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<東京怪談ノベル(シングル)>


ブラッド・レッド・カオス



 女がもたらした濃密な口付けは、粉っぽい香水の匂いと『怠惰』を幼い彼女の鼻腔に残していった。
 手首や腕の付け根、膝の裏が鈍く焼くような痛みを訴えている。それは彼女が四肢を動かせば鈍く軋み、殊更に彼女の身体の自由を奪うことになった。口付けを介して与えられたのが、阿片の粉末をアルコールに溶かしたものであると彼女が知るのは数刻後のことになるだろう。
 肌の上に、毛穴から噴き出した冷や汗がぷつぷつと珠になって浮き上がり始める。それをじっと見下ろしていた軍服姿の男が、表情を変えないままでちらりと自分の薄いくちびるを舐めた。
 本能的な、恐怖。
 少女のあどけない柳眉が浅い畏怖に歪み、男が手指に携えている細い針をただじっと凝視する。もう良い頃合いだろうか、男が女にそう呟く。つるりと、女が少女のまろみある顎を撫で、その額に慈愛に満ちたキスをした。

 藍銀華。
 後に東京で生き、小さなマンションで自分を殺そうとした少年を匿うボディガード、である。

 男は銀華の義父である。
 纏った軍服の前はいくつかのボタンが外されていて、その雄々しい胸元にじっとりと滲む汗を露にさせていた。薄暗い室内で、それは炎の揺らめきにゆらゆらと照らされては絶望的な照り返しで銀華の視界端にちらついている。
 もう良いな。男は女に再度問う。慈愛の女は弥勒の笑みで男に頷き返し、あなたはもっとずぅっと綺麗になってお父様の側にいられるのよ、と銀華の耳許に囁いた。轡(くつわ)を嵌められた銀華が、小鼻を膨らませながら身をよじる。細く編み込んだ鈍色の鎖がその膝裏に食い込んで、ギシギシと軋んでは淡い朱色を柔な白肌に滲ませるのだった。
 よじった半身のままで、女が銀華のその肩にそっと手のひらを添えた。手首には、細くよった絹の綱。既に痛みは麻痺してしまっていたので、銀華はその腕がピシリと小さく軋むまで思うさま身をひねった。腕の付け根に妙な違和感。それでも痛みはない。
 その分、だが触覚だけは敏感に研ぎ澄まされていた。脇腹にほたりと滴った男――義父の汗、二の腕に掛けられる生暖かい呼気、そして差し向けられた針の向く方向までをありありと銀華は肌に感じ取り、増長する恐怖と本能的な憎悪に背すじを震わせる。視界が揺らいだのは、涙のせいだったのか、効き始めたアルコールと阿片に拠るものだったのか彼女にはわからない。きゅっと堅く目を閉じた時、ほほにぽろぽろと珠のような涙がこぼれた。
 あなた今からとても綺麗になるのに、泣くのは変よ、女は銀華の額や頬に何度も官能的なキスを与えながらそんな事を囁いていた。甘く鼻に掛かるその声を銀華は嫌いだった、同世代の他の女の子よりもずっと丸みが少なく華奢な自分は女である資格などないと無言のうちに宣告されているような気持ちになったのだ、たわわな乳房を持つ柔肌のこの女が父の情婦である事を銀華は知っている夜な夜な女がどれだけ媚びた声で義父を誘いどれだけ淫猥な音をたてながら義父の肌を貪るのかを知っている背中の骨の尖った部分につぷりと細く鋭い激痛が走った事で背中を緩慢に跳ね上がらせる、嗚呼。
 ほら素敵ね、もっと噴いてあげてウォッカでもトニックでも何でも良い。そんな甘い声を耳にした後で銀華は二の腕に生温かな霧が降るのを感じた。口腔に含んだアルコールを義父が彼女の腕に噴いたのだ。なめらかな肌はそれに拠ってさぁっと鮮やかな朱に染まる。針に刺された肩甲骨から肩に掛けておぞましい程に鈍い痛みが走っていた。その部分が、自分の身体の一部ではないように感じられる。噴き出しが齎す一陣の熱が過ぎ去った後で、再び肩へと襲う鋭い痛み、熱、熱、熱。

 阿片は、それでも銀華に齎される堪え難い鋭痛を少しばかり麻痺させていたのだろう。肩から二の腕へ痛みが移行している頃には、差し込みの度訪れる痛みには緩慢に瞼を震わせるのみとなっていた。絹の絡みついた手足の節は紅く擦りきれて見るも無残な色を晒していたし、鎖の巻き付けられた部位にいたっては皮の下で赤白い肉が露出していた。が、すでにそれらの痛みは銀華を苛まない。ただ澱のように熱が纏わりついているだけで、ありとした圧迫を感じ始めるようになると決まって女の口付けに口端から得体のしれない液体を流し込まれた。阿片とアルコールの混じった唾液をである。脇腹に滴る義父の汗は腹を伝い、時折はそれに義父の唾液すらが滴ることとなっていた。没頭するあまり、だらしなく開いた口からそれは糸を引いて彼女の半身へと零された。呼気は荒く、義父はただ銀華の二の腕からさらに先までにひたすら針を差し込む事に専念する。女は銀華の口腔に阿片を注ぎ込んでは淫猥に自分のくちびるを舐め、燭台に火を灯し替え、時折義父の背中に官能的な舌を這わせる。恐怖に恐れ戦いていた銀華の視界の端では仄暗い室内でそんな異様な光景が繰り広げられており、その背中から手首の方までは燃え盛るような熱が宿っていた。
 義父は彼女の肘を刺す位から、時折感極まったようにその肌へ武者振りつく様になっていた。飛べ。荒い呼気が殊更に乱れるその瞬間、銀華の心臓は締めつけられたような圧迫を感じる。飛んで見せておくれ、銀華。ねっとりとした舌がまず皮膚を覆う熱を奪い、その触感が次いで彼女の腕に齎される。お前に翼の呪いを、決して逃れられない血の祝福を。その頃になると義父は再び身を起こし、新しい咎の針を彼女の左手に打ち込んでいくのだ。
 悪夢。
 そんな行為は、女が燭台の火を灯し直した回数を鑑みればまる二昼夜続いた事になっただろうか。

 今や鎖と絹綱に拘束され、身も心も弛緩しきった銀華の左腕を、義父がねっとりと嬲るような舌先を這わせている。
 下から上へ、節から柔肌へ。
 それが齎される度、涙と魘熱にすっかり潤んでしまった視界が白くなる。次いで端から真っ赤に散って、銀華の視覚を胡乱にさせていく。
 美しい、と歪んだ愛情。
 自分の物だ、といびつな執着。
 幼い銀華の視界は霧散に阻まれて、汗に張り付いた長い髪を嗅ぐ義父の表情を捉えることはできなかった。ただ、熱くねっとりと肌に付着する粘膜に殊更な恐怖を掻き立てられるだけだ。
 身体に纏う倦怠感と怠惰がすっかり抜けてしまうまでにはそれからゆうに五日の時間を要し、その時には彼女の肩から手首に掛けて鮮やかすぎるほどに真っ赤な翼を模した入れ墨がこびりつく事となっていた。丁寧に1枚1枚を描かれた羽根がいびつに絡み合い、彼女が左手を動かせばそれは今まさに彼女の半身が飛翔せんと思わせるほどに艶やかに肌を隆起させた。
 それは、大空を舞う自由の代わりに齎された鎖の足枷だ。
 執着を拒んだ者が執着の為に刻みつけた所有の証だ。
 それは愛などではない、そう呼ぶならば自分の生きる意味は永遠に損なわれる。
 自身に刻まれた永遠の枷に枷をして、銀華は今日も一人、夜の街に佇む。