が刺すようで気持ちいい。
…起こすのが忍びないぐらい良く眠っていたからノイは部屋においてきてしまったけど、連れてきて上げればよかった。
眩しさに目を眇めながら、如月 縁樹は小さく微笑んだ。
「そろそろ帰ろうかな」
眼が覚めたら何時の間にか僕がいなくて吃驚するかも知れないし、と小さく一人ごちて踵を返そうとした途端、視界に何かが引っかかった。
短く刈った黒髪、くたくたのコート、口元にはマルボロが紫煙を上げている…草間 武彦さんだ。
「武彦さん」
「お、如月じゃないか、どうしたんだ。今日はアレは一緒じゃないのか?」
アレ、に微妙なアクセントをつけて肩口を指差される。
あまり快く思っていないらしいその仕草に思わず苦笑する。
…武彦さんは怪奇嫌いだし、ノイは悪戯好きだし口が悪いから…。
「よく寝てたから置いてきたんです。お使いですか?」
「あぁ、まあな。」
両手には重そうな荷物。
袋口からちらりと見えた中味は食料品、煙草のカートンetc。
「この季節だし鍋しようかってことになってな。」
「鍋ですか…」
ノイと二人では微妙にハードルが高いメニューだ。
楽しそうだなとは思うのだけど…。
「くるか?鍋は人数がいた方がいいからな。」
羨ましそうに見えたんだろうか、武彦さんがそう言ってくれて。
「いいんですか?」
「ああ、一人や二人増えたって構わんさ。」
…それがノイの不幸の始まりだった。
眼が覚めたら縁樹がいなかった。
『エンジュ?』
きょろきょろと辺りを見回す、気配がない。
…キッチンにもトイレにも風呂場にもいない。
縁樹がいない、いつも隣にいるはずの人がいない。
…不安、恐怖、焦燥。
一緒にいるのが当たり前で、殆ど離れていることなどないから落ち着かない。
『探しに行こう!』
縁樹を見つけなきゃ…頭の中はそれだけで。
他は何も考えずに、ノイは部屋を飛び出した。
「相変わらず散れてますねー。書類も溜まってるみたい…触ってもいいですか?」
草間探偵事務所の武彦のデスクの上は、書類やバインダー、ペンや修正液etcが乱雑に置かれていると言う有様だった。
多分片付けても片付けても散らすんだろうなぁと思いつつ、床に落ちていた一枚を手に取る。
「ん、あぁ。特に機密とかないしな。」
そう言ってきゅっと煙草を灰皿に押し付ける武彦…灰皿も吸殻で一杯でなかなかに…。
「…灰、溢れてますよ。ウェットティッシュかなんかありましたっけ?」
…掃除のし甲斐がありそうだった。
50p前後と言うノイの小さな身体には怪談の乗り降りさえ辛い。
一段一段が膝上以上の高さで、両手も使って全身で移動しているうちに白い服はあっと言う間に汚れてしまったがそんなことは気にならない。
…昼間だしボクを置いていくとしたらそれほど遠出はしないだろから、商店街あたりか?
人間ならともかく、どのくらい時間がかかるか…帰ってくるとこを上手く捕まえられればいいんだけど、と一人ごちてノイは道路に出る…と、嫌なものに会った。
…いや、別に普段は嫌じゃない。縁樹がいれば届かないし怖くない。
「……にゃぁん…」
でも今は縁樹がいなくて…。
…うわー、どうしよスゲー見られてる、見られてるよー!
茶虎の大きな猫がなんつーかこー、面白いもん見つけたって顔で見てやがる。
『……。』
何気ないフリ、何気ないフリ…気付かないフリで横を素通りしようとしたらそいつが動いた。
「にゃっ!」
『うわっ!何すんだ子の馬鹿猫ッ!!』
爪で引っ掛けられそうになって慌てて避ける、バランスを崩してこける。
思わず叫んだ俺の目に映るのは大きな口。
『ギャー!!』
あぐあぐあぐあぐ齧られて。
ボクはそれを外そうとじたばたと足掻いた。
『なんだよなんだよなにしやがるんだよ、ボクは美味しくない、美味しくないだろー!!』
生暖かい、ざらざらした舌で舐められてぞっとする。
蹴る、殴る必死で暴れる、でも一向に離れない。
同じぐらいのサイズだからな、上に乗られると圧倒的に不利だ。
暫く暴れていたら爪の出てない前足で押さえられて、口が離れる。
『よ、よかっ…くなーい!!』
と思ったら襟首を銜えられて、所謂猫掴みみたいな格好にされたかと思ったらぽーんと跳躍された。
世界が回る、引っ張られた襟が食い込んだ首が痛い。
『ッぐ、馬鹿馬鹿はなせー!クービーがー締ーまーるー!!!』
「…こっちのは去年の日付だからしまっていいですよね?」
「ん、あぁ」
動くことも好きだけど、こう言う細かい仕事も嫌いではない。
「何かあったらすぐ出せるよう年代別に分けておきますね。」
てきぱきと書類の束を片付けて。
いらないものといるものを選り分けて、いらないものは袋詰、必要なものは手の届くところに配置する。
「あとは掃除機かければいいですかね。」
『縁樹ー!縁樹ーーー!!』
引き摺りまわされぐるりぐるり。
どこがどこやら今自分がどこにいるのかさっぱりわからない。
ただ勢いよく飛んだり跳ねたり潜ったり、とにかくいろいろ動かされたのはわかってるのだが目がまわって…。
『…お?』
と、突然襟が放された。
『…くそ、いきなり放すな!放すならもっとゆっくり放せよこの馬鹿猫っ!』
ぼてりと頭が落ちて、ノイは頭を振って上体を起こした。
さっきあじあじやられた顔は猫の涎でべとべと、襟はびろんびろんに伸びている。
…でも首を直接噛まれなかった分マシ?
『ったく迷惑な…何がしたかったんだよ、おま…』
ぶちぶち文句を言いつつ猫を見上げ…息を止めた。
…顔が怖かったからだ。
さっき僕を見てた時とはあきらかに違う、なんつーの、そう、戦闘モードってカンジ。
おそるおそる視線の先を追うと……黒ぶちのやっぱり結構なガタイの猫が一匹。
…あれですか、ひょっとして。
始まるわけですか、何か。
そして巻き込まれるわけですね、多分。
『ギャー!!』
物凄い勢いで黒ぶちが突っ込んできて、ノイはあまりの形相に悲鳴を上げた。
かんっぜんに血が上ってる顔だ、絶対こっちのことなんかお構いナシに違いないと思っていたら思いっきり踏まれてしまった。
『うわっ!』
そのままノイを踏み越えて茶虎に体当たりしてくる黒ぶち、対する茶虎の鋭い爪の伸びた前足が服を引っ掛け、邪魔そうに後足で払われる。
「シャー!!」
「フギャー!!」
ぽん、ぽんと弾んで転がって、少し離れた壁に叩きつけられて、ノイはくらくらする頭を振った。
そんなノイにかまわず、茶虎VS黒ぶちのバトルは加熱していく一方で…ふと気付いた。
…今なら逃げれる!?
『……覚えてろよー!!』
猫達に気付かれないよう小声で叫んで、ノイはこけつまろびつその場を後にした…。
「あ、何か固いもの吸い込んじゃったみたいです…」
カコッと軽い音がして、嫌な手応えがした。
「何か大事なものだったらどうしましょう。」
「大事ならそんなとこにはないんじゃないか?」
…縁樹が掃除機をかけていたのは床である。
抉じ開けたパックの中には青いライター。
「半年ぐらいになくしたと思ってたライターじゃないか。」
「机の下に落ちてたみたいですね。」
『ギャー!!!』
…今度は鴉だった。
うわぁ、空があおーい。
なんて言ってる場合ではない。
見下ろした先にビルが見えるのはかなり恐怖の情景だ。
『ギャーギャーギャー!!』
鴉は高度を下げたり上げたり…まるで悲鳴が上がるのを楽しんでいる様子。
と、それを面白そうだと思ったのか他の鴉達が近寄ってきた。
『…や、やめー!!』
ノイの小さな身体はあっと言う間に奪い合いになり…そして降下した。
夕刻近く、あちこち探し回って草間興信所に辿り付いたノイはぼろぼろだった…。
「ノイ!」
「…なんだ、その格好。」
指差されて、それまでの鬱憤もあってぷつんときた。
『……全部お前が悪いんだー!!』
八つ当たりの言葉とともに、ノイの小さな身体が宙を舞った。
…武彦氏曰く。
身体に見合わぬ、素晴らしい重みの蹴りだったと言う。
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