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<東京怪談ノベル(シングル)>


歌姫

 気が遠くなるような、ムスクの香り。
 ベルベッドの手触り。
 そしてあの甘やかな、ピアノの調べ――。
 それは、とぎれとぎれに、夢の中に浮かび上がる、遠い遠い昔日のおもかげだ。
 時は、決してとどまることをしない。
 たとえそれが、どんなに美しいものであっても、流れ去って行ってしまう。それでも、その奔流の中で、ひとびとは生まれ、死んでゆくのだ。

  †

 急な雨から逃れて、入り込んだのは、裏路地のいかがわしい酒場だった。
 葉巻の匂いが、彼の敏感な嗅覚を刺激する。カウンターの端の席に身をあずけると、スツールがぎしりと軋んだ。ようやく人心地がついてきたのは、琥珀色のアルコールによって、冷たい雨に打たれた身体があたたまってきてからだった。
 ふいに、彼は、雨垂れのようなピアノの音を耳にした。
 それがいつから奏でられていなのかはわからない。このような場末の街には似合わぬグランドピアノが、店の奥には置かれ、雇われのピアノ弾きがその鍵盤を叩いていたのである。
 そして――
 彼女があらわれたのだ。
「…………」
 華奢な身体にはりつくような、黒いマーメイドドレス。酒場のうす暗い灯りをうけて、縫い込まれたスパンコールがきらりと光った。黒髪は高く結い上げられ、すこしきつめの顔立ちによく合った華やかさをそえている。
 女は、ピアノに寄り添うように立った。
 ピアノ弾きと目を合わせて、うなずく。それを合図に、流れるような旋律がひときわ高く奏でられ、客たちの話し声を、一瞬、遮った。
 店主の趣味だったのだろうか。
 どう考えても、ピアノや歌を聴かせるような店ではないのだ。客たちはただ安く、そこそこの酒が飲めればいいというような、赤ら顔のくたびれた男たちばかりだったのだから。
 だがそれでも……なんら音楽に詳しくなどない彼にさえ、女が、歌うことをなりわいとした、非常に巧みな歌い手であることがわかった。
 ほころんだ花から放たれる芳香のように、紅い唇がつむぐ異国の歌。
 彼は、自分でも驚くほど……いや、そんなことを考えるいとまもなく、グラスを口に運ぶことさえ忘れて、いつのまにかそれに聞き入っていた。
 ふと――
 女が、彼のほうへと目を遣った。
 ――翠だ。……翡翠の色の瞳。
 その刹那、決してたゆまぬはずの時の流れが止まったような、そんな錯覚があった。
 それが、和馬――いや、もしかすると、その頃は別の名であったかもしれぬ――と、その女との出会いだった。

 どの国、どの時代であっても、人は音楽を奏で、歌うことをしなかったことはない。
 それを身をもって知っている和馬自身は、しかし、音楽などというものとは、つねに遠いところを歩いてきた存在だった。
 それは、彼が人よりも獣に近いところにいることの証しであり、そんな彼にとって音楽とは、あるいは人の営みそのものであったのかもしれなかった。
「強情な女だな、おまえもッ!」
 怒気をはらんだ声がひびくと、客たちはおろか、バーテンまでもが、そっとうつむき加減に目をそらし、なにも聞かなかったことにしようと、いっそう自分たちのおしゃべりに没頭するふりをする。
「あいにくとそれだけが取り柄なのよね」
 まったく意に介さぬように、女はからからと笑った。しずくの形のピアスが揺れる。
「てめぇ、兄貴にこれ以上、恥をかかしたら……この街にいられなくなるぞ」
「おお、こわい」
 女は、両腕をつかまれるようにして、凄みをきかせた、一目で堅気のものでないと知れる男たちに挟まれていた。おろおろとした顔でピアノ弾きのやせた青年が、なりゆきを見守っているが、なすすべもない。
「あたしは唱うしか能のない女よ。カナリアみたいなものね。この街にだって、もっといい女がいるでしょうに」
 からかうように、女は言った。唇には笑みをうかべていたが、その目には強い光が宿っていた。その翠の瞳が、すこし離れて、女をじっと見つめている男を射抜く。
「……カナリアなら、鳥籠に飼われるのが道理だろうよ」
 低い声で、男は言った。頬に大きな傷跡のある男だった。
「どうかしら。カナリアに聞いてみたらどう?」
「てめえ、兄貴にその口のききかたはなんだッ」
「煩いわね!」
 鋭く、鞭をふるうかのように、女が声を荒げた。
「いいかげんどいてくれない? 歌を聴きにきたんじゃないのなら、帰って頂戴」
「この女……って、ああっ――」
 男が情けない声をあげた。
 うしろから近付いてきた男に、腕をねじりあげられたからだった。
「て、てめえ、何しやがる……!」
「俺ぁ――」
 和馬は言った。
「歌が聴きたいんでね」
「ち、ちくしょう」
「この野郎! 俺たちが誰だかわかってんだろうな」
「さあ知らないね」
 和馬の膝が鈍い音を立てて、男の腹にめりこんだ。
 もうひとりの男が気色ばんだが、そこへ、声が飛ぶ。
「もうよせ。今日は帰る」
「でも兄貴……」
 子分は不服そうだったが、男は有無を言わさぬ様子である。
「おい」
 それは女への呼び掛けだ。
「いくら待っても、死んだ人間は戻ってこないんだぜ」
 瞬間――
 それまではあくまでも悠然とかまえていた女の顔が、燃えるような表情に変じたのを、和馬は見た。
 男たちが悪態をつきながら店を出ていったあとも、その横顔はしばらく青ざめたままだった。
「なあ」
 和馬は、女に声をかける。
「唱ってくれよ。あんたの歌を聴きにきたんだ」
 歌姫は、微笑を浮かべた。冬の日差しのような寂寞とした笑みだった。

 それから――
 毎晩のように、カウンターのいちばん端の席で、独り、ウィスキーを嘗める和馬の姿が見られることになった。
 ときおり、例のちんぴらたちが姿をあらわしたが、和馬に気がつくと、苦々しい表情で出ていく。
 和馬は、女が、店に出入りする、この掃きだめのような街の男たちにひどく愛されていることを――いや、そんな言葉では生ぬるい、ほとんど崇拝されていることを知った。
 夜ごと、彼女はやせたピアノ弾きの音にあわせて、ときに軽快に、ときに切なく、ときに艶かしく、さまざまな歌を、唱って聴かせるのだった。
 歌はどれも、どんなに明るい曲調や歌詞のものであっても、どこかに郷愁を秘め、それが、男たちがそれぞれに抱える傷や哀しみにふれるらしかった。
 そしてときおり、彼女は唱い終えたあとにカウンターに身を寄せ、果実酒のカクテルを注文しながら、かたわらの和馬にそっと微笑みかけた。
 そんなとき、和馬は決まって、わざとそっけないような顔で横を向いた後、グラスを呷りながら口元に満足げな笑みを浮かべるのだった。そして、女は翠の瞳で、そんな彼の横顔を、面白そうに眺めていた。

 そんな夜が、いったいいくたび繰り返されただろうか。
 ちょうど、はじめて彼女を知ったときと同じ、雨の降る夜のことだった。
 足早に、人気のない夜道を急ぐ和馬の前に、男たちのシルエットがたちはだかる。かれらは手に手に、ナイフや棍棒を携えていた。
「いつかの借りを帰させてもらう」
「命知らずな野郎だ」
 十人近くの武器を持った男たちに、丸腰で囲まれていてさえ、和馬は動じた様子を見せなかった。そのことが、よりいっそう男たちを激昂させたようだったが、放たれた棍棒の第一撃を、彼が顔色一つかえずに腕で受け止めたとき、かれらは、決して和馬の自信が虚勢ではないことを知ったのである。
 数分後――
 雨と泥と、返り血にまみれた和馬が店の扉を押し開けると、ざわめきが一瞬途切れ、不穏な沈黙が彼を出迎えた。
「…………」
 舞台は空だった。
 いつも彼を出迎えてくれたピアノの音も聞こえない。
 客たちの誰ひとりとして、和馬と目を合わせようとはしなかった。
 大股に、彼はカウンターに歩み寄り、うつむいてグラスをみがいていたバーテンの胸ぐらを荒々しく掴む。
 落ちたグラスが割れる音が、響き渡った。
 ぼそぼそと、バーテンが口の中で呟いた言葉を聞くや、和馬が、人のものではありえない牙をむいて唸り声をあげるのを、客たちは見た。

  †

 時は、決してとどまることをしない。
 たとえそれが、どんなに美しいものであっても、流れ去って行ってしまう。
 そして終りの時は、いつだって突然にやってくるのだ。
 和馬は、そんなことはもうよく知っているはずだった。骨身にしみて、知っているはずだったのだ。

  †

 屋敷の中で、男は絶命していた。
 ひとときの油断が――あるいは、ついに夢にまで見たものを手に入れた喜びが、迂闊さをまねいたのか……すでに死者は語る言葉をもたぬ。ただ胸を血に染めて、頬に古傷のある男は倒れていた。
 そして、また……
「なあ――」
 和馬は呼び掛ける。
「唱って――くれよ……」
 いらえは、ない。
 天蓋の下のベッドによこたわった、女の胸にもまた、真紅の血の花が咲いている。
「あんたの歌が聴きたいんだ」
 奇妙な飾りのように、胸からはえたナイフ。
 血の気の失せたその顔は、しかし、不思議とおだやかで、その凶器の存在がなければ眠っているとしか見えない。
 だが、その唇が、新たな歌をつむぐことは、もうないのだ。
 くくく――、と渇いた笑い声。
 やせたピアノ弾きが、壁にもたれて力なく座り込んでいる。頬には幾筋もの涙の跡が残り、手は血まみれだった。
「ぼくも……その男も同じさ」
 呟くように、ピアノ弾きは言った。
「カナリアを、どうしても自分のものにしたくて仕方がなかった」
 女は、それでも、美しかった。
 ただそのまぶたが閉じられ、あの翠の瞳を見ることができないのが、残念だと、和馬は思う。
「あんただって、そうだろう……?」
 そうなのだろうか。
 確かに、その歌を、素晴らしいと思った。
 あの瞳を、美しいと思った。
 彼女と過ごす時を、いとしいと思った。
 だが――
 そう、時が決してとどまることがないのを、和馬は知っている。
 たとえそれが、どんなに美しいものであっても――いや、美しければ美しいほどはやく、流れ去って行ってしまう。
 気が遠くなるような、ムスクの香り。
 ベルベッドの手触り。
 そして甘やかな、ピアノの調べ。
 それは、とぎれとぎれに、夢の中に浮かび上がる、昔日のおもかげだ。
 眠るためにアルコールの力を借りようとするとき、雨音の記憶とともによみがえる、まぼろしのディーヴァの歌声。

 今は遠い、昔話である。


――FIN