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<東京怪談ノベル(シングル)>


非説伏

 言葉が通じるもの同士でも、互いの意思を理解し合うのは難しい。それが一方的なものであれば尚更だが、それ以前に、言葉が通じない相手にこちらの道理を納得させ従わせようとしてもそれはどだい無理な話なのだ。
 迦迦が『ここ』に至るまでの話も、それと似たようなものだろう。


 尤も、迦迦は人の言葉が理解できない訳ではない。だが、例えば人の論理で道具を縛り従わせる事など到底出来はしない。つまりは、それ程までに互いはかけ離れた存在であると言う事だ。迦迦に人を喰うな、と言う事は、魚に水中で呼吸をするなとか冬に雪を降らせるなとか言うのと同じ事である。

 魑魅魍魎、と一言で括るには、この平安の世に於いて禍々しいものは、数も種類も余りに多過ぎる。異界のもの、異形のものよりも、実は人の心の醜さの方がよっぽど醜悪だったりするものだが、得てしてそうしたものは己の垢を隠す術を心得ている故、専ら人の目と恐れ戦きは、自分と見るからに異なるものへと向けられるのであった。
 この、あらゆる技術の発達した現代においても、いまだに解明されぬ謎や病などは数知れずあり、また尽きる事もない。ましてや、呪い(まじない)や神頼み等が当たり前だったこの時代なら尚更。宮でさえ、毎日のように人が死んでいく病なのだから、不衛生でまともに口を糊する事もかなわないような貧しい里では、近年の飢饉も相まって、人は墓を掘る力も気力も出ず、ただ路傍に力なく座り崩れる事しか出来ないでいた。


 迦迦にも両親がいるとすれば、それは憤怒であり苦悶であり恐怖であろう。迦迦は古き山の精に紛れ込んだ、そう言った負の要素を持つあらゆるものの感情や陰の気を吸い込んで生まれた、奇異なる存在だ。生まれ出た瞬間から、迦迦は強烈な飢えを感じていた。何かの、何かを求める心が空腹に転じたのかもしれないが、何を求めればこれ程までに激しい飢えになるのかは分からない。ぎょろり、と目を剥くと迦迦の目の前を一頭の雌鹿が走り抜けようとした。迦迦の視線に気付いてか、その歩みを止め、こちらを見る。丸く黒目がちな鹿の瞳が、やがて明らかな恐怖の色に変わる時、既に雌鹿の頭部はなく、迦迦はその、血と脳漿が滴る生暖かい感触に、これまでにない歓喜を覚えた。
 反射で、まだヒクヒクと蹄を痙攣させている雌鹿から視線を左方へと移すと、そこには一頭の小鹿が居た。恐らく、今、迦迦が喰らっている雌鹿の子供なのであろう。華奢な四肢が枯葉を蹴って逃げようとするのを、迦迦はその後ろ足を手で掴み、己の方へと引き寄せた。
 本能的な危機を察して暴れる小鹿だが、迦迦の握力は緩む事がない。あらぬ方向へと掛かった力により、その足が折れてしまっても、小鹿は尚も逃げようとする。それは、命が奪われる事への恐怖だけでない、迦迦の存在そのものへの、もっと根源的な畏怖だったのだろう。勿論、迦迦自身はそのような事に気を配る事もなく、また親子の仲を引き裂いた事にも何の呵責もなく、いたいけな子供の命を奪う事にも躊躇う事無く、母鹿と同じように、その小さな頭部を噛み砕いた。

 「……いねェ」
 ぽつりと独り言を漏らした迦迦だが、その声を聞いても、蜘蛛の子を散らし、逃げ惑う山の獣達はいない。迦迦が退屈そうにその髪を長い指で掻き毟る音がしても、己の存在を誇示するかのような大胆な足音がしても、山は静かに息を潜めているだけだ。生まれ出てから然程月日が経たないうちに、迦迦は山の獣を全て喰い尽してしまったのだ。年々の日照り、寒波、猛暑などによる食糧不足から、確かに獣の数は一時に比べれば激減していたが、それでも食物連鎖のバランスを取るだけの数は居た。が、その数でさえ迦迦の空腹を満たすものではなかった。大きな獣を喰らえば、ひと時の飢えは治まった。だがそれは、酷暑の砂漠が一滴の水を瞬く間に吸い蒸発させてしまうように、迦迦の飢えもあっと言う間にその身を苛むのだ。迦迦は空腹の腹を掌で一撫ですると、何の用もなくなった山を後にした。


 何かの匂いが、迦迦を呼んだのかも知れない。山を降りた迦迦の視界に飛び込んできたのは、うず高く詰まれた肉の山。だが、それは、迦迦が今まで見た事のないものだった。
 敢えて呼ぶなら、これは『二つ脚』となるのだろうか?山の獣と違って、体毛は身体の一部にしかない。つるんとした形状は目に珍しく、迦迦は興味を持ってその山へと近付いた。近付くにつれ、強烈な腐敗臭が漂って来る。山の上の方はそうでもないが、下敷きになっている方の肉は既に原型を留めておらず、悪臭はそこから発生しているようだ。
 どさっ。
 ある程度柔らかなものが落ちてぶつかるような音に、迦迦が空を仰ぐ。ここは迦迦がいた山の麓だが、隣接する小さめの山の、切り立った断崖と密接している事で谷のようになっている場所だ。肉は、その断崖の上から放り出されているらしい。貴重な衣服は剥ぎ取られ、裸の死体が次々と捨てられる。迦迦には分からなかったが、そのどれもが妙な斑点が身体に浮き出て、苦悶の表情で息絶えていた。里で流行った疫病は大量の死者を出し、それらを葬る余裕も余力も今の人々にはない故、こうしてただ捨てられるだけになっているのだ。本来なら、狼や熊などの肉食動物がこの死肉を漁りに来るのだろう。だが、それらさえ迦迦の餌食となったのだ。つまり、この近辺に肉を喰らう獣は、迦迦しか存在しなかった。
 今しがた捨てられたばかりの亡骸が、山のてっぺんから転がり落ちて迦迦の足元に投げ出される。糸の切れた操り人形のよう、その亡骸は手足を好き勝手な方向へと折り曲げ、眼球を剥き出し、迦迦を見上げていた。変色して膨れ上がった舌や痩せこけた頬、そのどれもが迦迦にとっては初めて目にするものだったのだが、ともかくこれは肉には違いない。迦迦はその場にしゃがみ込むと、今なおぬくもりが僅かに残るその亡骸を、腹の中へと収めた。
 「…ンめぇ」
 それは、迦迦が初めて味わうものだった。山の獣とは根本的に何かが違う、美味いとか不味いとか言うよりは、何か一歩乗り越えてしまうような味。迦迦は夢中で貪り、飽くなき空腹を埋めるため、積まれた死者の山を見る見るうちに減らしていく。それだけの質量を、この身体のどこに収納したか不思議なぐらいだが、迦迦は指を血で赤黒く染めながら、痩せた大腿骨をばきりと噛み砕いた。
 「……バケモノ…!」
 その声は、勿論、迦迦のものではない。それに気付いて迦迦が顔を上げると、断崖絶壁の上に男が一人立っていた。しばらくはその恐怖で竦んでいたが、やがて弾かれたように走り去っていく。迦迦は、然程気に舌様子もなく、食事の続きを再開するが、それが迦迦にとっての分かれ道の最初であった事に気付くのは、もう少し後のことである。


 「あっちだ!追え!」
 怒号が飛ぶ。人の走る音と蹄が土を蹴る音。飛び交うのは火花に弓矢、そして法師の術布。タン!と両脚で迦迦が地面を蹴ると、その身体は高く高く空へと舞い上がる。そのまま弧を描いて、低い丘の向こうへと消えようとしていた。
 「着地点を見極めろ!結界を張れ!」
 印を切る陰陽師が、迦迦が降り立つであろう箇所へと戒めの結界を張ろうとする。が、それも半ばまでも適う事なく、迦迦が空から投げ飛ばした、折れて鏃のようになった人の骨に額の真ん中を貫かれて絶命する。両脚で着地し、深くしゃがみ込む事で着地の衝撃を和らげた迦迦だが、走り出そうと身体を前のめりにした瞬間、術を施した白絹を頭から被せられ、その動きを封じられた。
 バチッと火花が散り、迦迦の身体を目に見えぬ炎が包み込む。灼熱の空気が迦迦の肺を焼き、迦迦が声にならない苦悶の雄叫びを上げた。やったか?!と周囲では期待に満ちた人のざわめきが聞こえた。
 そんな迦迦の中に沸き上がる感情は、それでもなお枯渇と飢餓、それだけであった。地を這う叫びと共に、迦迦が戒めるものの無い力を噴出すると、周囲の大気が爆発したかのよう、その辺りに居た人間を全て粉々に打ち砕いてしまった。
 意味を成さなくなった絹を肩から落とし、ゆらりと立ち上がった迦迦が見たものは、地面に流れる鮮血、跡形もなく吹き飛んだ、元は人間だっ極々た細かい肉片。これでは喰えない、と迦迦は呻いて歯軋りをする。そのまま足を引き摺りながら、歩き出す迦迦を、術師たちは再び追い始めた。

 もう何月、物を食べていないだろうか。最後に肉を喰らったのはいつだ。あの時見掛けた、生きた生肉。あれを追って喰らえば良かった。そうすれば、こんな風にすきっ腹を抱えて野をふら付くなんて事態にならずに済んだのだ。恐らく。
 麻痺しそうにもない強烈な空腹を抱えて迦迦が辿り着いたのは、小さな沼地だった。少し雨が降れば出来、少し日照りが続けば簡単に干上がってしまうような、そんな程度の沼だ。決して水で腹を膨らませようと思った訳でもないが、微かな水音に惹かれて迦迦はそちらへと歩く。果たしてそこには、一人の子供がいた。
 それは貧しい着物で、垢で汚れた顔をした、まだ年端も行かぬ幼い童子だった。腰を屈めて脹脛まで沼に入り、蜆を獲っている。乾いた枝を踏み折る迦迦の足音に気付き、子供は腰を伸ばして振り向き、そこに立つ異形を見詰めた。
 人は異形を見れば無意識のうちにそれを怪異と見做し、恐怖と捉える。それは、己の記憶や知識として今まで存在しなかったが故に、それに対する対処法などが分からず、よって自己防衛本能として危険であると言う警告を発しておのが身を守ろうとするからだ。だが、己の無知を畏れととらない者であれば、人はただ興味の対象として、異形を見るのだ。
 今の子供が、まさにそれだった。
 それは迦迦にとっては初めて目にするもの。獣であっても、これ程に無垢な瞳は見た事がなかった。迦迦が見てきたものは己への恐怖、死への恐怖、憎悪、生き永らえない事への悔恨。そんなものばかりだった。

 迦迦の目の前が真っ暗になる。一瞬の隙をつかれ、迦迦は桧の箱に封じ込められた。それが、その当時の術師たちにとっては精一杯で、その箱が無闇に破られぬよう、堅く箍で戒められたのである。

 迦迦が生まれ出て最初に見たもの、それがあの童の瞳であったなら何かが変わっていたかもしれない、そんな事を思うのは勿論、迦迦本人である筈はない。