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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


シルバー・カット・オフ



 切れている――会社から帰宅した藍が、扉のドアノブを見つめてまず思ったのがそれだった。
 彼女は部屋を出る時には毎朝、玄関扉の壁とノブに自分の髪の毛を一本くくり付けて行く――そのテンションが緩んでいるか、切れているかすれば、いくら傍目からは何の変哲ない扉に見えたとしても、部屋への侵入者がいたことを藍にだけは知らせてくれる。プツリと切れた銀色の髪が冷たい風に晒されて靡いていた。
 自分の右腿に手を伸ばし、そこに忍ばせているデリンジャーに触れた。良く手入れされたそれはなかなかに扱い易く、勤務時間外には藍がお護りとして肌身離さず身に付けているものだ。いささか小さすぎて殺傷能力には不安が残るが、それこそ『殺し』てしまっては拙い。扉の前、衣擦れの音すらさせぬままで藍はホルダーからデリンジャーを抜き出した。
 鉄の扉のノブを左手に、デリンジャーを右手に。敵がこの道のベテランであるのなら、おそらくは藍の到着に既に気がついている筈だった。鋭利な眼差しはじっと扉を見据えている。その向こうに佇む筈の、敵の輪郭を辿っている。
 3。
 2。
 1。
 扉を開け、隙間から暗い室内を伺う。そして闇の中に身を滑り込ませ、まずはバスルームの中を探り、そしてその影に身を寄せる――そこまでを一瞬のうちにこなしてしまってから、藍右手を真っすぐに伸ばして奥の部屋へとデリンジャーの銃口を向けた。視線は確りと壁や扉の影を規則正しく追い、侵入者が選ぶ可能性のある自身の死角を潰して行く。
 が、そんな緊迫は意外な声音に打ち破られた。

「ハロー、警備員――キミを、」
 殺しに来たよ。

 暗闇の中、藍が寝室に視線を投じた。
 冷たい風にカーテンが煽られ、音もなくはためいている。
 そんな蒼い空気の中、非道く華奢で――か細いシルエットが、ゆらりと首を傾いで藍に告げた。
 やっぱり、来た。
 藍は、じっと影――ゼゼ・イヴレインを見つめている。



 数刻前迄のことである。
 ゼゼは藍のマンションの前で、暗いベランダをじっと見上げていた。
 そこに辿り着くまでに、三日。その間は寝食を忘れて、『警備員』の割り出しに没頭していた。制服の色や形から、あの日あの要人に付いていた警備会社を探し、担当していた警備員すべてを調べ上げた。結果、自分をあの日逃し、蔑みの眼差しで見送ったあの警備員は藍銀華であるという結論に辿り着いたのだった。
 組織の壊滅。
 パートナーの拘束。
 帰る場所を失い、拠り所を失ったゼゼにはもう失うものなどなかった。
 ただ、あの日――自分から何もかもを奪ったあの警備員を、この手で無残に引き裂く…それだけを願い、彼のこの数日はあったのだ。もともと華奢だった体躯からはみるみる肉がこそげ落ちて行き、眼窩は窪んでことさら目付きだけが鋭くなった。顎も細くなったし、首だけがひょろりと長くゼゼの中性性を増させていた。
 相手――藍銀華が女であったという事実も、ゼゼの憎悪を増長させるファクターのひとつだった。
 女、それも自分とさほど年齢の変わらない程度の。それは、まがりなりにも苦しい訓練を繰り返し、血の滲むような努力を重ねて今の自分になれたと自負するゼゼにとっては堪え難い屈辱だった。あれほどの訓練や努力を重ねられる人間が、そんなに簡単に存在するわけがない。自分だからできた、自分だから乗り越えることができたのだと信じるには、彼女の存在は疎ましくて仕方がなかったのだ。
 だから、藍のマンションに忍び込み、その姿を目の当たりにしたゼゼは――その背すじが冷たく引き締まるのをありありと感じていた。自身の中にそっとひそませた殺意が目を醒ます感覚。彼の眼差しはすっかり暗闇に慣れてしまっていたから、扉を開けてからの藍の所作はありありと見て取れた。
「殺しに来たよ」
 ゼゼは愉悦に震える声音を隠そうともせずに、藍へ向けてそう囁く。ポケットの中には使い慣れたサバイバルナイフが一本、いつでも手を掛けられるようにしのばせられていた。闇の中、指先でつるりと腿を撫でるようにナイフを捉える。その時、口許の笑みはことさらに深いものとなった。
 喉を、裂く。
 そんな一点の狙いと共に、ゼゼがモーション無しで藍へと駆け出した。俊敏さを誇った、鋭い殺意の矢――組織で培ったそんな所作は、ともすれば藍の命を脅かしたかもしれない。
 だが。
「――少し、お眠りなさい」
 踏み込みならばほぼ同時、そして俊敏さは今の藍の方が上手、だった。
「ッ―――っ」
 ポケットから抜き出されたゼゼの手首を、藍の手刀が打つ。その勢いで身を翻し、次いで藍はゼゼの首の後目がけて強く振り下ろした。
 軽い手ごたえに、勝負はあっけなさ過ぎるほどに早々と着いてしまう。
 後には、床の上に崩れ落ちたゼゼとその傍らにサバイバルナイフ、そしてそれを見下ろす無表情の藍がいた。



 窓を開け放していた寝室は凍えるほどの寒さだったので、リビングからストーブを運んで部屋の隅に設置した。室内は程よく暖められ、橙色の照明がベッドを緩やかに照らしている。
 シーツの真ん中に横たわっているのは、汚れた衣服を纏う小さな身体である。藍の手刀を首の後に受けたまま気を失い、それを藍がベッドへと運んだ。過ぎる程の俊敏さに、攻撃を受けた時の訓練を怠った者の崩れ落ち方だった。おそらくは、所属する組織の中でもかなりの秀逸の部類にあったに違いない。
 もう、疑う由も無かった。
 藍は確信する。
 あの時の――あの日自分が理由なく取り逃がし、組織壊滅後もおそらくはその消息を途絶えさせたままだった――侵入者だ。
 今はベッドの上でシーツにくるまり、藍が運んだままの姿勢で泥のように深く眠っている。死んでしまっているのではないか、そんな僅かな感情の乱れを感じては時折その鼻先に耳を寄せた。浅くとも、定期的な呼気。それを感じるたびに藍は身を起こし、隣の部屋へと引き返して行く。
 私たちがかつてキミに1度でも、その個性を露にしろと命じた事があったろうか、銀華?
 そんな義父の鷹揚な問いが、藍の耳の奥でこだましていた。イングラムよりもコルトの方が扱いやすい、そんな内容の事を彼に申し立てた時の事だった。
 キミは私の言う通りに動き、私と言う通りの方法を使い、私の言う通りのターゲットにアタックすれば宜しい。淡々とした口調でそう続けた義父の、冷たく事務的な横顔(彼は彼女と視線を合わせて語る事すらしなかったのだ)。その言い付けのままに心身を磨き抜いたならば愛されるだろうかと爪の先ほどに持ち続けた希望は、今も叶えられたと実感することはない。
 殺戮と破壊のために、磨いた能力。
 要人警護といった職務などは片腹痛い、本来ならばその要人を「殺戮」するための能力を有す彼女なのだ。
「・‥…――」
 冷蔵庫を締めたバタンと言う音に、寝かせた侵入者を起こしてはしまわなかったかと――藍は視線を寝室へと投げた。薄く開けた扉の向こうでは、身じろぎの音ひとつしない。しばらくその気配を伺い、目を醒ます様子が見留められない事を確かめてから、再びキッチンに向き返りコンロの火を付けた。
 水を満たした冷たいヤカンが温められてコトコトと音を立てはじめる。その間、藍は扉の向こう、滾々と眠り続ける幼い相手について思案を巡らせていた。
 手ひどい仕打ちを受け続けたのらねこのような目をしていたが、おそらくは自分とそれほど境遇は変わらないだろう。あの組織の中で育った子供かもしれないし、ただ金で雇われただけだったかもしれない。どちらにしろ、ここまで切羽詰まった様子で藍のところに乗り込んできた様子を鑑みれば、おそらく彼女(藍は、名も素性も判らぬゼゼの事を、自身と同性――女であると信じ込んでいたのだ)にはもう戻れる場所は残されていないのだ。
「……監視、か」
 そう呟いて、藍は自嘲する。
 うかつにあの少女を野放しにして、外で自分が襲われるようなことになれば、あの日彼女を見逃した自分の失態が露見してしまうから。そんな名目を、無意識に打ち立てては彼女を側に置こうとしている自分が可笑しかった。また、自分は、何かを許そうとしている。何かに、許されようとしている。
 いつの間にかヤカンの口から、勢いのよい湯気が吐き出され始めていた。
 藍はしばらくの間それをじっと見下ろしていたが、火をとめてからポットにそれをつぎ足す。そしてそのポットを左手に持ったまま、寝室へ向って歩いていった。