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たとえばコレもひとつの愛?
2月に入ってから、ショーウィンドウはラッピングされた『特別なチョコレート』で華やぎ、甘い香りとそれを買い求める女性達で溢れていた。
藤井葛は、そんな人ごみを器用にすり抜けて出口にたどり着くと、
「う、さむ……」
革製のカバンを抱いてウサギのような白いコートの前を掴み、赤いマフラーに首を埋めてすたすたとひとり歩く。
ビルの谷間から吹き込んでくる乾燥した冷たい風が頬と髪とマフラーを撫でていく。
寝不足の身にこの寒さは結構厳しい。
そして多分、朝まで自分に付き合ってネットの世界で冒険を繰り広げた相棒もまた、この街のどこかで寝不足のままバイトをしているのだろう。
「今度はなにしてんのかな」
ふと、通り過ぎたはずの視界の端に何か茶色い大きな物体が引っ掛かる。
電車に向かう足はそのままに、視線を巡らせて葛は思わずそれを確認する。
「………ああ、クマか」
それは、デパートや遊園地でよく見かける光景だった。
やけに大きい気がする茶色いクマの着ぐるみを取り囲むようにして、前後左右から子供たちがたかっている。
それが手にしていた風船は、葛が通り過ぎる間に全部もらわれていってしまった。
「ふうん」
お土産に持って帰ったら、あの緑の居候は喜んだだろうか。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、はしゃぐ子供たちから視線を外して、葛は再び駅に向かって歩行速度を上げる。
だから、気付かなかった。
『それ』が自分を目で追っていることに。
そして。
両手がカラになった途端、『それ』が着ぐるみとは思えない猛スピードで自分を追いかけてきたことに。
どよめきが行き交う人々の中から湧き上がる。
大衆の注目を一身に集めながらもふもふとしたクマは猛然と葛へ駆け寄り、ダンッと思い切りよく地を蹴ると、彼女の頭上で華麗に空中一回転。審査員から10.0を貰えるだろう妙技で目体操選手もビックリな着地を眼前で果たす。
「え?なに?」
一体何が起きたのか。そして一体何が起ころうとしているのかわからず、思わず停止する葛。
背中も雄雄しい『それ』は着地と同時にくるりと踵を返し、今度は問答無用で両手を広げ、迫ってきた。
「!?」
だが、その天賦の才とも言える運動神経は、反射的に正面から遠慮呵責なく抱きついてきた大熊を、いっそ手本にしたくなるほど鮮やかに投げ飛ばした。
細い腕からは想像も出来ない展開。
合気道と柔道の有段者である彼女によって、クマは弧を描いて宙を舞い、したたかに地面へ打ち付けられた。
「……ぐぅっ……!」
くぐもった呻き声が洩れる。
「………腰…打った………」
「和馬!?」
投げ飛ばされた拍子に着ぐるみの首がはずれ、中から見慣れた相棒の顔が現れた。
「いよう」
驚いて足元に転がる自分を見下ろす彼女に、多少の痛みを堪えつつ、藍原和馬は気安く着ぐるみの手を振った。
「昨夜はどうも」
にっと、親愛の情を込めて挨拶に笑顔も添える。
「…………ごめん……立てる?」
「全然問題なし」
申し訳なさそうに差し出された手に捕まって、和馬は身体を起こした。
「普通に声掛けてくれたら、こんなことしなかったのに……」
「いやあ、葛に会えたもんだから嬉しくてつい勢いあまって」
悪びれる風もなく、むしろ屈託のない笑顔で答えられてしまい、葛はそれ以上の言葉を告げない。
後はただただ、額に手を当て、どこまでも深く嘆息するだけだった。
和馬の姿に、なぜか姉の姿が重なる。
「あのな?ところで、とっととココは離れた方がいいかもしれないんだが、どうする?」
「どうするって、何が?」
へらりとして問いかける彼の言葉を訝しく思い、そして葛はようやく自分の置かれている状況を把握した。
休日でいつも以上に人の流れが多いこの往来で、囁かれる言葉と好奇の視線は間違いなく自分達に向けられているものだ。
まさに注目の的。
しかもかなり不本意な。
「い、行こう!」
なんとも言いようのない羞恥といたたまれなさを感じながら、葛は再びクマの頭を被った和馬を曳き立てるようにして速やかにその場を辞した。
のんびりゆったりと過ぎていくはずの穏やかな休日の、ちょっとしたスパイス的出来事である。
このバイトは風船を配り終えた時点で終了という約束だったらしい。
クマから人間の姿に戻った和馬に、今度は食事に誘われる。
昼飯に付き合ってという彼の誘いを断る理由もなく、葛はとりあえず近くのファーストフードへ向かった。
「せっかくの天気なんだし、景色のいいとこで食いたい。人ごみはもうヤダ。外の新鮮な空気を吸いたい。つーか暑くて俺死ぬ」
などという大変ワガママな和馬に付き合うべく、彼のおごりでバーガーセット2つに、単品でバーガー類3個、チキンナゲット、野菜サラダにデザートのアップルパイまでしっかり『お持ち帰り』で買い込むと、2人は暖かい袋を抱えて公園に向かった。
小柄な葛と、がっしりと大柄な和馬では歩幅はまるで違う。
だが、2人の歩調は自然すぎるくらい自然に合わさっている。
あまり広くはない児童公園のベンチに腰掛けながら、葛はふと首を傾げる。
気のせいだろうか。風がやんで先程に比べてほのかに温かい気がする。隣の和馬を見ると、彼は相変わらず妙に人懐こい顔で笑いかけてきた。
「思ったより寒くないだろう?」
その顔は子供が何かの自慢する時のようだった。
葛は知らない。でも、彼が何かしてくれたらしいことは分かる。それは自分にはないチカラの類。だから、2月の晴れた空の下でも空気がやわらかく変化している。
「………ありがと」
ポツリと、聞こえるか聞こえないかの声で礼を口にしてみた。
ソレが届いたのか、和馬の笑みはいよいよ大きく深くなった。
「………ええと…和馬、どれから食う?」
「ビッグマックとポテトからよろしく」
「ん」
がさごそと手を突っ込んで目当てのものを探し当てると、犬を連想させる呈で待つ和馬にそれを手渡した。
それから自分もハンバーガーをひとつ取り出して、おもむろに齧りつく。
「あのさ。とりあえず聞いとくんだけど……今夜も冒険できる?」
むぐむぐとそれを咀嚼しながら、何気なく予定を確かめてみる。
だが、葛には返ってくる答えがなんとなく予想出来ていた。
「おう、ばっちり。23時に次のバイト上がるから、待ち合わせはいつものとこに0時でどうだ?」
「了解。今日はレベル上げになりそう?」
「だな。ちょっと行ってみたいとこもあんだけど、先立つもんもねえし?」
「じゃあ、そういうことで」
中毒といってもいいほどネットゲームに没頭する2人にとって、オフラインでの時間は切り詰められても、オンラインの時間を削って睡眠や他の事に当てるなどまず出来ない。
だから。
相棒がネット世界から何日も姿を現さない時は『よほどのこと』があったということになる。
他愛のない日常会話の延長で、葛はふと問いかける。
「そういやさ、しばらくこっちでもあっちでも顔あわせなかったけど…何?バイト忙しかったわけ?」
「おう。ちょこっと怪奇探偵んとこのオシゴトがてら、舞台のバイトもしてたからな。公演まで時間詰まってて、そのうえ人手不足のせいで俺の時間は消費され放題」
肩をすくめながら、それでも、『いい社会勉強になったけどな』と続けて笑う。
「なるほど」
楽しげな彼につられて笑みを浮かべつつ、葛はポテトをひとつ摘んで口に運ぶ。
「で、舞台って?」
「小鳥とお姫様の復讐劇。この間3人で見に来てただろ?」
2つ目のバーガーをコーラで流し込むと、和馬もポテトに手を伸ばした。
「ああ、あれか」
「そ、あれ。なかなか興味深かったぜ?」
狂気に満ちた純然たる愛。あるいは、愛に満ちた純然たる狂気。
妄執にも似たあの渇望を、和馬は自分の中に存在していないだろうことを知っている。
隣に座る彼女に抱くこの感傷めいた感覚も、多分、ほんの一時のもので終わるのかもしれない。
それはもう、長すぎる時間の中で半ば諦観となって根付いたものだ。
ヒトは自分を置いて先に逝く。これはもうどうしようもない自然の摂理だった。
そして和馬は、自らそこから逸脱することを選んで生きてきたし、これからもそうやって生きていく。
たぶん、おそらく、変わらない。
「………ああ、そうだ」
沈黙が2人の間に横たわることは、けして気まずいものではない。時には何時間も喋らないまま、ぼんやりと海を眺めて過ごすことだってあるくらいだ。
それでも、葛は珍しく自分から相手に声を発し、沈黙を破った。
まるで立った今思いついたような素振りで。
「ん?」
「まさか今日会えるとは思ってなかったんだけど」
そして、自分の横に置いていたカバンを膝の上に引っ張り上げ、葛は中から何かを取り出すと、彼の手を掴んでその手の平にぽんとそれを置いた。
「コレ、あんたに」
実に自然な流れで手渡されたものに、和馬は不思議そうな顔で視線を落とした。
手の平にちょこんと乗っているのは、小さくて赤い正方形の箱だった。
ふわりと、甘いカカオの香りが自分の包む。
これが何を意味にしているのか、自分は知っている。
「……………マジ?」
みるみる、和馬の表情が明るくなっていく。子供じみて無邪気な笑みが口元をほころばせた。
「ま、世話んなってるし」
にっと笑って見せる葛に、抱きつきたい衝動を覚える。
だが、ソレをぐっと我慢し、ただただ手の平のチョコレートをじっと見つめた。
小さくて、多分一口で全部食べ終えてしまうだろうその箱が持っている重みは、とても心地よく和馬を包んでくれる。
「……サンキュ」
「どう致しまして」
ほわりと、一瞬周囲の温度が上がった気がした。だが、これは多分自分の錯覚だろうと葛は思う。
「さてと、そろそろ帰るか」
おもむろに立ち上がる。
いつの間にか空は明るい昼の時間から薄闇へと移り変わっていた。
「送ってこうか?」
「…………ん?いや、大丈夫。あんたも次のバイト、あるだろ?」
いまだ座ったままの和馬を見下ろし、猫のような瞳をすぅっと細めて葛は笑った。
「じゃ、今夜」
「ああ」
短い別れの言葉を交わすと、葛はそのままカバンを抱いて黄昏の道をひとり歩いていく。
背中を流れる黒髪がふわりと風になびいて踊る。
「………ありがと、な」
もう一度呟いた和馬の声は、多分彼女には届いていない。
それでも、肩越しに葛は手を振って返した。
互いの時間を共有する心地よい感覚。
名前はまだ付いていない。約束も何もない。それでもふわりとしてほのかに温かい想いを抱いて、この関係は続いていく。
END
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