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<東京怪談ノベル(シングル)>


おはよう

 花瀬祀(はなせまつり)の生家は、この東京が花のお江戸と呼ばれていた頃からの、由緒正しき呉服問屋の老舗である。
 明るく活気に満ちた元禄時代には、あの名優市川団十郎が舞台衣装を頻繁に作らせていたという話だし、円熟を謳う化政文化の真っ直中には、竹本義太夫が、暇を見ては足繁く通い詰めていたとの噂もある。
 あながちそれが嘘でもないのは、途方もなく古い家のあちこちに残された、貴重な文化財を見ていれば、よくわかる。
 花瀬の屋敷は、ともかく古い。
 改築改装を続けて、だいぶ近代的な設備も整ってきてはいるが、元々の土台が限りなく遺跡に近いため、それも限界があるのだ。
 友人知人はおろか、通りすがりの町行く人々さえもが、幽霊が出そうだねと、遠慮会釈なく主張する。
 否。
 いるのだ。
 幽霊も。妖怪も。ともかくも、その類のものが、うようよと。
 座敷わらしの一人くらいなら、居てくれてもまぁ許せるが、花瀬の屋敷はその比ではない。
 玄関から屋根裏まで、全ての魑魅魍魎を掻き集めたら、きっと妖怪図鑑が出来てしまうだろうというくらい、とんでもない数の「ヘンなもの」がいるのである。
 祀は、その全てを見てきた。
 生まれたときから、見てきた。
 彼女には、その力があったのだ。
 部屋の隅に。天井に。床下に。あらゆる場所に、「この世ならぬ者」を見る。彼らの気配を感じ、彼らの声を耳にする。
 まるで、この家の一員だとでも言うように振る舞う、妖怪たち。親しげに話しかけてくる。遊ぼうよ? 手を差し出す。
「いない」
 祀は無視する。
 見えていても、見えていないふりをする。
 祀は普通でいたいのだ。旧家に関わる全てと、縁を切っていたいのだ。こんな者たちが見えること自体、自らの中の古い血を認めるようで、憂鬱になる。
 どうして平凡なサラリーマン家庭に生まれなかったのだろう?
 身分とか格式とか、そんなものに興味はない。
 伝統とか文化とか、そんなものを継ぐ気もない。
 勝手にやっていればいいのだ。あたしには、その全てが、煩わしい……。

「いない。ここには、誰も」
 
 それは、呪文。
 見えるものを、見えなくする、呪の言葉。
 祀は、物心付くや否や、自らを言霊で縛り、彼らの存在を否定し続けてきた。
 どれほど悲しげな目を向けられても、見えていなければ、何も感じない。
 気が付けば、祀は、十三歳になっていた。
 狭間に生きる者たちを無視して、平穏に生きてきた、十三年間。

「僕たちを、見てよ」

 それは、寝苦しい夜のことだった。
 真夏は過ぎている。秋もだいぶ深まっていたかも知れない。
 月明かりの中に、色付き始めた紅葉を見た気がする。あり得ないくらい、ねっとりとした空気が、闇の中に横たわっていた。重くて重くて、息が詰まる。むき出しの二の腕にも、じっとりと汗をかいていた。
 
「ここにいるよ。ずっと。ここにいたんだよ」

 囁きかける声。
 もう無視は出来ない。
 祀は、憂鬱そうな表情を隠そうともせず、声の主を見つめる。小さな妖怪が、そこにいた。図々しくも、布団に入って寝ている祀の胸の上に、ちょこんと乗っかっている。
「僕に、気付いてよ」
「うるさいっての。あんた」
 敵意も顕わに睨み付ける。人様の胸の上にどっかりと胡座をかいて、気付いても何も無いもんだ。殊勝に寂しげに訴えるなら、それに相応しく行動も伴わんかい!
「退けろってば、このヘタレ妖怪! あんたが子泣き爺なら、あたしは今頃胸部圧迫の窒息でお陀仏だよ! 邪魔だってばこの野郎! マジでぶっ飛ばすよコラ!?」
 がばりと跳ね起き、ついでに布団を引っぺがす。幸いにして、小さな妖怪は子泣き爺ではなかったようだ。十三歳児の力でも、簡単に転がすことが出来た。
「あうぅ……ひどい。祀ちゃん」
「ひどいのはどっちさ。この安眠妨害のチビ助が」
「く、口が悪いなぁ……相変わらず。祀ちゃんらしいけど」
「余計なお世話! 安眠妨害小僧相手に使う敬語は、あたしには無いよっ!!」
 ふん、と、そっぽを向く。
 これくらい苛めておけば、懲りて二度と出てこないと思ったのに…………ふと見ると、妖怪は、笑っていた。
 何だか、嬉しくて溜まらないとでも言いたげに。
 人間のものとは明らかに違う双眸に、小さな玉が光っていた。妖怪でも泣くんだと、涙の形は変わらないんだと、祀は、何だか急に神妙な気分になって、思わずその場で居住まいを正した。
「ちょっと……何泣いてんの」
「嬉しくて」
「嬉しい?」
「祀ちゃんが、気付いてくれたから」
「そんなことで?」
「大切なことだよ。みんな、ずっと、ずっと、祀ちゃんが生まれてきたときから、祀ちゃんを、見てきたんだよ」
「みんな?」
 薄暗い部屋の中に、さわさわと、気配が集まる。
 振り返らなくとも、そこに何がいるかは、わかった。
「僕たちは、この家に、ずっとずっと住んでいたの。ずっとずっと、見てきたんだよ。祀ちゃんが生まれたときのこと、覚えてる。すごく天気のいい日だったね。祀ちゃんの紅い髪が、何だか、お日様の色に見えたんだよ」
 頭の固い頑固親父は、近代的な設備の整った病院ではなく、この古くさい家で娘を産ませた。代々、この家の長子を取り上げるのは、産婆の役目なのだそうだ。
 今時そんな馬鹿馬鹿しい伝統を守るなんてどうかしていると、祀は、またそこでも父親と喧嘩する。押しつけが腹立たしくてたまらなかった。たまらなかったが……この物凄い数の居候たちが、一様に自分の誕生を望んでいたのかと思うと、何だか、怒りも萎んでしまうのだった。
「馬鹿みたい」
 意地っ張りな台詞を、口にする。
 妖怪たちは、気に止めた風もない。
 祀の性格を、彼らはみんな知っていた。
 十三年間、変わらずに見守り続けてきたのだ。気が強いところも、多少口が悪いところも、本当は優しいところも、その全てを、彼らは、ちゃんと知っていた。
「祀ちゃんに話したいこと、たくさん、たくさん、あるんだよ」
「あたしは寝るよ。眠いわけよ。明日また学校があるんだから!」
 布団を頭から引っ被る。
 無理矢理、祀を起こそうとする気配はない。
 いいよ、と、遠慮がちに、チビ妖怪は笑った。



「そのまま、聞いて。眠るまで。子守歌代わりに。ほんの少しでいいから……」



 翌朝、目覚めは快適だった。
 胸の上に、妖怪の姿はない。部屋の中にも居なかった。
「行っちゃった………なんてこと、ないよね」
 不安にかられながら、部屋を飛び出す。
 妖怪たちは、相変わらず、そこにいた。
 廊下の片隅に。窓の向こうに。庭の奥に。
 さり気なさを装いながら、じっと祀を見つめている。決まった位置に佇み、決まったことをしながら、それでも、ちらちらと、祀の様子を伺っているのだ。
「あいつは……?」
 小さな妖怪は、庭の桜の枝の上が、お気に入りの特等席らしい。
 足をぶらぶらさせて、快晴の空を見上げていた。

「おはよ」

 祀が声をかける。
 妖怪が、振り向く。

「おはよ」

 良い朝だ。
 風が気持ちいい。
 こんなのも悪くはないと、祀も一緒に空を見上げる。
 太陽が、眩しかった。
 
「うん。ほんの少し、家とあんたたちが、好きになったかもしれない」

 少しずつ、変わる。
 ゆるやかに。何かが。
 
「おはよう」

 まずは挨拶から。
 ほんのちょっとだけ、優しくなれたような気がした。