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<東京怪談ノベル(シングル)>


破滅に至る病 〜目線〜


 ひそ。
 ひそひそひそ。

 ささやきは人の声。
「また何か轢かれてる」
「イヤだね」
「怖いね」
 黄昏時は訪れる。
 暗がりに紛れるは罪の意識。
 顔も心も紛れてしまう。


 現在の時刻は顔も見えない黄昏時。


 帰り道を急ぐ車の中で、一際速く走る車が一台。
 どこかに行くなんて言う目的があった訳じゃない。
 ただ人より早く走って、見せびらかす事だけが女の目的。
 ただ気分良く車を走らせる事ができればそれで良かったのだ。
 広い道路は自分の物、流れるような景色でなければ走らせる意味がない。
 こっちは高級車だし、女だから向こうが勝手に避けてくれる、事故を起こしても相手から踏んだくってやろう。
 つい最近似た様な事があって、幾ばくか遊べる程度の慰謝料を手に入れたばかりだった。
「それでね、相手の男が焦っちゃっててさぁこっちがバックしたからぶつかったのに、ちょっとわめいたら何も言え無くなってんの」
 クスクスと笑い、携帯で話す相手は呆れたように笑う声。
「女ってトクよねー、あんなに簡単にお金貰えるんならもっとぶつかって貰ってふっかけとくんだった」
 ハンドルを切りながら眺めているのは綺麗に塗られた、運転にはほど遠いいぐらいに伸びたネイルアートが施された爪。
「今から行くから、そしたら飲みにいこ」
 気分良く車を走らせている時に、女の前を走る若葉マークを付けたトロトロと走る車。
「やだ、初心者がこんな所来ないでよっ、ちょっと待ってて」
 苛立ち紛れに呟き携帯を助手席に放った。
 アクセルをふかし、前を走る車の後ろにピッタリと付けてランプまで点滅させる。
 前を走る車のスピードも上がり、左右にぶれ始めた。
「だっさい運転、安物の車は別なとこ走ってなさいよ」
 向こう側の車も何度か合図を送るようにハザードランプを点滅させたり、窓から手を出して降っていたようだがその合図がまたとろくさくて面白い。
「ばっかじゃない?」
 大分気も晴れたところで、最後に大きくクラクションを鳴らした頃にようやく前の車は脇道に逸れていなくなった。
 これでまたこの道路は自分の物。
「あー、面白かった」
 繋げたままの携帯に手を伸ばし、会話を再開させようとした矢先。
 目の前を何かの影が横切った。

 大きな音と何かがぶつかる衝撃。

 反射的にブレーキを踏む瞬間に感じたのは車が何かに乗り上げるためなのだと解ってしまった。
 長いブレーキ音の後、いつの間にかしがみついていたハンドルから顔を上げホッと息を付く。
「ちょっと、やめてよ!」
 相手が人間なら色々面倒だ。
 色々いい訳も考えないとならないし、免許取消なんてごめんだ。
 いっそのこと目撃者がいなくて、死んでてくれれば相手が飛び出したと泣いてみせれば何とかなるだろうか。
 そんな事を考えながら、車から降りて周りを確認すると居たのは座り込んでる男の子と犬が一匹。
「なんだ、犬じゃない、馬鹿らし」
 鼻で笑ってから思い出したように車を確認する。
 タイヤには少しの血とバンパーに付いた傷。
「冗談でしょ」
 バンパーは気持ち悪いから取り替えしたいし、タイヤだって最悪買い換えなければならない。
「あー、もう最悪!」
 せっかくいい気分だったのに台無しだ。
「な、なんで………っ」
 車を確かめていた女の横で、少年がはうように犬の元へたどり着き……地面を真っ赤に染めながら、僅かに痙攣する犬へと手を伸ばし抱き上げる。
 それを一瞥してから車に戻ろうとした女に、子供はパッと顔を上げて大粒の涙をこぼしながら声を張り上げた。
「お、おねが……病院、びょうい、に!」
 しゃくり上げる様子に、なんだか汚い物を見るような視線で見下ろしてから眉をひそめる。
「汚らしい」
 吐き捨てる言葉。
 ドアに手を伸ばすと慌てて子供がおってくる。
「お願いします、お願いだからこの子を助けて!」
 伸ばされた手に気付き、慌てて突き飛ばす。
「汚い手で触らないでよ」
「そんな、酷い! どうしてこんなっ! 人でなし!!!」
 たかが犬程度にどうしてこんな事を言わなければならないのだ、こっちは車に傷が付いたというのに。
「うるさい!」
 パンッ!
 ムッとして頬をはたいてから車に乗り込む。
 犬は、もう動かなくなったようだ。
 発車する直前、窓を下げ吐き捨てる。
「早く保健所にでも連絡したら、目障りよ」
 車を発車させ、後に残るのは子供の泣き声だけ。



 イヤな目にあったと、イラただしげにアクセルをふかし、タバコに火を付ける。
「こっちが感謝して欲しいぐらいよ」
 弁償代を請求しなかったからと、煙を吐き出す。
 話せば少しは気も紛れるだろうか、取り上げた携帯は既に切れていた。
「なんで切るのよもう!」
 メールを打っていると視界に見える赤に息をのみ顔を上げる。
 助手席には、真っ赤な振り袖を着た少女が一人。
「なっ……」
 思わずタバコを落としかけたが、すぐに我に返る。
「いつ入ったの!」
 ヒステリックにがなりつけても、少女は赤い目で女を見つめただけだった。
 背中に冷たい物が走る。
 いつ乗ったのだとか、誰なのかとか、女の反応を探るかのような視線にも。
 すぐにその考えを頭の中からうち消し、あり得そうな事を並べ立てる。
「あ、あんたさっきの子供の知り合いね! いつの間に乗ったの、何が目的!」
 首を振ってから、慌てて車を止める。
「どうでもいいわ、とっとと降りなさい!」
 クス、少女が笑った。
「……なんなのよっ!!!」
 気味が悪い。
 少女が始めて口を開く。
「……それは、おぬしが一番知っておる事だろう?」
 古めかしい言葉遣いは、到底少女が持つものとは思えない落ち着きを孕んでいた。
「ーーっ、黙って!」
「おんしは、痛みを知るといい」
「だまっーーー」
 上げかけた手は、何処にも振り下ろされる事はなかった。
「な、に?」
 少女の姿は跡形もなく消えている。
 まるで、悪い夢を見ていたかのように背中にイヤな汗だけが残っていた。
 そう、これはきっと夢か幻。
 こんな事、ある訳無い。 
「……っ!」
 首に走る痛み。
 再び心臓の早さが増すが、それ以上は何も起こらなかった。
「気のせい……気のせいよ、気のせい」
 何度も繰り返し、ハンドルを握り直す。
 忘れてしまおうとアクセルをふかし……ハンドルが勝手に動く。
 汗で滑ったのだろうか。
 再び握り直そうとして手が離れない事にようやく気付いた。
「ーーーっ!!!」
 足が勝手にアクセルを踏み始める。
 ブレーキが動かない。
「何でよ!」
 手も足も動かない。
 自由になるのは声だけ。
「誰か助けて!」
 再び、耳に届く声。
「助けを聞き届けなかったのは誰かえ?」
「あんなの、ただの犬でしょうっ」
 ミラー越しに見た少女の目がスウッと細められる。
「その言葉、よく言えたものよ」
「イヤ、誰か助けて、誰かーーー!」
「おのが罪、とくと味わうが良かろう」
 声はそれきり。
 前にはガードレール。
 加速していく車は止まらなかった。

「ーーーーーっ!」



 酷い事故。
 暗がりの中放り出された体。
 手足も僅かな痙攣を繰り返すだけ。
 声を出したくともでるのはあふれかえる血。
 手を伸ばしたい人も、手を差し伸べてくれる人もここには居なかった。
 返ってくるのは事故を聞きつけ集まる視線。

 これでは、うち捨てられた動物の目線ではないか。

 ひそひそひそ。
 ひそ……。

 黄昏時の囁きに混ざり、聞こえたのは微かな鈴の音。