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Happy Valentine's Day!
【桜木愛華】
顔を合わせる機会もなければ、心はもっと楽だった。
だが、同じクラスに、同じ学校にいる限り、その姿を見ないことは難しい。
街での一件以来、桜木愛華は、ずっと、藤宮蓮を避けていた。
廊下で会えば、視線をそらす。教室で見かければ、あらぬ方を向いて、やり過ごす。
決して、彼が、嫌いなわけではない。嫌いなはずがない。
ただ、どうしようもなく、怖かった。
これまで、大切に少しずつ積み上げてきたものが、胸の奥に閉じ込めた想いに気付かれた瞬間、粉々に壊れてしまうような気がする。上手に誤魔化し笑いを浮かべていられる自信が、どうしても持てなかった。下手な態度を取れば、逆に蓮には何もかも知られてしまうだろう。
彼は妙に勘が鋭い。人よりも傷ついた経験が多いから、わずかな心の機微にも敏感なのだ。
「愛華は、蓮君が、好きだよ」
その一言を、押しつける気はない。
付き合って、とも、言えない。
それは、きっと、蓮の重荷になるだろう。愛華は、彼にとって、からかい甲斐のある玩具なのだ。
それでいい、とも、思う。多くを望むつもりはない。他愛ない言葉を交わすだけの関係が藤宮蓮の理想なら、馴染みの面白いクラスメートを、ただ、演じ続けてみせるだけだ。
「でも、このままじゃ、きっと、蓮くんも気分悪いよね」
露骨に逃げ回る級友に、良い思いを抱くはずがない。
「うん。逃げちゃ駄目なんだ」
まずは、ちゃんと顔を合わせよう。
目を見て話そう。
あの手酷い一言に対し、謝罪をするのだ。ごめんねと言えれば、八方ふさがりの状況にも、きっと風の通り道が穿たれる。
勇気は、ひとかけらで、十分。
「カード……」
ずっと、白紙のまま放置してあったカードを、手に取る。
何を書こう?
ペンを持った指先が、どうしようもないほどに、震えた。
何も、浮かばない。言いたいこと、伝えたいことは、たくさん、それこそ星の数ほども、あるはずなのに。
書けない。
「どうしよう……」
ついに白紙のまま、バレンタインデーの当日を迎えた。
【藤宮蓮】
バレンタインデーの当日には、うちに来てねと、複数の女からの誘いを受けている。
たまにはサービス精神でも見せて、前日から泊まりに行ってやれば、彼女たちはそれだけで満足するのだろう。
以前なら、退屈しのぎの意味も込めて、きっと、足を運んでいた。
もしかすると、お土産の一つでも買って行ってやったかも知れない。
一緒に街を出歩いたり。部屋でのんびりとくつろいだり。時間の潰し方は、それこそ無限にあったはずなのだ。
彼女の顔が、こうも目の前にチラチラとしなければ、何かが変わることもなかった。
「答えは……」
わかっている。
気付いている。
認めたくないだけだ。
認めるのが、ただ、怖いだけ。
永遠なんて、存在しない。
誰かを好きになっても、その先には裏切りしか待っていない。彼の両親がそうだった。互いが、互いを裏切ったように。蓮という、確かに想い合った証があったにもかかわらず、彼らはいとも容易にそれを捨てたのだ。
今更、信じられるはずが、なかった。
「なんで、俺、こんな所にいるんだ……?」
自嘲する。バレンタインデーの前日に、よりにもよって、自宅にいる自分に。
父親は、いなかった。
いたらまたも大喧嘩になって、かえって気が紛れたかも知れないのに。考える時間だけは、嫌と言うほど与えられていた。
「汚い、か……」
その通りだ。
今は、触れるのも気が引ける。抱き締めたあの瞬間、確かに、愛華は、彼の腕の中で震えていた。泣き出しそうな顔をして、逃げた。追いかけることが出来なかったのは…………それをする資格が、自分には、無いような気がしたから。
「俺は……」
この汚れは、いつか、消えるものなのだろうか?
【Happy Valentine's Day!】
バレンタインデーの当日には、愛華の予想に違わず、蓮の周りに女の子の人集りが出来ていた。
成績は優秀だがサボリも多く、万事において反抗的な藤宮蓮は、実は、学校では、ちょっとした有名人でもあった。
単純に顔が良いのももちろん人気の一つだが、加えて、蓮は、その驚異的な運動能力の高さが強みである。生意気さを差し引いたとしても、助っ人に欲しいという部活は、掃いて捨てるほどもあるのだ。
特に、全国大会で三位まで上り詰めたとある高校バスケ部を、練習試合とはいえ、彼ひとりで完膚無きまでに叩きのめしたのは、皆の記憶に新しい。
あの格好良い人は誰?と、噂が噂を呼ぶのに、ものの数日も要しなかった。
普段は遠巻きに見ているばかりの遠慮がちな後輩までも、今日だけは、人が変わったように強引に、蓮の教室に押しかける。
クッキーやらチョコレートやらで、瞬く間に机の中と上が埋まった。荷物の多さに耐えきれず、昼休みには、手提げ袋を買いに購買に走ったほどだ。
嫉妬を通り越して、既に羨望しかない同級生の男どもを尻目に、だが、蓮は、さして嬉しそうな顔もしていない。
本当に欲しいものは、まだ、手に入れていなかった。手に入ることはないと知ってはいても、心の何処かで、それを期待してしまっている自分に、ほとほと呆れざるを得ない。
「馬鹿みたいだ……」
やがて、放課後が、来た。
もらいもののチョコレートを、戦利品のない哀れな級友たちに配って歩き、身軽になると、蓮は、逃げるように教室を出た。
桜木愛華の姿は…………既に無い。
「そんなに、俺とは、話したくないってことなのかよ」
知らず、足取りが乱暴になる。
面白くなかった。ひどくイライラした。他の楽しいことを考えようと思っても、彼女の顔が脳裏から離れない。謝ろうと思っていたのだ。いきなり抱き締めたりして、悪かった、と。
だが、こうも露骨に逃げ回られたのでは、何とも対処の仕様がない。
「くそっ……!」
間もなく暮れ行く空を、振り仰ぐ。
背中に声がかかったのは、次の瞬間のことだった。
「蓮くん……。あ、あの……良かったら、一緒に帰らない?」
桜木愛華が、校門の陰に隠れるようにして、立っていた。
帰宅途中の長い道のりを、無言で歩いた。
無言だった。いつものように、会話は弾まない。二人とも、何か深刻な顔をして考え込んでいる。西日がかなり傾いた人気のない公園に踏み込んだことにも、しばらく気付かないほどだった。
「あの…………蓮くん」
話しかける切っ掛けが、掴めない。愛華の弱々しい声は、何度も、何度も、静寂の中に吸い込まれて消えた。
「蓮くん!」
前を歩いている背中が、ふと、止まる。
面倒くさそうに振り向いた。それが、本気だったか、演技だったかは、当の本人の藤宮蓮にもわからなかった。
「何だよ」
「あの……あのね」
「だから何」
「えっと……」
愛華が、困惑したように視線を彷徨わせる。相変わらず、どこか余所余所しい態度に、いい加減、蓮の我慢も限界に達した。
桜木愛華の心が理解できない。嫌いなら、なぜ声を掛けた? 嫌いなら、なぜ付いて来る?
「この間の…………お詫び!」
愛華が、鞄の中から、綺麗にラッピングされた小箱を取り出した。今日という日に渡される物と言えば、一つしかないのに、なぜか、蓮は、それをバレンタインデーとは全く結びつけなかった。
え?と、間抜けにぽかんと口を開ける。愛華の方も色々な意味で必死になっており、その様子には気付かなかったのが、幸いだった。
「ヘンな意味じゃないから! この間から、迷惑かけっぱなしだったから、それで……その」
掻き集めた勇気も、ここで限界。
上出来だよね、と、愛華は心の中で呟く。真っ赤になった顔を見られる前に、身を翻した。薄闇が、ありがたい。
「ま、待てよ!」
この間は、見事に逃げられた。
だが、今は、逃がすつもりはない。
蓮が、愛華をの腕を掴む。咄嗟に力の加減を忘れた。あまりに強く引っ張ったため、少女の体がバランスを失って傾く。無様に尻餅をついて倒れる前に、素早く伸びてきた少年の腕が、それを支えた。
「れ、蓮くん!?」
「逃げるなよ。まだ、礼を言ってない」
「お、お詫びだから。お礼なんて……」
「受け取るまで離さない」
「えぇ!?」
「冗談」
くっ、と、少年が笑う。からかわれたことを瞬時に悟って、愛華は、怒りのためか、羞恥のためか、自分でもわからないままに、いよいよ顔色を赤くした。
「蓮くんの意地悪!」
「お前は臆病すぎ」
「愛華は臆病じゃないもん!」
「嘘こけ。人一倍、恐がりのくせに」
「そ、そんなこと、なんで蓮くんが知っているのー!!」
気まずさも何処へやら。
小さな誤解が解ければ、もともと気の合う者同士、仲直りは早かった。売り言葉に買い言葉。笑いながら軽口を叩き合う。思わず涙が出そうになって、愛華は慌てて目元を拭った。隙ありとでも言いたげに、無防備な少女の白い頬に、少年が、素早くキスを落とした。
「…………っ!!!」
愛華が、声にならない悲鳴を上げる。
「なに情けない悲鳴あげてんだよ。罰として、桜木愛華は、もう一回、俺とデートすること」
「え!?」
「約束したからな。忘れるなよ?」
この強引さこそが、藤宮蓮。
振り回されることほぼ確実な、桜木愛華。
前途多難な二人にも…………とりあえず、Happy Valentine's Day!
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