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青い視線
夜の歌舞伎町の帰り。
外食の帰り。
年頃の女が歌舞伎町に行く理由なんて他人にとってはどうでもいいことだし、こうして最終に乗ってる他人の行き先なんて、歌舞伎町に行った理由よりもどうでもいいこと。
だからあたしは人間が嫌いなのかしら?
でも、だからこそこの街の居心地がいいと感じるのかもしれない。
誰もあたしに干渉しない。地下鉄は黙って、あたしを終点まで運ぶだけ。その沈黙が嬉しい。慣れれば、この規則正しい揺れだって何か心地いいものに感じる。
各駅停車のまったりとした移動時間も、満腹の状態であればそれほど苛立たしくは感じない。満腹であればね。お腹が減っているとどうしても機嫌が悪くなる。その辺の、ぐったりと座席に座っていびきをかいてる、赤鼻のサラリーマンの首筋に噛みつきたくもなる。
けれど、今夜、あたしは満腹で――あたしの他に乗客はいない。いつの間にか、あたしひとりになっていた。あたしはバッグの中に読みかけの洋書を入れるのを今日に限って忘れていた。終点まではまだ8区間もある。もう、車内に下がっている広告や、天井近くにびっしりと張りつけられた広告も読み飽きていた。
きっとジョシコーセーなら、ケータイで暇を潰すのね。
どのみち降りる駅は終点だから、乗り過ごす心配もない……あたしは、目を閉じた。
あたしが降りたことのない駅で地下鉄がとまり、ひとりだけ、乗客が増えた。あたしは目を閉じていたけれど、その少し重い足音と、どさりと座席に腰掛ける音、深い溜息は耳に入っていた。
ああ、男だ、それも中年で、残業がやっと終わったサラリーマン。
暇だったから、あたしは自分にクイズを出していたのかもしれない。
ドア付近の座席に座った男は、40半ば。ちょっと疲れた顔をして、肩をとんとん叩いてる。
あたしは目を見張った。
本人はきっとただの肩こりだと思っているんだろうけど――肩が重くて痛いのは、長いデスクワークのせいじゃないのよ。
ねえ、ちょっと、あなた、
肩にたくさん『鬼』が乗ってるわ。
「ねえ」
「……」
「ちょっと」
「んっ?」
「……」
「何か?」
「……肩、重くない?」
「重いね」
「肩、こる方でしょ」
「ああ。困ってる」
「それだけ背負ってればね」
「うん?」
「肩こりで済んでるのが不思議なくらいよ」
「ああ、何かい、その……」
「……」
「何か、わたしにとり憑いてると?」
それは、青い視線。
あたしの目がサファイアなら、その男の目はアクアマリン。
ふたりとも、髪は黒で、顔立ちは紛れもない日本人。
あたしは見るに見かねて――呆れていたとも言えるかもしれないけど――男に声をかけていた。満腹でなければ、そしてその男が初対面でなければ、『鬼』たちを肩から引き剥がしてやっていたかもしれない。
男はいかにも大人しそうで、喋り方も柔らかかった。けれど――『鬼』を背負うっていうことは、『業』を背負っているのと同じこと。『鬼』にとり憑かれているということは、それなりの罪を負っているはず。
「人でも殺した?」
あたしはぬけぬけと本音を言った。
そう、知っているのよ。人でも殺さなければ、こんなたくさんの『鬼』に気に入られたりはしない。
『あたし』が、何となく惹かれたりもしないのよ。
その首筋にがぶりと噛みついて、脈打つ頚動脈をしゃぶりたくなるのも、きっと、この男が余程の殺人鬼だからなの。
……男は、ふわっと微笑んで、答えをはぐらかそうとしていた。
でも、それは逆効果。普通の人間なら、そこで「とんでもない」と言うはずよ――
きいっ、
地下鉄がレールを走る音にかき消されそうなくらい小さな鳴き声がした。
車両の連結部分から、手のひらくらいの大きさの『鬼』が来て――慌しく首を傾げて、男の肩を見た。
この鬼も惹かれているんだわ。まずいわね。
そう思った瞬間に、『鬼』は走った。ゴキブリ並みの素早さだった。こいつらの取り柄と言えば、このすばしっこさくらいのもの。新手の『鬼』は男の肩に飛び乗った。
「う」
男が呻いて、肩に手をやった。
きっと、さすがにぴりっとした痛みが走ったはず。だってもう、『鬼』たちは我慢できないみたい。
「あなた――」
喰われるわよ。
物凄い衝撃が走った。列車が揺れて、軋みながら停車した。あたしと男の青い視線が、自然と車両の天井に移る。
ばきばきと音を立てて、天井が引き剥がされていく。薄汚れた床に滴り落ちて、もっとひどく汚すのは――きっと涎。
男の目が、落ちる涎を追っていた。
「さすがに見えてるようね?」
「……他に乗客がいたら、大変だな」
でも、何て余裕なのかしら。
天井から、爪と顔が覗いているのに。肩の『鬼』たちが、妖気を吸ってこの世に姿を現し始めているというのに。
「きみが悲鳴を上げて逃げ出さなくて助かった。手伝ってくれるね?」
「何を?」
「かれを殺すのを」
ふわっ、と男は笑った。
……面白いひと。
ぱぁん、
照明が落ちて、辺りは漆黒の闇。ここが地下鉄ではなかったら、もう少し明るくて、暴れやすかったのに。
『かれ』の赤い赤い瞳だけが光っているように見えた。けれど、そう見えたのは一瞬。すぐに、牙とあぎとと涎が見えた。『鬼』かもしれないし、違うかもしれない。はっきり言えるのは、『かれ』が妖で、お腹を空かせていて、とりあえず動いているものなら何でも食べてやるっていう気満々だということ。
「アトラス編集部とか、草間君のところの仕事帰りは――」
闇の中で、男が溜息をついている。
「どうも、こういう相手がおまけについてくる」
「来るわよ」
無駄口なんか叩かないでくれる?
「了解したよ」
あ。
また、笑ったわ。きっと。
「伏せてくれ」
ヂャッ、
ガド、(ぴぃん、)
ガドガドガドガドガドガドガド(ぴぃんピぃんぴぃんぴぃんぴぃんぴぃん)、
ガッ、ドガドガドガドガドガ(ぴぃん、ぴぃんピぃんぴぃんぴぃんぴぃん)、
ヂャッ、ガシッ、ジャコッ、
ガッ、ガドドドドドドドドド(ぴぃん、ぴぃんびぃんぴぃんピぃんぴぃん!)!
ちかちかと瞬きながら、照明がついた。
『かれ』が血みどろになって牙を剥いていた。けれど、『かれ』に命というものがあるとしたら――まだ、生きている。
「残酷なやり方ね」
わざと急所を外しているとしか思えない。あたしは溜息をついて――
手を伸ばし――
『かれ』の首をへし折った。
というより、もぎ取った。ぶちぶちと筋が切れるこの感触が、少し好きだから。
「残酷なやり方だな」
首を捨てて、あたしは振り向いた。
男は相変わらず微笑んでいて、コートのポケットに両手を突っ込み、散乱する薬莢の中心に立っていた。
「う、」
不意にその笑みが消えた。男は顔を歪めて膝をついた。あまりに大きな妖の気を吸っていた『鬼』たちが、今ではすっかり本当の牙と爪を持っていた。暗闇の中で妖を嬲った男の業に、もう我慢が出来なくなったらしい。男の首筋と背中と腕に、『鬼』たちが牙と爪を立てている。その痛みと傷はもう、現実のもの。
血がしぶいて――
あたしは舌なめずり。
「い、痛たたたたッ」
ぶん、と首を振って1匹振り払う。でも、1匹振り払ったところで何になるの? あなたには、もう何十匹と憑いてるのよ。
男は、死が近づいていることなんて、さっぱり自覚していないような言い方だった。あたしに助けを求めようともしなかった。
……面白いひと。
あたしはまた、爪を伸ばし、牙を伸ばして、髪を振り乱しながら突進した。満腹だったから、『鬼』たちを狩る理由なんてないはずだった。
ただ、あの目が……。
アクアマリンの目が、気になっただけ。
近づいてくる死を見つめているだけの目。あたしと同じ目。この世に何の未練もなくて、何もかもに価値を見出していないの。けれどそこで諦めようとはしていない、いつかは何かが判るだろうって、必死になって探している目でもある――
あたしと、同じ目。
その目を助けるためだけに、あたしは爪と炎をふるった。ちょっと力みすぎて、男の腕や頬や肩に、爪と炎が食いこんだ。男はそのたび、「痛ッ!」と叫ぶ。『鬼』たちは――「痛ッ!」で済んではいなかった。
首筋に咬みついて頑張っている最後の1匹を叩き落したとき、男がバランスを崩して、前のめりに倒れた。前にはあたしがいた。どさりとあたしに倒れこんできた男からは、硝煙の匂いがして――かすかに、消毒液の匂いもした。
かすり傷がついた首筋を見て、あたしはこっそりと舌なめずりをしていた。
「ああ、すまない」
男はゆっくり体勢を立て直した。あたしの舌なめずりと視線には、気がついてなかったみたい。
「……ああ、ほんとにすまない」
それから、身体を起こすのに手を置いたのが、あたしの胸だったことに気がついたようで――ちょっと赤くなりながら、彼は手を離した。
「失礼ね」
ばりっ、
あたしは男の腕を引っ掻いた。
破れたコートの袖から落ちたのは――
“Sh!”
男は人差し指を唇に当てて、目を細める。
「そう言えば、名乗っていなかったね」
「ええ」
「名前を聞いても?」
「構わないわ」
ちょうど地下鉄が止まったのは、駅の近く。例の男は、ここが降りる駅だったらしい。運のいいひと。けれど、あたしは……これから4区間も歩くのかと思うと、うんざりした。
この分じゃこれからたくさん人が駆けつけてくる。地下鉄の運行も始発までに間に合うかどうか。地下鉄の中に何が現れて、何をしたのか――きっとそれは、IO2とかいう組織が上手い具合に世間から隠すのだろう。男の周りに散らばっていた薬莢も、きっと一緒に消される。
あたしはレールの上を歩き出した。
「どこまで行くんだね?」
あの男の声に、あたしは立ち止まった。
「終点まで」
「そんなところを歩いたら、危ないじゃないか」
「何を今更言ってるのよ……」
今度は、あたしが笑う番。ただし、浮かぶのは苦笑。
「地下鉄なんかどうせ明日まで走らないし、あたしが危ない目に遭うなんて、そうそう起こることでもないでしょ? 見たじゃない、あたしの『格好』」
男は、そうだった、と言いたげに苦笑を返してきた。
「でも――」
アクアマリンの目をあたしから一旦そらして、男は言う。
「わたしの家は、この駅から歩いて3分だ」
そう、そらしたのは一瞬。
青い視線が、交錯する。
<了>
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