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<東京怪談ノベル(シングル)>


それは風と水の供宴


 紳士は、快く文庫本にサインをしてくれた。
「ひょっとすると、日本でサインを求められたのは初めてかもしれませんね」
 特に苦笑するでもなく、紳士はペンを内ポケットに戻す。
「俺はサインもらうっていうことが初めてかも」
 満面の笑みで文庫本『誘う狂笛』を受け取るのは、山岡風太だった。
 月刊アトラス編集部は、いつでも人でごった返している。怪奇現象の究明に勤しむ者、締切に終われる者、毎日のように更新される調査依頼を漁る者に、ただ何となくコーヒーを飲んでいる者。そして、どこか他の国からやってきた作家や研究家。大学や研究室に行けばいいものを、わざわざ海外から来た客たちは、何故なのか白王社ビルに身を寄せるのだ。風太がその日見つけた外国人作家も、そんな奇異な人間のひとりだった。
 傍らに佇む黒尽くめの少女にちらりと目を向けてから、風太は作家を見上げた。
「幻夢卿のシリーズはもう書かないんですか?」
「書いてはいますよ。……進んでいないだけです」
「じゃ、いつか出るんですね」
「あまり期待はせずにお待ち下さい」
 紳士は苦笑いをしてみせた。彼が微笑むのを、風太は初めて見た。特に愛想が無いというわけでもないのだが、作家は大概難しい顔をしていて、表情を変えることがあまりないのだ。以前に会ったときもそうだった。サインをもらえた上に笑顔を見ることができたとは――風太はこの日急にアルバイトとして呼びつけてきた記者に感謝した。
 しかし、この作家の筆が進まないのも頷ける話だ。彼はいつでもアトラスにいて、何か奇妙な事件を追っている。彼がいつ執筆しているのか、まったく見当もつかなかった。
「ただ、なんか……」
「はい?」
「最近、ガラッと作風が変わったような気がするんですが」
「あ」
 ぎくりとしたように紳士は言葉を詰まらせて、目を伏せた。少女と風太が揃ってきょとんとした表情で、作家の顔色を伺う。
 それは事実だった。一昨年に執筆された『彼方の夢』が、風太が初めて触れたこの作家の作品だった。幻夢卿を舞台とした幻想小説だった。それが――最近になって読んだ『誘う狂笛』とは、まったくがらりと雰囲気が変わっているのだ。
 まるで別の人間が書いているのではないかと思えるほどに、変わっていた。
「――まあ……少し、自分の作品に飽きてきていたものですから……」
「あ、心機一転?」
「そういうことですね」
「すみません、色々失礼なこと言って。ありがとうございました。前会ったときはバタバタしてて、あれでしたけど――また会えて嬉しいです」
「これから何度でもお会いできるでしょう。ヤマオカさんの力が必要になるときも必ずあります。そのときは、協力していただけますか?」
「あ、ええ。もちろん」
「よろしくお願いします」
 紳士は静かな笑みを浮かべて、傍らに立っていた少女に目配せをし、人々が忙しなく行き交う編集部を出ていった。
 何となくこの日この場にやってきた風太にも、もうここに居なければならない理由はない。作者のサインが入った文庫本の表紙を見て、彼は呟いた。
「俺は、今の雰囲気の方が好きかな……」
 ふと脳裏に蘇ったのは、顔色が悪い少女の姿。
 笑って風太に会釈をしていたが、その顔には陰があった。
 好き、という言葉が引き金になって、思い出しただけだろうか? 少女は少し、風太の好みの顔だった。
 ――あのコ、誰だろ。娘さん……っていうのは有り得ないよな。顔、日本人だったし。
「名前くらい、聞いとけばよかった」
 そう言えば、挨拶すらしていないのではないだろうか。ぽりぽりと耳の後ろを掻いて、風太は本を鞄にしまった。
 けれども、あの紳士が言った通り、これから何度でも会えるかもしれない。また会えたら、挨拶をして、名前を訊いて、歳を訊く。それでいい。明日世界が終わるわけではないのだから。
 しかしながら、その機会は、風太が本を鞄にしまった直後に訪れた。
 ポクポクという長靴特有の足音がして、風太は顔を上げる。頭の先からつま先、指の先まで真っ黒な少女が、編集室に戻ってきたのだ。
「忘れちゃった……」
 風太と目が合った彼女は、照れ隠しにそう呟いたようで、すぐに苦笑していた顔を風太からそらした。ポクポクと駆ける少女は、行き交う人々を慣れた身のこなしでかわしていき、ひとつのデスクの前で立ち止まった。
 そして、「あれ?」といった風に首を傾げたのだ。
 知らず、風太は少女のそばに向かっていた。人にぶつかっては、すいませんと謝りながら。


「……どうかした?」
 声をかけると、少女は振り向いた。
「知り合いの人に見せるつもりだったレポート……レ――じゃなくて、先生がここに置き忘れちゃって。先生、結構うっかりしてるから」
 大人びた顔立ちだが、声は若いものだった。16、7だろうか。風太は少女のことを何も知らない。少女の方も、山岡風太という青年をまったく知らないだろう。
「先生?」
「うん。あたし、助手のつもりなんです」
 そう言って、少女ははにかんだ。顔色は悪かったが、笑顔にはそれなりの明るさがある。
「何のレポート?」
「内容とか、難しくてよくわからないんです。それに……英語だったし」
「そっか」
「あ。タイトルに"Hypnos"って入ってました」
「ヒュプノス? 眠りの神だ」
 ぽつりと、どこで覚えたのか忘れてしまった知識をこぼしてから、風太は少女の顔を見返した。あの作家は『眠り』というものが好きなのだろうか、そうも思った。
「探そう。大事なものなんでしょ?」
「ほんとに? ……ありがとうございます!」
 少女は嬉しそうに微笑んで、風太は自分が赤面していることに気がついた。慌てて彼は少女から顔を背けて、レポートを探すために俯いた。それは、『探すふり』と言ってもよかった。ただ彼にとって、真っ黒な中の彼女の笑みが、どうしようもなく眩しかったのだ。


 喧騒を避け、舞い散る原稿と笑い声と怒声と泣き声を見やり、眠りの神の尻尾を捕まえたのは風太だった。誰かが何かをどうにかしたのだ。レポートは向かいのデスクの下に落ちていた。そのデスクの主が見事に踏んでしまっていて、表紙には大きな足跡がつき、インクが滲んでタイトルは不明瞭なものになってしまっていた。だが、何とか"Hypnos"という綴りを確認することはできた。
「これ?」
「これです!」
 安堵の溜息を漏らしながら、少女は風太の手からレポートを受け取った。少女は、英文と難解な図式で埋め尽くされた内容をぱらぱらと流し読みし、笑みを大きくした。
「間違いないです。先生の字」
「……いまどき、手書きのレポートなんだね」
「先生は小説の原稿も手書きですよ。信じられないくらい機械音痴なの。ビデオの予約も出来ないんだもの」
「助手が必要なわけだ」
「役に立ててるかどうかは、わからないけど――あたし、先生や皆さんのそばにいたいんです。こんな、レポートをひとりで探すことも出来ないあたしでも、ビデオの予約くらいは出来るもの」
 かさこそと自分を蔑んだあとに、少女はふと顔を上げた。
 その顔には、それまでの翳りがなくなっていた。
「ありがとうございました、山岡さん」
「いいんだよ。……って、俺の名前、知ってるんだ?」
「先生が前に話してたから。さっきも呼んでましたし。……それじゃ、あたし、行きますね」
 ぺこりと頭を下げ、少女は踏まれたレポートを大事そうに抱えると、ポクポクと駆けていった。
 風太はその背を追う立場になってから、あッと気がついたのだ。
 せっかくの機会だったというのに、名前を訊くのを、忘れていた。
「まあ――いいか」
 向こうは、自分を知っている。
 この場限りの知り合いではなく、風太も、この場限りの親切心を見せたわけではないのだ。世界が急に滅びたりしない限り、必ずまた会えるはずなのだ。

 山岡風太が白王社ビルに向かう理由が出来て、彼は週に2度は編集部に足を運ぶようになった。




<了>