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<東京怪談ノベル(シングル)>


Valentine's Panic

 巷は既にバレンタインデー一色だ。
 どこもかしこもピンクと赤に染まり、賑々しいことこの上ない。
 女の子が可愛らしくソワソワするのはわかるが、この時期になると、何となく、男連中までもが浮き足立つから、不思議である。
 もしかしたら……と淡い期待が、彼らの気分を落ち着かなくさせるのだろう。大概は、毎年取り越し苦労で終わるわけだが、それでも懲りずに、今年こそはと決意を固める様子が、いっそ哀れな気がしないでもない。
 村上涼は、大学四年生。既に単位は全て取り終えて、後はひたすら遊ぶばかりの身の上である。いやいや、もちろん、もはやトレードマークと化している就職活動をサボる気は毛頭無い。毛頭無いが、いつも就職情報誌と睨めっこをしているのも、味気ない話ではあった。
 ゼミが終わった後、涼は、華やかな雰囲気に惹かれるように、ふらりふらりと、地下鉄直結のファッションビルへと足を運んだ。
「この際よ。コネのために、教授方に貢いでやるわ!」
 村上涼。花も恥じらう二十二歳。彼女の辞書に、乙女心という文字はない。ページをめくれば、おしなべて「コネ」の二文字が躍っている。
「安物でいーわよ。この際。口に入れば味なんてみんな同じよウン」
 殊勝とか謙虚とかいう文字も、どこかに落としてきたようだ。
 いかにも義理っぽい安物チョコが並ぶ一角を、ふむふむと物色し始める。包装だけは立派だが、うずたかく物品が積み上げられていることから見ても、OL学生御用達の、「仕方ないからくれてやる」一品であることに間違いはない。
 ハッキリ言って、選ぶのも面倒だ。
 そもそも涼は、あまり乙女らしい性格の女ではない。
 頭に血が昇ると果てしなく暴走するし、怒れば大企業の社長だって面接会場で殴り倒すような、ある意味素晴らしい度胸の持ち主でもある。飲めば大声で他を圧倒して騒ぎまくるし、正体不明になって知人友人に迷惑をかけたのも、一度や二度の話ではない。
「そうよ。私に無いものを求めちゃいけないわけよ、うん」

 と、その時。

「……彼にあげるの!」
 高校生くらいの女の子が二人、涼の後ろで、楽しそうに談笑している。その会話が聞こえてきたのだ。涼は飛び上がらんばかりに驚いた。いきなり何の前触れもなく、某宿敵の名が、彼女らの話の中に登場したからだ。
「ちょっと……」
 一気に心拍数が上がってしまった。
 よくよく考えれば、某宿敵の名は、さして珍しいものでもない。全くの赤の他人だろう。気にすることはないのだと、自分自身に言い聞かせてみたが、今度は、もう、あいつの顔が頭から離れない。
 そしてまた、こういうときに限って、いかにもあの男に似合いそうな高級チョコレートが、視界に入ってくるのである。
「ベルギー王室御用達。贅沢で香り高い大人の味を……」
 ブランデー入りのトリュフの詰め合わせ。なんと六千円もする。さすがに包装も格調高い。この辺りは、完全に本命チョコだ。選ぶ女の子たちも、真剣この上ない表情である。
「カ、カンケーないわよ。あんな奴っ!!」
 静かに見て回ればいいのに、村上涼は、良くも悪くも、思ったことが言動にそのまま出る。
 その場を行ったり来たり。あぅーと唸ってみたり。まさに不審者。お巡りさんに通報されないのが、いっそ不思議なほどである。ともかくも怪しい。怪しすぎる。
「これは、私の分なのよ。私が食べるのよ! そうなのよ!! あんな奴、知るもんかー!!!」
 だから絶叫してはいけない。
 周囲の人間が、みな、一様に一メートルは引けている。
「自分を騙してなんかいないわよっ!! これは私が食べるんだからー!!!」
 がしっ、と、チョコレートの箱を掴む。
 これから死地へ赴くのかという、それはそれは悲壮な決意を顕して、猛然とレジへと走る。レジのお姉さんが、可哀相に、怯えてすっかり笑顔が引きつっていた。
 バレンタインデー前に浮き足立つのは、人間の運命。が、ここまで極端な例も珍しい。
「い、いらっしゃいませ」
 ともかくも、レジのお姉さんは、忠実に仕事をこなす。どんな変な女でも、高級チョコレートを買ってくれるなら、ありがたいお客様である。カードは何にしますかと、当然のように、涼に聞いた。
「え……カード?」
 そんなもの、頭の片隅にも浮かばなかった。
 が、言われてみれば、本命チョコにはカードを添えるものだ。ベルギー王室御用達の高級チョコに付属しているカードは、二種類あった。どちらか好きな方を選べるのだという。
「え……え……」
 困った。ものすごく。
 何だか、汗まで掻いてきた。
 こんなに必死になって、何やってんのよ私……どっと疲労感まで押し寄せてくる。
「どんな方ですか?」
 レジ係が、聞く。
「え……えーと。どんなって……」
 嫌みで性格が悪くて蛸足で……と、何故か、悪口は出てこない。
「自分で会社やってて、技術系の仕事してて……。何でもよく知ってて……」
「それなら、こちらの方が、よろしいかと思いますよ?」
 係が進めてくれたのは、密かに、涼がこっちの方が良いかなと思っていたものだった。
 白地に金の模様で縁取りされているだけのシンプルなものだが、かえって、それが、あいつらしい。
「こ、これにして下さい」
 無地のまま、カードを一緒に入れてもらった。
 それに書く文字は、何も浮かばない。
 いや。このチョコは、自分で食べるのよ。
 この期に及んで、涼は心の中で主張する。
「ありがとうございましたー!」
 お姉さんの声を聞きながら、売り場を後にする。
 頭の中は、あの憎たらしい宿敵のことで、一杯だった。

 教授への貢ぎ物?
 砂一粒分の記憶もなかったわ。悪いけど。

「ち、違うわよ。これは、あんな奴の分じゃ……」
 バレンタインが終わるまで、涼の苦悩は続きそうな気配である。