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<東京怪談ノベル(シングル)>


アトロポス


「露子」
「露子……」
「露子!」
「――露子」
 母の命日、10回目。
 露子の父は露子の夫。
 雨草露子とは、ふたりなのだ。だが、10年目の今となっては、露子はその家にひとりしかいない。目を開けたばかりの仔犬のように、何もかもに怯えて震える目を持った、少年だけが――いまの露子なのだ。
 少年が母の命を食い尽くして生まれたそのときから、少年の父は狂気に憑かれていったのだろう。そうでなければ、死んだ妻の名を子に授けるはずもない。その名がカオルかアキラのようなものであれば、それでもまだましだったのだ。だがあいにくと、少年の名は露子になってしまった。
 少年はその名をさほど忌むこともなく、空気のように受け入れていた。だから、父が呼んでいれば返事をする。父がたとえあらぬ方向に呼びかけていたとしても、露子は応えた。
「……どうか、した? お父さん――」
 応えると、父の瞳に哀しみが宿る。狂気すら凌駕する激しい感情が、彼を揺さぶっていた。その哀しみを露子も感じ取ることが出来た。自分ではなく母を呼んでいるのかもしれないが、母ではなく自分を呼んでいるかもしれない。既に、父がどちらに呼びかけているのかはわからなくなっていたから――露子は素直に、返事をしていた。
 そんな、10年目までの日々。

 母の命日、11回目。
「そうだ、お前さえ生まれてこなければ!」
「露子!」「露子!」「露子!」「露子!」
 人形と自分と父が壊されていく。
 痛みは痛みをかき消して、露子の身体から苦痛は消えていこうとしていた。毎日何気なく続けている呼吸と同じなのだ。殴られ、蹴られ、叩きつけられても、露子は次第に悲鳴を上げなくなり、逆にはっきりとした憐れみの感情を顔に浮かべて、父の顔をまっすぐに見返すようになっていた。誰と話すときも、上目遣いでおどおどと言葉を紡ぐのに――父を見る視線はまっすぐだった。父はきっと、それにも気がつかずにいたのだ。
「お前さえ、お前さえ、お前さえ――」
 ひとしきり殴ったあと、決まって父は涙を流した。露子はそんな父を決まって見下ろし、ときには揃って涙を流した。
「……そうだよね、僕さえいなかったら……」
 けれども、もう過ぎたこと。自分はここに居るから、母はもういない。
 ――僕は、お母さんの代わりになれない。
 ――僕じゃ、お父さんを笑わせてあげられない。
 ――僕じゃ、誰も幸せにしてあげられないんだ。
「お母さんでなくちゃ、だめなんだ……」
 母が残したものは、露子の顔に残る面影、古ぼけた小振りな日本人形だけ。
 人形は、ちっとも母には似ていなかった。母の顔を一度も見たことはなかったが、写真くらいならちらりと見ている。驚くほどに、人形とは似ていなかった。人形も、母の代わりにはなれないのだ。
「……お母さん、何で死んじゃったんだよ……!」
 涙と血が止まらない、そんな11年目。


 名前と顔をいつまでも覚えている。
 12年目の春に出会った。
 きっと、母と同じくらいの年の頃。いつでも、眩しい窓を背にしたその女性は、黒い長い髪を後ろでひとつに束ねていて、真っ白い白衣を着ていた。
「あら、雨草くん……また来たのね。休んでいくの?」
 露子は耳まで顔を赤くして、不器用に笑いながら俯いた。
 露子は中学生になっていたが――小学生と言っても差し障りない外見をしていた。身体の痣とすり傷は消えず、給食の他にまともな食事も摂っていないために、青褪め、ひょろりとしていた。
「3時間目までなら、休んでもいいわ。それ以上の安静が必要なら、早退しなくっちゃ」
「……そう……たい……」
「家に帰ったほうが、ゆっくり休めるでしょう?」
「……家……家は……家は、いやだな……」
 唇の端の真新しいかさぶたを剥がしながら、露子は途切れ途切れに呟いた。かさぶたを剥がす手に、温かな手が触れた。
「いじっちゃだめよ。いつまでも治らないわ」
「……あ……」
 ぴくりと身体を強張らせて、露子はまたしても赤くなった。
「……ごめんなさい……」

 彼女とは、入学式のときに出会ったのだ。
 痣とすり傷を隠す術も持たなかった露子を保健室に引っ張っていき、彼女は丁寧に傷の手当てをしたのだった。それまで、彼は自分で不器用な手当てをしていた。いちど折ってしまって(折られてしまって)わずかに曲がった小指を、可愛そうにと撫でもしたのだ。切れ長の目に涙を浮かべていたのだった。
 露子、と名前を呼び続ける、父の涙とは違った涙だった。

 出会ってから1ヶ月経った頃、抱きついてみた。
 日向に干した布団の匂いがした。
 抱きついてから1ヶ月経った後、その黒髪を結ってみた。
 シャンプーの香りがした。
 露子の姿は、いつでも保健室の中にあった。学校関係者の間にも話が持ち上がっていたことに、露子は気づいていなかった。女は――保険医は、別段咎められたわけではないのだ。ただ、教師たちから尋ねられたにすぎない。
 雨草露子は、どんな子かね?
 ――どうして、私に聞くの。
 彼女が抱き始めた疑問と焦燥に、露子はやはり、気づいていなかった。


 12年目の秋が、別れだったのだ。
 かさかさと落ち葉が駆けてゆくその日が、いつだって繰り返されてきた単なる秋の日が、露子と女の別れの日だった。
「……雨草くん」
「……露子……露子って、呼んでほしいな……」
「雨草くん、4時間目が始まるわ」
「……」
「保健室で休んでいいのは、長くて2時間って決められているの。もう、知っているでしょう?」
「……次……保体なんだ。……また、ボールぶつけられるし……」
「授業に出られないくらい怪我が痛いなら、早退届を出してあげるわ。それでいいわね?」
「……なにを、怖がってるの……?」
 ぴくり、と早退届に判を押した女の肩が上がった。
 露子は何も知らなかっただけなのだ。知らずに求めているだけだった。まだ12年目のその命と感情に、それが罪だと誰が言及出来るだろう。
 だがそのとき、女は、確かに露子を追い詰めた。
「……私はね、雨草くん。貴方のお母さんには、なれないの」

 ――僕は、お母さんの代わりになれない。
 ――僕じゃ、お父さんを笑わせてあげられない。
 ――僕は、僕自身を助けられない。
 ――僕じゃ、誰も幸せにしてあげられないんだ。
「お母さんでなくちゃ、だめなんだ……」

 ――……お母さん!

 鋏があったのだ。
 保険医の前にあるペン立ては、露子が美術の授業で作ったものだった。喜んで受け取ってくれて、鋏とペンとものさしを立ててくれた。使ってくれた。今も使ってくれていた。ペン立てが倒れ、露子の蒼白い細い手が、鋏を逆手に掴んでいた。
 裏切られると、思ったのだ。
 鋏の鋭い切っ先は、女の平凡な顔に向けられていた。平凡であることが、露子にとっては大切な因子だった。彼の母親は、どこにでもいる優しい母なのだから。
 裏切られると、思ったのだ――。
 母でさえ、父と自分を置いて死ぬことで、おぞましい裏切りを果たしたのだから。

 しかし、鋏は何も殺めはしなかった。

「どうして、こんなことをするの――」
「愛して欲しいから」

 露子は鋏を取り落とし、そこで泣いた。涙を流した。愛など望んだところで手には入らないのだ。何故なら、露子は愛など知らないのだから。父は亡き妻の名を呼び、露子を呪い、憎むばかり。露子は、望むばかりで何も出来ない、子供だった。求める程度には、大人であったけれど。
 そして、いつも一緒に泣いてくれる人形はそこになかった。人形までもが、裏切ったのだ。
「え、う、う、う、え、う――」

 ―――――――――――――――――――――!!

 露子の喉から弾け飛ぶ、声なき声が――
 鋏を断ち切った。
 女との日々を断ち切った。
 母との日々が、そこで断ち切られてしまった。

 ああ、
 そんな、
 12年目のことだった。




<了>