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<東京怪談ノベル(シングル)>


All music is Love



 音楽は、ただ奏でるだけでは「音楽」にはならない。
 それを弾く者が楽しみ、聴く者も楽しくなければ。
 双方の「心」がそこになければ、それはただの雑音にしか成り得ない。
 それがたとえ、いかに見事な音色でも。


          *


 頬にかかる細く柔らかな栗色の髪を指先で払いのけ、七瀬雪は短く吐息を漏らした。
 澄んだ湖水のような美しい青い瞳に映るのは、好きな家電製品の一つであるノートパソコン。
 正確には、その液晶モニターに表示されている二つの着信メールである。
 双方へ視線を走らせ、また一つ雪は吐息を漏らす。そしてパソコンを置いたデスクの上に頬杖をついた。
「……困りましたわ」
 ポツリと呟き、綺麗な指先をスライドパッドの上へと滑らせ、慣れたように操作し、別プログラムを呼び出す。それは人気ピアニストである雪の膨大な量のスケジュールをまとめたものだった。
 そのうちの、ある一日の予定を見、雪は大きな溜息をついた。
「やっぱり」
 その欄には予定がびっしりと詰まっていた。どこに何を差し挟む余地もない。
 いや。
 移動時間等を切り詰めれば、ギリギリ、なんとかあと一つくらいは予定を組み込む事は出来そうである。
 が、どう考えても、あと一つだ。それ以上は絶対に無理である。
 頬杖を解き、左手の人差し指を頬に添えながら、雪は緩く首を傾げる。そして右手の人差し指でスライドパッドを操作し、先ほどの二通のメールを前面に表示する。
 それは雪への演奏依頼のメールだった。
 一つは、某有名巨大企業が主催する、豊島区にある芸術音楽ホールでのコンサート出演依頼である。至って事務的な出演依頼の交渉文がつらつらと書き連ねてある。少しの綻びも見られないその整った文章の中には出演料の事もしっかりと書かれていた。
 その額、なんと。
 一億。
 そんな破格のギャラをあっさり提示してくるあたり、さすがは大手企業というべきか。
 しかも雪が演奏するピアノも上等な物を用意してくれるという。
 まったくもって至れり尽くせりという感じだ。
 それに引き換え、もう一方の演奏依頼はと言うと。
 先ほどの企業からのメールに比べると、幾分砕けた感じの文章が綴られており、一・二箇所ほど誤字もあったりした。
 まあそれは依頼に関係ないとしても、先の依頼に比べると、コンサートの規模は格段に小さい物である。
 場所は、街のこじんまりとしたホール。出演料は、雪を呼ぶ為に街の人たちが協力し合い出し合って集めたもので、先の依頼とは比べようもないほど、些少。
 ……普通に考えてみたら、そんな差がありすぎる依頼のどちらを選ぶかなど火を見るよりも明白である。
 けれども雪は、もうかれこれ数十分も「うーん、うーん」と唸りながらメールを見比べていた。
 どちらも、自分の演奏を聞きたいと思い、自分に来て欲しいと言ってくれている。けれど、今はどちらか一つにしかいい返事をしてあげる事が出来ない。
 でもどちらも、自分を求めてくれている。
 できれば両方ともに行ってあげたい。
 けれども、それはできなくて。
 今はどちらかを選ばなければならない。
 でも。
 自分を求めてくれている人たちを天秤にかけてどっちがいいか、なんて……。
「はぁ……選べませんわ〜……」
 大きな溜息をつき、雪はテーブルの上に突っ伏す。
 自分の音楽を聴いてくれるのなら、それは両方自分にとっては大切な人たちである。
 どちらのメールからも伝わってくる熱意は同じくらい。
 ……ただ多少、企業の方がいろいろな面で優遇されているのは明らかだが。
「……あ」
 がばっと伏せていた上体を起こし、雪は宙へと視線を向けた。とくにそこに何があるわけでもないが、もし何かがあるとしたらそれは、妙案が浮かんだ時の古典的表現して描かれる電球マーク、だろうか。
 何か閃いたらしい雪は、メールの最後に記されている差出人の名前や住所等にざっと目を通すと、すぐにパソコンの電源を落としてイスから立ち上がった。そして洋服掛けにハンガーで吊るしてあった、最近大のお気に入りの白いコートを手に取り、玄関へと足早に向かう。その肩口で緩く巻いた毛先がふわふわと羽のように軽やかに揺れた。
(メールからだけじゃ相手の方々の事なんてしっかりは分かりませんもの。なら直接自分の眼で見て判断しますわ)
 ――こうして雪は、両クライアントの様子を見に行ってみる事にしたのである。


 ふうと手袋をはめた両手に吐息を吹きかけ、雪は空を見上げた。
 重たそうな雲が、頭上には広がっている。頬を撫でる風は冷たく、両手にかけた吐息が手のひらに当たり跳ね返って頬に当たるのがひどく温かく感じられる。
 この寒さとこの空模様。自分の名と同じ冬の精――『雪』が降るかもしれないと、ちらりと思った。
「……さて、と。それじゃ少しお話聞かせてもらいますわ」
 呟き、そっと青い双眸を白い瞼の裏に隠すように目を閉ざす。
 雪は今、1億の出演料を提示して出演を依頼して来た企業の本社ビル前に居た。きれいに手入れの行き届いた植え込みの前に腰を下ろし、しばらくぼんやりとガラス部分が目立つ高層ビルを眺め上げていたのだが、ようやくここへ来た目的を果たすために意識を凝らす事にしたのである。
「――――……」
 研ぎ澄まされていく意識。それに合わせて、徐々に耳に聞こえる音が変わってくる。
 人が生み出す、幾多のざわめき。遠い、雑踏。
 この場に居るだけでは聞くことなどできないはずの音が、まるで雪の耳に吸い寄せられるように集まってくる。
 それは、雪の能力。
 人として過ごしている雪の、本質に宿る力。
 ――美しい銀の翼を持つ……天使、の。
(なんだか人様のお話を盗み聞きしているようであまりいい気分ではないのですけれど)
 胸の裡で密かに思いながら、雪は能力を調節して、巨大な集音器で周辺の音すべてを拾っている状態から、たった一点、目的の音を拾うためにさらに意識を凝らす。
 目標は、今自分の前にあるこのビルの中。
 建物内部の構成は分からない。けれど、人の会話の内容で目的地を探し出す。
 自分のコンサートの企画をしている者たちがいる所、を。
 伸びていく意識の端に引っかかる声を聞き、関係ないものならその声を遮断してさらに別の音を拾う。
 そんな作業を、目を閉じじっと集中して行う事、わずか数十秒。
 ふ、と。
 雪の双眸が開いた。耳に届くのは、今現在周囲で流れている音ではなく、そこから離れた場所にある音。
 ビル内の、会議室での会話。
「見つけましたわ」
 人差し指を唇に当てて密やかに呟き、雪はビルを見上げた。その間にも、雪の耳は敏感に会話を聞き取っている。
 相手の風貌まではわからない。けれど、声質の違いから察するに、その場にいるのは男性三名。
 ふと、しばらく会話を聞いていた雪の眉宇がわずかに寄せられた。
『一億だぞ、一億。まさか断る訳ないだろう。なんかどこかの自治体もアプローチかけてるらしいが既にそっちにもこっちが一億提示した話は伝わっているだろうし』
『ですね。誰だってそんな額提示されたら考えるまでもなくオッケーしますよねえ。自治体の方も諦めるでしょ』
『まあ、これで蹴るなんてよっぽどのバカか金に執着のない仙人くらいのものだろうな』
『ピアノも、ベーゼンドルファーのモデル二九〇かブリュートナーのモデル一を用意するつもりだしな』
『……なんですかソレ?』
『一台一千万以上するピアノだよ』
『えっ、一千万?!』
『破格の出演料に、最高のピアノ。これでこの話蹴るなんてありえないだろ』
『でも、なんでそんなに大金払ってまで七瀬雪に演奏依頼なんてするんですか?』
『決まってるだろう、今絶大な人気を誇る彼女をうちの社主催の演奏会に招いたら、社のイメージが上がる』
『けど、いくらイメージアップの戦略だからといっても一億なんて……』
『契約が増えて製品が売れれば、ギャラの一億の回収なんてあっという間だ。痛くも痒くもない。そこらの人気アイドルと違いちゃらちゃらしたイメージもないから年配層にもウケがいいだろうしな』
『それに後々CM契約等も取ればなお効果的だ。コンサートはその為の足がかりにもなる』
『なるほど、そういうことですか。アイドルとは違うけどルックスはアイドル並……いやそれ以上だったりしますしね? 若者の人気も取り込める、と』
『そういうことだ』
 ……そこまでを聞き、雪は意識の集中を解き、聴覚を通常のレベルに戻した。そして一つ、溜息を漏らす。
 確かに、自分が演奏するのは仕事だし、相手がそういう戦略の元で自分に依頼を回してくるのも仕事なのだから当然といえば当然だ。
 ……が、何だか……。
(私の演奏、というよりは私がもたらす金銭的な価値しか見てくれていない気がしますわ……)
 プロとして活動している以上はそれも仕方ないのだろうが、なんだか……酷く寂しい気がした。
「……まあ、それもお仕事ですものね」
 ぽつりと呟くと、雪は立ち上がり、コートの裾を丁寧に手で払って歩き出した。
 もう一件のクライアントの様子を見に行くためである。


「この辺りかしら」
 周辺を見回し、ぽつりと呟いて雪は頬にかかった髪を手で払いのけた。
 まだ夕方だったが、雪でも降りそうな天候のせいかすでに周辺は薄暗く、周辺の家や店、街灯には明かりが灯っている。
 雪が立っているのは、すたれかけた商店街の看板下だった。不景気の影響だろうか、まだ営業していてもおかしくはない時間帯だというのに大半の店はシャッターを下ろしている。それに、買い物客の姿はおろか、人通りすら見られない。
 もう一度きょろきょろと周囲を見、雪はそのどこか物寂しい雰囲気が漂う商店街の通りをゆっくりと歩き出した。
 確かに、こんな状態ならとてもじゃないがたっぷり出演料を出す、とはいかないだろう。
 けれど、どうしてこんな状態なのにわざわざ自分を呼んでコンサートを、なんて思いついたのだろうか?
(何か理由があるのかしら……)
 ブーツの踵とアスファルトがぶつかる音が、やけに大きく通りに響く。吹き過ぎる冷たい風に思わず自分の体を抱きしめるようにしながら、じょじょに意識を凝らしていく。
 聞こえてくる、家屋兼店舗の中の会話。不景気を嘆く声、どうすれば店をもっと繁盛させられるかと相談しあう声。何も知らない子供たちが元気にはしゃぎ遊ぶ声。さまざまな声が耳に飛び込んでくる。
 その声を、ゆっくり一度目を閉じて自分から遠ざけていく。そして、感覚をさらに広げ、求める声を探す。
 ――そう苦労することなく、その声は感覚に引っかかってきた。
『…――…社が、ウチがお願いしたのと同じ日に一億出すから出演交渉してるって聞いたんだけど……本当かなぁ』
『一億?! ……そんなに出されたらこっちは無理じゃないか』
『ですよね……一億もなんて……。そんなの、絶対勝てっこないですよねえ』
『すぐに返事来るとは思ってないけど、今朝出したメールにも返事まだ来てないしなあ……』
『やっぱり無理か……』
『一億と、こっちが提示した金額とじゃ天と地ほどの差があるもんな』
『いっそこっちもバーンと大金用意できたら……』
『今のこの商店街の様子じゃ無理に決まってるだろ。金、あれだけ集めるのだって大変だったんだし』
 ……どうも、すでに諦めムードが漂っているようである。
 ふうと吐息をつき、雪は頬に手袋に包まれた手のひらを当てて緩く首を傾げた。凍えた空気の中で白く輪郭を現した吐息は、すぐ夜気の中へと透明になり溶けていく。
 その耳に、言葉の続きが聞こえてきた。
『七瀬雪が来てくれるとなったら、少しはここにも活気が出るかと思ったんだが……』
『この不景気で沈んでる街の連中も元気出るかと思ったんだけどなぁ』
『ここんとこ、ちっとも楽しいイベントとかなかったもんな』
『……みんな喜ぶと思ったんだけど……一億が相手じゃ無理だよなあ』
『もう一回メール送ってみるか。金はやっぱり出せないけど、みんなが聴きたがってるってことをちゃんと訴えたら分かってもらえるかもしれないし』
『そうだな、諦めてばっかりじゃ何にも事態は好転しないもんな!』
 なんだか急に前向きになり、活気付いた声が上がり出す。
 それに、雪は知らず知らずのうちに表情をほころばせていた。
(……こんなに、こんなに私の曲を聴きたいと思ってくださってる方たちがおられるなんて……。私の曲を聴けば元気になれると思ってくださっているなんて……!)


 その時点で、もう雪の心は決まっていたのだろう。
 帰宅した雪は、双方のメールに返信した。
 ――明日、私が指定する場所に指定の時間にいらしてください。そこでお返事はさせていただきます。
 そう、書いて。


 翌日。
 雪は、豊島区にある芸術音楽ホール前に立っていた。
 企業側が雪に演奏してもらう場所として提示していた所である。
 そしてその雪の前には、きっちりとブランド物のスーツで身を包んだ企業側の担当者と、シャツにジーンズにジャケットというラフな格好の街側の担当者がいた。
「お返事を聞かせていただけるとの事ですが」
 眼鏡の奥のつり気味の目を細め、企業側の担当者が言う。それに、緊張の面持ちで街側の担当者も頷く。
「聞かせてください」
 絶対の自信と、負けそうではあるが負けられないという意思と。
 その二つが、それぞれ雪の前に居る彼らには宿っている。どちらがどちらなのかは、言わずもがなだろう。
 その二人の様子をしばし見ていた雪は、やがてニコと微笑んだ。ふうわりと柔らかい髪が冷たい風に揺らされる。
「お呼び立てしてしまいまして申し訳ありません。来てくださりありがとうございます」
「ここへ呼ばれたということは、我々の申し出を受けてくださるということだと思ってもよろしいんでしょうか?」
 返答を急くように、企業の担当者が言う。その言葉に、街側担当者が表情を曇らせる。
 やはり、だめか。
 そんな色が濃く浮かんだその担当者を見、雪はまたニコと微笑んだ。そしてその顔を企業担当者へと向け。
「申し訳ありませんがそちらのコンサートには出演する気はありません」
 さらりと言った。
 が、あまりにもさらりと言われすぎたのか、その場にいる担当者二人共が目を瞬かせ、しばしの間無言で突っ立っていた。その沈黙に、雪は緩く首を傾げると、胸の前で両手を緩く組み合わせて、二人へと視線を向ける。
「お分かりいただけましたかしら?」
「我々はあなたに、あなたの音楽の価値に相応しいだけの金額を提示した。そしてあなたが演奏するに相応しい場所、そして相応しいピアノも用意した。……なのにどうしてですか。納得できません」
 冷静さを取り戻した企業担当者が、じっと雪を鋭い目で見据えて言う。
 絶対の自信があっただけに、雪が下した決断がするりと飲み込めないのだろう。それは街側の担当者にしても同じ事だったらしい。もっともこちらは、どうして自分達の方を選んでくれたのかがまるでさっぱりわからないようだったが。
 雪はこくりと頷き、企業側の担当者の目をまっすぐに見た。
「私はお人形ではありませんの。いくら大金を詰まれましても、ただの『商品』としてしか見てくださらない方の所では素敵な演奏など出来るはずありません。こちらの方々は、確かにお金はそちらが提示なさった額よりは少ないかもしれません。けれど」
 言葉を止めた雪が、街の担当者へと視線を向ける。それに思わず姿勢を正す担当者に、雪はにこりと微笑み、再び企業の担当者へと顔を向け。
「心の底から、私の音楽を求めてくださっています。私は、そういう方たちの為にこそ、音楽を奏でたいんです」
「……そんな、綺麗事……」
 低く呟かれた言葉。どうもまだ納得し切れていない企業側担当者に、雪はにっこりと、それこそ天使もかくやの笑みを浮かべると。
 キッパリと、言った。
「私は大金になど何の興味もありませんの。必要以上のお金なんて、私には何の意味もないですわ。必要なだけあればそれでいい。必要な分は手に入りますし」
 それに、と更に言葉を継ぐ。
「私は立派な舞台の為に演奏するのでも、立派なピアノに頼って演奏するのでもない。私は私の音楽を心から求めてくれる人のために演奏したいんです。たとえどれだけ豪華な舞台より立派なピアノより、たとえ小さくても、金銭のみに縛られたりしない『温かさを感じられる場所』の方が私にとっては素敵な舞台ですわ」
 それは、企業側が提示した条件のどれもが、雪にはどうでもいいことなのだと告げられていた。
 悔しげに奥歯を噛み締めた企業側の担当者から、雪は呆然としたままの街の担当者へと顔を向けた。そして一つ頷いて、にっこりと微笑んだ。
「私の演奏で皆さんが元気になってくださるかどうかは分かりませんけど、精一杯、素敵な演奏をします」
 その微笑みはまるで春の木漏れ日のように柔らかく温かみのあるものだった。
 感激したように目を潤ませる街の担当者。何度もありがとうございますとお礼を繰り返すその担当者を目を細めて優しく見ながら、雪はそっと羽織っている白いコートごと自分の身を抱くような仕草をし、空を見上げた。
 精一杯、素敵な演奏をしよう。
 聴いてくれる人たちが、楽しんでくれるように。
 自分の音楽を求めてくれた人たちの為に。
 そして。
(……あの方の、為に)
 思い描く面差し。その思いごと、白いコートに触れる。
 このコートを贈ってくれた、その人を思い描き。
 その人を思い描く事が、自分の演奏によりいっそうの輝きを添える事になると、雪自身よく分かっているから。

 それは、何よりも純粋で、綺麗な――想い。


 数日後。
 街のこじんまりとしたホールで行われた七瀬雪のコンサートは、小規模ながらも大成功を収めた。
 それから、あの商店街にも明るさと活気が戻ったのは――もしかしたら、舞い降りた一人の天使の成せる業、だったのかもしれない。


 音楽、という名の魔法を持つ、天使の――…。