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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


それはあたかも夕立のように

 東京某所。
 鮮やかな橙色の光が差し込む書斎で、セレスティ・カーニンガムは先日とあるオークションで手に入れたばかりの稀覯本(きこうぼん)を読みふけっていた。大判の書物なので机に置いたまま、少し身を寄せて時折ページを繰る。書斎には、ただ静かな紙の音と、彼のさやかな息遣いだけがおりていた。
 ――――否。そこに、本当に僅かではあるが感情の乱れのようなものが混ざる。
 表情も、どことなく浮かない様子だ。憂えている、というよりは思案顔。いかにも何かを迷っているような風体だった。
 そしてそれは、部下であるモーリス・ラジアルが息抜きに、と紅茶を運んできた時にも続いていた。
(……何か、あったんだろうか)
 趣味のいい細工がなされた、繊細な硝子のティーカップを扱いながら、モーリスは軽く首を傾げる。主の変化にはひどく目ざとい彼である。
 セレスティの方でもそんな心配げな部下の視線に気づいたらしく、読んでいる本から目をあげて二人の目が出会った時に、「少し、困ったことがありまして」と切り出した。
「実は、先日オークションで手に入れた稀覯本――これもそうですが――その内の一つをぜひとも譲って欲しい、との申し出がありまして」
「申し出? それはまた、どなたからです」
 怪訝そうな様子でそう尋ね返すモーリスに、セレスティは僅かに柳眉(りゅうび)をしかめた。
「さて。私がその本を手に入れたことを知っているということは恐らく先日のオークションの出席者でしょうが……。何分、ああいった場所に出入りしていることからして、あまり身分を明かしたくないようでした。……ただ、よほどこの本が必要と見えて、随分と熱心な申し出でした」
「……ならば、どうしてオークションで競り落とさなかったのでしょうね」
 かすかな皮肉を込めて呟いたモーリスに苦笑しながら、セレスティは手元の本を見つめた。
「オークションに出ていた方であれば、この本の保存状態も知っているはず。問題は、この本が新品状態になっていることを先方がどう思うか、ということなんですよ」
「なるほど……」
 主のどことなく浮かない顔の原因を知ったモーリスは頷き、しばし宙に視線を這わせる。そうしながらも、セレスティに紅茶を淹れる手は休めず、淀みなく作業を続けていた。
「では、もう一度直す前の状態に戻しましょうか?」
 透明なティーカップに琥珀(こはく)色の紅茶を注いで差し出しながら、モーリスはそう伺う。
 調和を司るハルモニアマイスターであるモーリスにすれば、本をもう一度修復前の姿に戻すのは易いことだ。それで問題は解消するだろう。
 しかし、セレスティはいいえ、と首を横に振った。
「それではあまりにこの本が可哀想というものでしょう。修復して、元の読める形にするならばまだしも、不完全な状態に戻すというのは」
 元の姿を取り戻した後の本の気持ちを思えば、修繕前の状態に戻すなどできようはずもない。
 なんとか修繕が上手くいったのです、と通すしかないでしょうね、と呟きながらも、彼の顔からは悩みの色が抜け切らない。
(…………この状態の本を見て、興味を失ってくれれば一番良いのですが……)
 そもそも、蒐集家(しゅうしゅうか)というものが稀覯本に求めるものは基本的に希少性であり、積み重ねられた年代でもある。と、いうことはこの新しくなった本を見て興味を失くすという可能性もある。
 ――――そうは思うものの、どことなく今回の申し出がそんな種類のものではないような予感が胸を突いた。
 一方、モーリスの方でも一度は霧散していた考えが再燃する。
 そもそもあの夜、主があれだけの稀覯本を持ち帰った時点で何か面倒が起こるのでは、という気がしていた。ただ、古ぼけた希少本が欲しいだけの輩(やから)であるならば、本の状態を見たとたんに興味を失うだろうが……、もしそうでなかったら?
 面倒ごとに、ならなければいいが。
「……その客人はいつ来られます?」
「まもなく、おいでになるでしょう。……大丈夫、キミにも立ち会っていただきますよ」
 そう言って深い息をつくセレスティに、モーリスはにこり、と笑ってみせた。
「当然です――――それが私の役目ですから」

§
 招かれざる客人の来訪は優雅なベルの音によって知らされた。
 所々に金をあしらった来客用の電話が静かだった書斎に音を生み出し、それを聞きながら、セレスティはゆっくりと受話器を取り上げる。
 面会のお約束をしているという方がおいでになっています、との使用人の知らせに、「応接間にお通ししてください」と告げてモーリスをちらり、と見やる。
 ――時は、やってきたようだった。
 広い廊下に車輪の軋む音と、硬質な革靴の足音が交互に響く。
 手馴れた様子で車椅子を操り、応接間に向かう主の後ろに付き従いながら、モーリスは金の前髪の下にひそむ深い緑の双眸を細めていた。
(しかし……妙な話だね)
 目の前で艶やかな銀白色の髪が揺れている。……そう。妙な話だ。
 そもそも、オークションに出席していた者がなぜ今更品物を譲ってくれ、などと申し立ててくるのかが不可解だった。それは、明らかにルールを無視した申し出だ。
 後から考えてものが惜しくなったのか。それともオークションでセレスティが提示した金額があまりに高値で、その場ではどうしようもできなかったのか。
 ――――或いは、なりふりかまわずその本を欲しがるだけの理由をもっているのか。
 モーリスの胸の中に先日浮かび上がった懸念が甦った。
 一体、今回のことはどういったことなのか。
 そんなことを考えながら歩いていたもので、応接間までの道行きはひどく短いものに思えた。
 きっちりと閉じられた硬質な両開きの取っ手を握り、「失礼します」と一声かけてから扉を開く。
 腰を優雅に折ってまずセレスティを中に誘(いざな)い、ソファに鎮座した客人の姿を確かめてから静かに扉を閉めた。

「…………お待たせいたしました。このような状態で失礼します」
 柔和な笑みを浮かべながら、セレスティはまず客人にそう声をかけた。
 待たせている間にメイドが出したのだろう。招かれざる客である男の前にはあたたかそうな湯気の立った紅茶が置かれており、控えめな茶葉の香りが応接間の中を心地よく満たしていた。
男はその向こうで慌てるでもなく、「いいえ」と静かに微笑む。
 ――――年の頃は五十をいくらか越した頃であろうか。背はそう高くもなく、初老といってもいいほどの年齢ではある。手にはセレスティが持つものよりも一回りは小さな杖を持っていた。身に着けているものはひどくシンプルで小奇麗だったが、その一つ一つがそれなりに高価なものであろうことが見てとれる。趣味は、悪くない。
 年を重ねてすっかり白くなった申し訳程度の髪は乱れるでもなく整えられており、その顔にはこれから深くなっていくだろう、皺の片鱗が刻まれていた。
 …………彼をオークションで見かけた覚えはない。だが、そういった場所に出かける際にはあまり他人の顔をぶしつけに見るものでもないので、況(いわん)や彼がいたとしても覚えていないこともあるだろう、と思った。
 男は意外としっかりとしたテノールで話す。
「こちらこそ、ひどくぶしつけな頼みでもってこうして押しかけてしまった。真に申し訳なく思っております。御容赦ください」
 そういって、軽く頭を下げた。セレスティはいいえ、と答えながら、やはり嫌な空気は持っていない人物だ、と確認する。
 彼からの申し出は一度目は素朴な和紙の便箋(びんせん)に書かれた手紙であり、二度目は電話でのことだったが、どちらからしても嫌な雰囲気は受けなかった。
 蒐集家ともなるとその性格には一癖も二癖もあるものは存外多く、それだけにオークションで手に入れたものを譲ってくれ、などというぶしつけな申し出はセレスティ自身が受けるまでもなく断ってしまうのが常であった。……だが、この老人の場合は話が少々違う。
 初めに舞いこんだ手紙に記されていた文章は、礼を尽くして書かれたものであったし、電話で応対に出たこの男自身の話し方も常識や礼節を知らない者の受け答えではなかった。それだからこそ、セレスティ自身が実際に会って交渉を行うとまで話は進んだのである。
「本を、譲り受けたい、とのお話でしたが」
 単刀直入にそう切り出しながら、セレスティは相手の顔をそれとなく伺う。
 老人はそれに対して過剰に反応するでもなく、「失礼であることは存じております」と呟いた。
「実のところ、私は貴方が出られた会には私用の為に、出ることができなかったのです。ですから、その本を買うこともできなかった。貴方が本を競り落とされたことを知ったのは恥ずかしながら会が終わった後、出席していた友人から聞いたからでしてな。それを今更のこのこと馳せ参じまして、真に恥さらしとは、思っておりますよ」
「……出席しては、おられなかったのですね」
 なるほど、本を後から欲しがる理由としてはそちらの方が納得はいく。頷きながら、セレスティは背後のモーリスに「本を」と命じた。
「そちらがご所望の本は、こちらになります」
 後ろに控えていたモーリスが机の上に大判の本を据えるのを見ながら、何食わぬ顔でセレスティは告げる。
「…………なんと」
 真新しい状態になった本を目にした時、老人は初めて感情のゆれが入り混じったような声をあげて、目を見開いた。
 眉一つ動かさないセレスティと目の前に置かれた本の状態を交互に眺めながら、「これは一体どうしたことかね」と呟く。咎(とが)めいている、というよりは純粋な驚きからのようだった。
「……そのままでは本として読みにくいページなどがありましたので、修繕に出したのですよ。ことのほかうまくいきましてね。綺麗なものでしょう?」
 だから、コレクターとしてこれが欲しいのでしたらいささか、申し訳ないことをしてしまいました、と呟く。
 よくもそんな台詞をしれっと言えるものだ、と感心しながら、背後のモーリスもいつもの笑顔を何の苦もなく顔に貼り付けている。だが、老人がまだ興奮が冷めやらぬ様子で呟いた言葉は、二人にとってはひどく意外なものであった。
「いいえ……この本は、元々わたしのものだったのです。それが、まさかこんな状態にまで修復されるとは」
 呻くように漏らされた言葉に、さしものセレスティも目を見開く。
「貴方の……本、ですか」
「ええ、そうです。わたしの本でした」
 だが、これは、と皺の刻まれた震える手で本に触れる老人をみながら、信じられないような口調で尋ねた。
「貴方が、出展なさった、というわけではなさそうですね」
「……ええ。手違い、とでも申しましょうか。お恥ずかしながら出展はわたしがしたことではない。わたしの留守中に息子がしたことなのですよ」
 老人の弁からすると、彼の息子という人物が出展する本を間違えたのだ、ということだった。そういわれてみれば、とセレスティは考え込む。
 あのオークションの日。この本は出展の前情報には含まれていなかった。その場で掘り出し物と銘打って出展されたものであったのだ。――――なるほど、その日突然紛れ込んだのであれば掘り出し物にもなるだろう。
 ほとんど数瞬の間に、聡い総帥は今回の事態のからくりを理解したのだった。
(箱を開けてみれば、なんのことはない、ということか)
 どことなく苦笑して背後の部下を覗き見れば、モーリスとしても予想外の展開であったらしく拍子の抜けた顔をしていた。
 ――――杞憂だ。あれやこれやと考えていたことが、馬鹿らしい。事実は小説よりも奇なり、とはまさに、胸に染みる言葉だ。
「……そういうことであれば、どうぞこの本はお持ち帰りください。勝手に修繕してしまい、真に申し訳ないのですが」
 淀みなくそう話す、年若く見える青年を見て、本を見て。しかし、老人は「いいや」とゆっくり首を振る。
 その目と口調にはもはや先ほどの興奮や動揺は見えない。
「この本は……もう貴方のものになっていたらしい。貴方が持っているのが良いだろう」
 老人の柔らかな声に無言で眉を顰(しか)めた彼に、老人は朗らかに笑う。
「わたしは、本が好きなんです。本当に、好きなんですよ。だから、とても嬉しいんです。わたし以上にこの本のことを思ってくれる、そんな人にこの本がめぐり合えたことがね。わたしの手元に置いておくよりも、数倍嬉しいんですよ……」
 そう言うと、老人は杖をついてそっと立ち上がった。
「わたしではここまで綺麗な姿には、してやれなかった。……ありがとう」
 そして何度も「ありがとう」と呟いて、やがて、その小さな背をかがめながらゆっくりと屋敷を去っていった。
 止める言葉も、名前を尋ねる言葉にも柔和な笑みで答えるのみで、老人は夕立のようなあっけなさで帰っていったのだった。

§
「……結局なんだったんでしょうね」
 いささかあきれたような様子で机の本に置き去りにされた本を眺めて呟くモーリスに、セレスティはそっと微笑んで本を撫でた。
「…………あの方も、本の気持ちがわかる方だったんでしょう」
 きっと、彼にもわかったのだ。
 この本が、元の読んでもらえる姿に戻ってどれほどに嬉しかったのか、ということを。

END


*ライターより*
いつもありがとうございます。ねこあです。
この度は思ったよりお時間をいただいてしまい、申し訳ありませんでした。
色々と調べた結果このような結末にさせていただきましたが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
稀覯本については、わたしも本が好きですので聞きかじったところや、まだ理解に乏しいところもありますが……。
書かせていただき、とても勉強になりました。ありがとうございます^^
それでは、またお会いできることを願いまして。
ねこあ拝