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<東京怪談ノベル(シングル)>


回想録

――猫が鳴いている――

楽しかったですか?

嬉しかったですか?

ここに来て良かったですか?

不満はありませんでしたか?


セレスティはふっと意識を持ち上げた。
手に持っていた本がいつの間にか床に落ち、眠っていたことに気付く。
聞こえたと思った猫の声は先日預かりうけた猫のそれとはあまりに程遠い、濁声の野良猫のようだった。
恐らく、近くの空き地でケンカでもしているのだろう。
「安眠妨害ですね。先日預かった猫は間逆だったのに」
誰にともなく一人呟き、開け放たれた窓から吹き込む風を受けて賑やかにページを捲る本を拾った。
視力の弱い自分の為に編集された点字の本は普通のそれよりはるかに分厚く、一見何かのファイルのような見目で。
あの猫は、開かれた本の上も飛び回っていたようだったけれど、点字なんぞ、さぞかし奇妙な感触だったのではないだろうか。
…そんなことを気にしていたら素足で道を歩くなど出来やしないだろうな。
キィ、と車椅子を運び、本棚の下方、一番分厚いものばかり場並べられているそこから、一冊取り出した。
結構な重さのそれを一息吐いて抱えなおすと、執務机まで戻る。
一番穏やかで自身の体に障り無い光が差し込むその場所で、さっき読んでいたものを端に退けて、持って来た本を捲る。
細い指は点字をゆっくり、行ったり来たり、辿った。

分類: 脊椎動物哺乳類食肉目 ネコ科 ネコ属 イエネコ類
学名:イエネコ Felis Catus(フェリス・カートゥス)
祖先と言われているのはアラビア地方のリビア猫…

なんとまあ難しい表記だこと。
セレスティは、ほんの少しそのページの点字に触れると、直ぐに分厚い百科事典を閉じた。
可愛らしい鳴き声や柔らかい毛並みに見合うような、もっと温かみのある書き方はないのかと思う。
飼ってみるのも悪くないかもしれない。
先日あの猫と一日を過ごした時は楽しかった。
そりゃあ、大事な書類が危険な目に合ったり、朝から飛びつかれたり、色々とマイッタこともあったのだけど。
でもあの柔らかい体に触れていると、自然に笑みがこぼれるし、普段なら殆ど呟きもしない鼻歌まで出てしまう。
猫にこちらの「笑む」という動作が分かるかどうかは知らない。鼻歌なんて猫にとっては邪魔くさく耳障りなだけかもしれない。
全くもって飼う側の勝手な考えだと思う。
茶を飲んでいる時、勘違いの可能性はあれども言葉が通じているような気がした。
その後は全く通じなかったようだが。
もしかしたら必死に何かを訴えていたのかもしれないけど、それだって勝手な憶測に過ぎない。
よくもまあ、たった一日預かっただけでここまで情がうつるものだ、とセレスティは溜息交じりに微かに笑った。
薄暗い天井を見上げて、思いを馳せる。
積み上げられている本の上を、あの猫はどんな気分で飛び回っていたのだろうか。
遥か下から呼びかけるこちらの声を、どんな風に聞いていたのか。

楽しかったですか?

嬉しかったですか?

ここに来て良かったですか?

不満はありませんでしたか?

たとえこの場に相手がいても、答えが返ることのない質問を、セレスティは心の中で呟く。
耳の奥に残る、軽い足音と、別れ際最後の、どこか悲痛さまで含めた鳴き声。
もし、飼うとしたらどんな種類が良いだろうか。
アメリカンショートヘア、シャム、チンチラに三毛猫。
多種多様な種類の中から、一匹だけ、自分が気に入るような、その猫を選ぶとしたら?
名前はどうしようか?
再び百科事典のページを捲る。
もう少し詳しく、猫の種類などが書かれているページを読むと、犬よりその数は少ないらしい。
選択範囲が少し狭まった、とセレスティは指を滑らせた。
「毛の生えていない、スフィンクスという猫…」
なるほど面白い種類もあるものだと、思う。
冬は大変そうだなとか、怪我には気をつけないと、とか。
今度はそばのパソコンからネットに繋いで、猫の飼い方などを検索してみる。
専用のキャリーケースがいる。
キャットフードと、猫用のお菓子。
予防接種と体調管理。
更に猫の習慣や躾方法。
猫は犬と違い、朝から外に出て、一日自分の縄張りを見回る習性があるのだとか。
そういえば、あの猫は預かっている間一日中部屋の中にいたけれど、縄張りの管理は良かったのだろうか。
調べてみて色々分かる猫のこと。
セレスティは時々、感嘆の声を漏らしたりしながら、「飼い主日記」なるコンテンツを見ていた。

"今日は朝からライに起こされてしまいました。
頬を爪で引っかかれて痛かった〜〜(T_T)"

そんな日記を見て思わず顔が綻ぶ。
あの猫が起こしてくれた時は、一気に飛びつかれたっけ。その後、顔の前に行儀良く座って、頬を叩いて起こしてくれたのだ。
――あれは可愛かったな。
何か不思議なことでもあったのか、それとも偶然か、首を傾げる動作がとても印象深かった。
「しかし…中には凄い名前をつける飼い主もいるんですね…」
この日記の"ライ"はまだ良い。権三郎とか、エリザベスとか、一体如何様な猫なのだろうか。
あの猫の名前は一般的な中でも更に一般的だったけれど、とセレスティは「我が家の猫、ストラビンスキーII世は…」という書き込みを見ながら思った。
もし自分だったらどんな名前をつけるだろうか。先ほど考えた議題を再び繰り返す。


それから暫くネットを彷徨ったところで、セレスティは、パソコンを切った。
元読んでいた本を再び手に持つ。
机に置いた百科事典を片付けて、薄いカーテンから差し込む窓の外を見た。
優しい光を、あの猫が膝で寝ていたときのように思う。
攻撃的でない柔らかい鳴き声が、強い光に慣れぬ自分への慈しみのような気がして、気分が良かった。
飼ってみるのも悪くない。猫に拘ることも無いだろう。犬でも良い。ハムスターとかうさぎとか、フェレットなどの小動物でも良いかもしれない。
でも、自分が長期の外仕事に出てしまったら?連れて行くわけにもいいかないから、屋敷においていくことになるだろう。使いの者が面倒を見てはくれるだろうが、それはきっと言い付かったから世話をするのであって、決して愛着があるから世話をするのではないだろう。
少し知恵があるだけで、猫のように素足で地面を歩かず、猫のように去った後も相手を幸せな気分にさせることも少ない、自分たちの勝手で飼うわけにはいかない。
良い食べ物を用意して温かな寝床を提供したからといって相手が喜ぶとも限らない。
外でけたたましく鳴く野良猫も、それはそれで幸せなのだろう。
自分の傍らに常に寄り添う、というのも良いのかもしれないが――。
偶然か無意識の故意か、あの日読んでいた本に栞のようにして挟まれていた"それ″。
薫り高いバラでもなく、清純を思わせるユリでもない、一日だけの恋人に贈った一輪の、猫じゃらし。
セレスティはわざと声に出して言った。



「楽しかったですか?

嬉しかったですか?

ここに来て良かったですか?

不満はありませんでしたか?」



――猫が鳴いている――