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<東京怪談ノベル(シングル)>


繰り返すぬくもりの



 寒気に曇った窓硝子の内側、暖められた空気が穏やかに少女の肌を撫でている。
 清らかな少女一人を内包するに相応しいだけの広さを保った静穏な私室。その中で、高遠弓弦はベッドの端に腰掛けたまま、ひたすらに両の手指を動かし続けていた。
 普段はきれいに整理整頓されている部屋が、今はあちらこちらに様々な道具小物を鏤めて、この様子を弓弦の姉が目の当たりにでもしたら、一瞬息を呑むだろう。
 ベッドには、シックな色合いの毛色玉が大小転がり、太さの違う編み棒も数本適当に投げ遣られている。床のカーペット上には、淡く雪の結晶が透かし模様になっているラッピングペーパー、紺色の紙バッグ、くるくると巻かれたピンクとシルバーの細いリボン。鋏。セロハンテープ。室内灯に時折反射して見えるギフトシール。
 そして、窓際に寄せて置かれたデスクの上には。
 真白い箱に収められて、今やきれいにラッピングされるのを待っているだけの、フレークトリュフチョコレートとガトーショコラ。いずれも、弓弦手作りの品である。

 バレンタインデイを目前に控えた今宵、弓弦は大切な恋人に贈るための品々の最終的な仕上げにかかっていた。
 すでにバレンタインの主役とも言うべきチョコレートは出来上がっている。一口大に丸く形を整えたトリュフは、フレークを加えてさっくりと口あたり良く。ガトーショコラは最初ハート形に焼き上げようかと思いはしたが、さすがに何となく気羞ずかしくて止めた。ヘーゼルナッツを生地に混ぜ込んでみたのが幸いしたらしく、風味豊かな一品となった。
 チョコレートの他に贈るものは、恋人との出逢いを果たした頃から決めていた。
 手編みのマフラーと手袋。
 北風を受けて駈ける彼の、その手を、頸を、心をあたためる、柔らかな温度をあげたい。
 そう思っていた。
 私にしか贈れないもの。
 私にしか作り出せない温度。
 二人にしか分からないぬくもり。
 冬の冷たい空気の中で彼に手渡すのは、彼が受け取るのは、今の二人を繋ぐ穏やかな絆。
「……えっと……、ここの目を掬って、……こう引っ掛けて、と」
 編み途中だったマフラーの段を端まで仕上げ、弓弦は小さく息を吐いた。
 編み針を支える指先がほんの少し赤らみ、微かに痺れている。
 目標の長さまでは、あと十センチくらいだろうか。ここまでくると、編み上げてしまうのが少し淋しいような気もする。
 ブラックとブルーグレイのメリノウール糸を使って編む縦ストライプのマフラー。同じ色目で揃えた手袋はもう仕上がっていて、チョコレートの横で大人しくマフラーの完成を待っている。
「喜んでくれるといいのだけれど……」
 棒針からその身を垂らしているマフラーを眼前に翳し、弓弦は恋人の横顔を想った。
 健康的な張りのある肌。弓弦と同じ銀色の髪。紅い眸。
 懐かしさと新鮮さの混在する空気を纏うその表情。
 彼のバンダナの朱が、眸の色に滲んで同化してゆく――――。

『……ありがとう』

 不意に。
 声を聞いた気がして、弓弦はハッと眼を瞬かせた。
 ずっとずっと遠い記憶の彼方から響き来てなお色褪せぬ声音。
 耳に優しくて、大好きだった。
 波立った心を月夜の海に還すような、それは緩やかな導きの声。
 そう、これは前世の記憶。
 今この時に再会を得た恋人の、遙か昔の姿。
 胸を貫くような痛みと、髪ひとすじまで融けてしまいそうな悦びと、言い尽くせぬ思い出の向こうで微笑むあの人の姿。
「……いつも、喜んでくれたよね」
 呟いて、弓弦は眼許を静かな笑みで染めた。
 前世の恋人と、再び巡り逢い、もう一度恋をしています。
 そう言ったら、友達は笑うだろうか。
 それとも祝福してくれるだろうか。
 よかったね。
 ひとつ時に生きる命をさえ超えて、何よりも、誰よりも愛しい人をみつけられて。
 よかったね、弓弦。
「うん……」
 編みかけのマフラーを胸に抱き、弓弦はそのまま体を後ろへ倒した。
 ベッドが弓弦の背を受けとめ、長い銀の髪が毛布の上に流れた。
 ゆっくりと、瞼を下ろす。
 途端に弓弦を訪れた闇の裡に、朧な輪郭が揺れる。
 その輪郭は、嬉しそうな微笑みを湛え、弓弦に向かって手を伸ばす。
 そっと頭を撫で、深く抱きしめて、彼は弓弦からの贈りものへの感謝の言葉を口遊む。

 ……ありがとう。

 その一言の余韻に浸り乍ら、弓弦は眼を開いた。真上に、見慣れた天井。ここは自分の部屋。両腕に抱きしめているのは前世ではなく今この世界で弓弦を愛してくれる恋人への贈りもの。
「喜んでくれるよね、きっと……」
 そう言って、弓弦はベッドに肘を突いて身を起こし、マフラーをその場に置いてデスクに歩み寄った。
 チョコレートの箱の上に乗せたメッセージカードは、まだ白紙のまま。
 伝えたい想いばかり大きくて、いざとなると一体何を書いていいのか分からない。
「んー……、マフラーが編み上がるまでに、いいメッセージ思い浮かぶかしら」
 軽く握った左手を顎に添え、ふと眼をカーテンの隙間から窓外へ向けたその先に、冴えた月が在った。
「わあ……、きれい」
 弓弦は思わずカーテンを大きく引き開け、窓に鼻を付けんばかりに空を見上げた。
 夜空を切り取る白銀の月。
 そのすぐ隣に、あれは何という星なのか――――名も知らぬ小さな光が寄り添うように煌めいていた。冬空を彩るオリオン座のベテルギウスやリゲル、おおいぬ座のシリウスなどの華やかさから離れて、ただひそやかに月を慕う小さな星。
 ああ、そうだ、きっとあんな風に。
 あの頃も今も、私はあなたの隣に。
 あなたと一緒に。
 ただそれだけのために。
 永遠に。
「……semper et fideliter」
 その時弓弦の唇からこぼれ出たのは、かつて教会のシスターが教えてくれたラテン語だった。挙式した新郎新婦が、去り際に、教会の扉脇に置かれたメッセージボードに書き残していった言葉だと言っていた。

 永遠に、そして、誠実に。

 弓弦はデスクに戻ると、メッセージカードにその言葉を丁寧に綴った。
 ラテン語などカードに記して渡しても、きっと彼は頸を捻るだけだろう。もちろん、その気になって調べればすぐに分かってしまうことだけれど。意味を理解した時、彼はどんな顔をするだろうか。
「……ん、マフラーもあと少し、頑張らなくちゃ」
 弓弦は微笑み乍ら、再びベッドに腰掛け、マフラーと編み針を手に取った。

 夜空には、月と星。
 部屋の中には、恋しい気持ちを優しく編み続ける少女。

 今宵、時を繋ぎ、心を繋ぎ、繰り返す、ぬくもりの、記憶。


[繰り返すぬくもりの/了]