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■郷愁■
「す、すみません……セレスティ様が」
「何ですか廊下など走ったりして……」
執事はメイドの少女に言った。
顔を真っ赤にして走ってきた彼女に苦笑しつつたしなめる。何かちょっとした悪戯や新しいメイドが吃驚するような事をセレスティ様がしたのだろう。
執事はそのぐらいにしか考えていなかった。
「いないんですよぅ!」
「え?」
「これ見てください」
メイドは真っ白な便箋を見せた。
薄い色で財閥のロゴが描かれているセレスティが公用として使っている便箋だ。
執事は眉を顰めて読み始める。
『スタッフ達へ
ちょっと音楽を聞きに行ってきます。
深夜のセキュリティーモードに換わるまでの時間には帰ってきますので、心配しないように。
セレスティ・カーニンガム 』
執事は読み終わると深い溜息をついた。
「セレスティ様、それは無理でございます」
執事はぼんやりと手紙を見つめた。
すると遠くでカサカサといったような何かが触れ合う音が聞こえる。
執事は辺りを見回して音の出所を探ろうとした。
いつもと換わらない室内には何も以上は見当たらない。暖炉の上で平たい硝子の花器に薔薇を生けてある以外は、これといって何の変化も無かった。
暖炉近くでガリッという音がしたかと思うと、小さな笑い声が聞こえてくる。
『すみませんねぇ……ちょっとクラシックが聞きたかったものですから』
「「セレスティ様!?」」
二人は声が何処から聞こえるのか探そうと辺りを見回す。
クスッという声が聞こえてきた。
『はい、そうですよ』
「そんなあっさり言わないでください」
執事は息を吐ききっていくような、力ない声で言う。
どうやら、暖炉のどこかに小さなスピーカーが仕込まれているらしかった。探せば集音マイクも見つかるだろう。
米神に指を当てて執事は難しい顔をした。
「わかりました……ですが、いつの間にマイクを仕込んだんですか?」
『出かける直前ですよ』
「「え?」」
二人はポカンと口を開けてしまった。
困惑の表情が隠せないのか、メイドは眉を寄せている。
『そんなに口を開いたりして』
「み、見えてるんですかッ」
さも可笑しそうにセレスティは笑った。その声にメイドは思わず零す。
カメラも仕掛けてあるらしい。
主人の他愛ない悪戯に内心驚きつつも、居場所がわかって執事は安堵の溜息を吐く。
オペラなら支度に時間が時間がかかり、どう隠そうとも自分が知ることが出来るはず。
今日、催されているオーケストラでさえ、数は限りなく少ないのだ。
時間的に考えれば、都内のコンサートであることは間違いない。迎えに行かせるスタッフの人選を考えながら、執事は卓上の電話を取る。
執事はコホンと咳払いをし、
「セレスティ様、いってらっしゃいませ」
と、にこやかに笑って言った。
杞憂に及ばず。
それが執事の答えだった。
『いってきますね?』
暖炉近くで声が聞こえる。
揺れながら薔薇が花器にその身を一片散らした。
「普通にいってきますといって出て行ったほうが良かったですかねぇ」
セレスティは半ばぼんやりとしながら呟いた。
暖炉に置かれた平たい硝子の花器に張った水鏡が、実はマイクとスピーカーの正体だった。申し訳無さそうに眉を下げてセレスティは苦笑いする。
リンカーンの窓からは、首都高から見える街の光が車内に零れている。
春の光を帯びた夕焼けの向こうに高層ビルの陰が見えた。大きなビルの姿も光に彩られれば、繁栄の姿と瞳に映る。
車内に視線を戻せば、若い運転手が苦笑しているのがルームミラーに映って見えていた。
『あまりお爺さんをからかっちゃいけませんよ』
防弾ガラスの向こうからの科白が、マイクを通して聞こえる。最後の方は笑いで声が震えていた。
「貴方も共犯ですよ?」
『違いない……でも、セレスティ様と共犯者になるなら本望ですよ』
「おや、口説き文句ですか」
ふむと唸ってセレスティは言った。
その真剣な主人の姿にウケた運転手は、ガラスの向こうでゲラゲラ笑ってハンドルを叩いている。
『あんまし色気の無い話ですがね』
そう言って、運転手は親指を立てて笑った。
柔らかな笑みを浮かべ、セレスティは若い運転手が先日手に入れてきてくれたコンサートチケットとパンフレットを眺める。
パンフレットには、イギリスでは有名な指揮者の名前と本日の演目が書かれていた。
【クラシックの夕べ 「新世界より」 〜ドヴォルザーク没後100年〜】…疲れているのではないかと思ったらしい運転手の選んだコンサートチケットを眩しそうに見つめる。
会場はアンティーク調のインテリアが美しい、音響設備の整った場所らしい。
これから過ごす時間に思いを馳せて、セレスティは瞳を閉じた。
仕事振りもさることながら、主人思いの優しいスタッフに囲まれて、セレスティはこの上ない幸福感に包まれている。
毎日、毎夜。陰日向無く働くスタッフの笑顔を思い出し、セレスティはうっすらと笑みを浮かべる。
郷愁さえ感じないそんな日々は、スタッフから毎日贈られる最高の贈り物だった。
■END■
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