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ゆきのうた
一月一二日。
歳時記からいえば、べつになんという事のない日だ。
だが、シュライン・エマにとっては、多少は意味がある。
誕生日だから。
とはいえ、二〇代も半分を過ぎると、誕生日などたいして嬉しくもない。
むしろこなくていいと思ってしまうものである。
しかし、今年からは少し違う。
彼女自身が一歳ずつ年をふるのと同様に、もうひとつのものも年輪を増やしてゆくことになる。
「‥‥うーん」
区役所からの帰り。
左手を太陽にかざしてみる。
リングフィンガーにきらりと輝く白銀の指輪。
永遠の愛を誓った証。
ついさっき、彼女はある男性のものになった。
怪奇探偵という異名を持つ男。
出逢ってから、もう幾年の時が流れただろう。
不器用を絵に描いてコンピューターグラフィックスで動かしたようなふたりである。
恋の進展は、カタツムリの徒競走より遅かった。
それでも、やっとひとつの結末を迎えた。
「‥‥シュライン・クサマかぁ」
感慨深げに呟く。
長年親しんだ姓は、捨てたわけではない。
仕事では相変わらずエマ姓のままだ。こだわりがあったわけではなく、いろいろと不便になってしまうから。
興信所の名刺を刷り直すのだって金がかかるし、コンピューターのデータを書き換えるのだって手間なのである。
貧乏くさいというなかれ。
「銭金に振り回される人生はいやだけど‥‥」
かといって無駄遣いをしてことにはならない。草間興信所の会計を預かる身としては、無原則な出費は抑えなくてはならないのだ。
このあたり、さすがは大蔵大臣の異名を奉られる女性である。
依頼ごとに入る報酬から必要経費を算出し、調査スタッフに分配をおこない、かつ、自分を含めた家族三人の生活費を捻出する。
「けっこうたいへんなのよ」
明後日の方向に念を押す彼女だった。
ところで、どうしてシュラインが一人で歩いているかというと、新婚そうそう草間と喧嘩したから。
ではない。残念ながら。
大親友ともいうべき人物のところに挨拶に行くためだ。
というのも、この人に彼女は結婚保証人になってもらっており、義理を欠くわけにはいかないのだ。
ちなみに草間の方も同様の目的で警視庁に赴いている。
結婚には、保証人がふたり必要なのだ。
保証人といってもたいして条件があるわけではない。ようするに成人であるなら誰でも良い。
双方の親とか、恩師とか、上司とか、親友とか。
そのあたりの人が務めるのが普通である。
草間夫妻の場合は最後の例だ。
「‥‥なんか照れる‥‥」
うろうろ。
昭和初期とおぼしき建築様式の建物のまえで行ったり来たりしているシュライン。
端から見ると、怪しい人に見えなくもない。
放火犯かストーカーか。
もとろんどちらでもなく、来訪者である。
建物には看板が掛かっており、「櫻月堂」の文字が見える。
骨董屋である。
その証拠に、入り口の横には「骨董、高価買い取り致し升」と、やたら達筆な字が躍っている。
シュラインはこの店に用がある。
より正確には、この店の店員にだ。
もうちょっと詳しくいうと、この店の主人が結婚保証人の一人で、その恋人がシュラインの大親友なのだ。
「あーうー‥‥」
うろうろ。
気っぷの良さが売りのシュライン姐さんらしくもない態度だ。
進んだり戻ったり。
「なかなかあやしいですね。シュラインさま」
唐突に声がかかる。
「うひゃぅっ!?」
背後から声をかけられ、素っ頓狂な声を出す蒼眸の美女。
「さささささくらっ!?」
「四つほど、さが多いようですが」
振り返った視線の先。和装の女性が立っていた。
金の髪と緑の瞳が、友禅とミスマッチなようでいて、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。
草壁さくら。
シュラインが会おうとしていた大親友とは、彼女のことである。
あるのだが、
「そんなに慌てて‥‥もしかして悪いことをたくらんでいましたね?」
「たくらむかっ!」
このていたらくである。
まあ、急に背後から声をかけられれば誰だった驚く。
それに、心の準備というものもあるのだ。
「はて?」
「はてじゃないわよ‥‥悪戯女帝‥‥」
「今日はまだ悪戯はしておりませんが?」
「はいはい‥‥私が勝手に驚いただけです‥‥」
拗ねてみせる仕草が可愛らしい。
いつもは凛とした彼女にこういう面があることを、ほとんどの人が知らない。
知っているのは夫となった人物をはじめ、ごく少数だ。
むろん、さくらは少数派である。
「まあ、そんなことはともかく。お入りになってくださいな」
微笑を浮かべたまま緑瞳の美女が誘う。
このとき、やっとシュラインは親友がなにやら大きな風呂敷包みを抱えている事に気がついた。
「まったく‥‥失調しっぱなしね‥‥」
内心で呟いて後に続く。
畳とお茶の香りが、シュラインを包む。
いつきても、櫻月堂は居心地がよい。
清潔なのだが片づきすぎず、適度に散らかっていて自分の部屋のようにくつろげる。
「えっと‥‥」
しかし、シュラインにはくつろぐほどの余裕はない。
わずかに頬を上気させて、もじもじしている。
「トイレですか?」
「‥‥違うって‥‥」
「冗談ですよ。はい。こちらはお祝いです」
くすくすと笑いながら、さくらが先ほどの風呂敷を解き、包みを渡す。
中は、都内の有名な洋菓子店のチョコレートだ。
「あぅー」
照れる事務員。
しっかりバレていたわけだ。
「ご結婚、おめでとうございます」
「‥‥ぁりがと‥‥」
「草間さまとおふたりで食べてくださいね。とっても甘いですから」
「からかわないでよぅ‥‥」
はるかな昔、甘いものは大変に貴重だった。
その貴重なものを新婚夫婦に送るのは、
「せいぜい甘い生活をしてくれ」
という冗談交じりの祝福だ。
それを知っていればこそ、シュラインも熟れすぎたトマトみたいになっているのである。
「ま‥‥まあ‥‥無事に婚姻届が受理されたんで‥‥報告っていうか‥‥」
「はい」
頷いたさくら。
やや躊躇ったのち、ゆっくりと口を開く。
「あの方も、きっと喜んでおいでですわ」
「‥‥だといいけど‥‥」
シュラインの蒼い瞳に憂色が浮かんだ。
あのときの光景が脳裏をかすめる。
自分の命と引き替えに、シュラインを守ってくれた女性。
人間を愛し、それゆえにこそ滅びの道を選んだ、さくらの同族。
シュラインは知っていた。
自分が、この金髪の妖狐に対して贖いえぬ負債を背負っていることを。
「私が幸せになるの‥‥許してくれるかな‥‥?」
生者は許しても、死者は許してくれるだろうか。
本来は美しい声が沈む。
「姉さまは、シュラインさまを守れたことを誇りに思っているはずです。人が大好きでしたから」
「そうだといいけど‥‥」
芸もなく繰り返す。
「もしシュラインさまが姉さまの死に責任を感じるのでしたら、それは姉さま自身の選択を侮辱することです」
少しだけ強い口調で、さくらが言った。
おそらくは自分も同じ選択をするだろうから。
とは、口には出さぬ思いである。
「‥‥うん」
シュラインが頷く。
少女のように素直に。
「いつか‥‥」
「はい?」
「いつか、那須高原に行かない? 一緒に」
「はい。必ず」
さくらが笑った。
聖母のような笑み。
とても似ていた。
エピローグ
ふわりふわり。
音もなく雪が舞い、地上に落ちると同時に消えてゆく。
この街では、積もることは滅多にない。
「まあ、積もったら積もったで困るんだけどね」
呟きが白く残る。
コートにまとわりつく結晶が揺れる。
これもひとつのハッピーエンド。
「ううん。ビギニングよね」
去っていった人たちに感謝を捧げ。
残ってくれたた人たちと未来を探す。
少しだけ恰好つけたことを考えながら、シュラインがコートの襟を立てて歩く。
ふわりふわり。
雪が舞っていた。
無音の祝歌をうたいながら。
おわり
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