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<東京怪談ノベル(シングル)>


accusatory look


 その眼差しは、自分の罪を見つめ続ける。


 弟が初めて家に帰ってきた日の事は、今でもよく覚えている。
「幸也。貴方の弟よ」
真っ白なおくるみに包まれ、甘いミルクが香る小さな弟は、母の髪の一房をその小さな手で握り締めながら、すやすやと健やかな息で眠っていた。
「可愛がってあげてね」
幸也が弟をのぞき込めるよう、そして視線を合わせる為に膝を折った、母の穏やかな声にこくりと頷く…年を十も離れれば、今更妬くような事もない。
 ただ、弟が大きくなったら何をして遊ぼうか、そんな他愛ない楽しみに胸を弾ませていた。
「母さん、抱かせて」
そう強請れば母は少し困ったような、一瞬の逡巡の後、くたくたと首の据わらない赤子を腕だけで支えながら、差し出した幸也の手を整えた。
「そう、二の腕で赤ちゃんの首を支えるようにしてね。お尻の所に片手を添えて。自分の体に凭せ掛けたら安定するから」
そう注意されながら、いざ手渡されてみれば、その体は暖かく、柔らかく、そしてあまりに頼りなくて腰が退けそうになる。
「怖がらないで、しっかり抱いてあげて……ホラ、お兄ちゃんですよ」
母の呼び掛けに、腕の中の弟はむぅと口を曲げて、唐突に目を開けた。
 きょとん、と開かれたその目…想像していなかった色合いの赤さにびくりと体が動くと、それに驚いたのか、弟の掌が開いて掴んでいた母の髪が離れる。
 途端。
 くしゃくしゃと顔中を皺にして、弟は火がついたように泣き出した。
「か、母さん……ッ」
幸也が慌てて母に返そうとするが、彼女は少し笑うと弟を支える幸也の手にその手を添えた。
「何かを掴んでいると、赤ちゃんは安心するのよ」
そう、母は幸也の手を誘うと、その指を笑也に握らせた。
 きゅ、と人差し指を握り込む、その小さな手の思わぬ力に幸也は目を見張る。
「お兄ちゃんが好き、ですって」
暖かな笑顔で母が言う、それを疑う余地などなく、その手は懸命に、無垢に、幸也を信じて疑わない、力強さがあった。
「可愛がってあげてね」
もう一度、繰り返されたそれに幸也は力強く、決意を込めて頷いた。
 まだ弱く小さな弟を守るべきだと感じたのは、兄としての義務、それだけでなく…愛しさが、確かにあったその筈なのに。
 それが空回りするようになったのは、いつからだったろうか。


「違う!」
叱咤と共に、拍子を取っていた扇子が一際高い音を立てるのに、身を竦める。
 また同じ箇所だ…止められる度に最初から、舞直してもう幾度、同じ振りを繰り返したか解らない。
 焦りに息は上がり、室内には火の気もないのに顎の先から汗が滴る。
「何故、お前はそうなんだ幸也」
呻くような父の問いに、幸也が答えを持つ筈がない…魔穴を封じ、退魔を生業とする家筋、その者が…こと、家を継ぐべき長男が退魔の舞を満足に修められないとは。
 否、1年前まで父もこうまで厳しくはなかった。
 力不足に歯噛みする、背に注がれる眼差しを感じるが、幸也は振り返る事すらせずただ俯いた。
 叱責される自分をただ見つめる幼い眼差し…稽古場の片隅に座する、弟は5つになる。
 幸也に退魔の舞の伝授が始められたのは七つの時だ。が、笑也は一年前から既に稽古場に出入りを許された。
 風を入れる為に戸口を開け放ち、父に舞の手ほどきを受けていた幸也の様をじっと見ていた弟が、それを真似て、否、自分のものとして舞ってみせたのだ…幸也以上に、完璧に。
 庭で遊んでいた幼子が、一度、二度見ただけの舞を身に着けた事実に父は喜び、即座、弟にも舞を教え始めた。
 そして弟は瞬く間に幸也に追い付き、そして追い越した。
 幸也の覚えが悪いのではない。それどころか、幸也は一度観た舞を完璧に覚えられる…が、舞は技術だけでなく、心…花、と呼ばれるその境地を必要とする。
 それがない、と言われても幸也はどうすればいいか解らない。
 舞ってみせる父の、動作を一分の狂いもなく再現できる、今までそうして来たそれではダメだとはねつけられれば、幸也は立ち竦むしか出来なくなる。
「……もういい、幸也。頭を冷やしてこい」
溜息と共に、退座を言い渡される。
 それに抗する気力はなく、幸也はその場に叩頭した。
「ありがとう、ございました」
稽古場で父は父でなく、師である。
 礼を取った幸也を、だが父は顧みもせず、弟の名を呼ぶ。
 その頃、既に弟との間には溝のような物があった……走り寄って来る弟を抱き留められず、向けられる笑顔に答えられない幸也を、次第に弟も避けるようになっていた。
 それでも眼差しだけはいつでも幸也の後を、追っていたのを知っている。
 注がれていた視線が外れる…身に付いた舞の所作に足音なく、弟が脇を過ぎていく。
 ふう、と上げられたそれだけの手。
 それは、何度叱責されても幸也に出来なかった箇所の、その動きだ。
 幸也は歯を食いしばった。
 父の期待に応えられない、歯痒さ。父が求める位置に難なく行き着く幼い弟に、焦りが呼ぶ感情は、嫉妬だ。
 父は笑也に気をかけすぎてそれに気付かない…が、母は違った。
 幸也の焦りを苛立ちを認め、そして心を砕いてくれた。
 舞の稽古を辞した後、幸也はいつも母の元へと向う。
 弟が稽古場に出入りを許されてから半年程した頃だったか。
 焦燥に苛まれる幸也を見かねたか、母は台所仕事をしていた割烹着姿のまま、彼の元へ小走りに駆けてきた。
「幸也、幸也」
両手の間に何かを包み込むように、息を弾ませた母に「なに」と、苛立たしさも顕わにぶっきらぼうに答えを返す。
 だが、母はそれに欠片も動じた様子はなく、何かを包み込むように丸めて合わせた掌を幸也に差し出した。
「見てご覧なさい」
あまりに無邪気に言われて、その手の間を覗き込もうと…した幸也の目の前で、母は両手を開く。
 その掌の内。「チ、チ」と小さな白い小鳥が鳴いてパッと空へ舞い上がり、見る間に尾を伸ばし、翼を拡げて鵜のような鳥へと変じ、一度頭上を旋回すると…パサリと乾いた音で白い羽根に散じて二人に降り注いだ。
 それは雪のように地に落ちて溶け消え…その内に混じった長方形の白い紙だけが消えずに地面の上に残る。
「あぁ、良かった。久しぶりだったから、ちゃんと出来るか自信がなかったのよ」
ほ、と胸に手を置き、少女のように「驚いた?」と問う母に意表を突かれた幸也は素直に頷いた。
「魔に対する力は、舞だけじゃないのよ……幸也、母さんが符術を教えて上げるから」
だから、と。
 貴方は貴方を見失わないで、決して自分を諦めないで、と。
 寄せる心を形にして見せ、母は優しい眼差しで存在意義を失いかけた幸也に依る場所と、術の知識を与えてくれた。
 手放しに誉める父に、弟がみせる…子供らしい増長に冷静になれたのも、その功が大きい。
 けれど、事ある毎、対比の対象とされるのに辟易していたのも確かだった。
 幾度も、退魔の場に弟と共に連れて行かれ、時に小さな障気を子供だけに任される事もあった…弟の才は際立つが恐れを知らぬ幼さ故に無謀でもあり、幸也がフォローを要する事も多いのに、全て自分一人の功とばかりに得意げな、弟の様子が鼻につく。
 母はそんな弟を諫めてはいたが、稽古の場、退魔の場で、常に幸也と比較して与えられる賛辞はそれ以上だった。
 父にしてみれば、競う事で、子供達の実力を上げてたいそんな考えだったのだろう。
 しかし、そんな些細な……積み重ねは大きく、幸也の心を圧迫した。

 今でも。

 あの時、父が不在にしていなければ、弟が、そして自分が一人きりでなければ、と何度もその可能性を思う。
「裏に封印されてる奴、やっつけてみないか」
それでも、父に認められていた自分を取り戻したくて、一人、稽古を続けていた幸也は、ぼんやりと絵本を広げている弟の姿が癪に触ってそう誘いを掛けた。
 それは他愛ない、徒心だった。
「ぼくは……やらない」
だが、弟が示した難色を認められなかった。
 努力で埋められない才能の差…その強さが如何ほどのものか。
 父が賛じる程の、周囲が期待を集める程の、それだというならば、一族の歴史も、封印も全てその肩に担って当然だろう、と零れた不満は思わぬ昏さで溢れ、幸也の思考を翳らせた。
 幼い矜持を傷つける事で煽り、共に封印の場へ行く…参拝客が決して入り込まぬよう、聖別された神域の更に奥、石を媒体に施された封印は旧く、強い。
 だが、封印を護り続けた氷川の血、一族の祈りが保持するそれは、彼等に反発しなかった。よもや、一族の者が個人的な感情で、その封を破るとは誰も思わなかったのだろう。
 手を翳し、厳重に編み、組まれた封を解いていく…弟もそれに倣うにゆっくりと、封印が綻びて行く。
 幸也は弟の横顔を見下ろした。
 …この時点で、幸也は封印を完全に解いてしまうつもりは毛頭無かった。
 ただほんの少し…封印から障気が洩れ出す程度で止め、術として完成するまでに時間がかかる、弟の舞に先んじて符術で再度、封じ直すつもりだった。
 ほんの少し、弟の鼻をあかしてやりたかった、それだけで…決して傷つけるつもりはなかったのだ。
 幾重にも巻かれた封じに一点、穴が空く…それは知覚と同時ピリ、と何か裂ける感触がした。
 途端、石が真っ二つに割れ、その中心…否、石の下から深く暗い空洞を思わせる反響にオォゥと人の叫びによく似た轟音で、障気が溢れ出した。
 あまりの濃さに視認が適う程に密なる気の闇色は、空気に散じる事すらしない。
 弟は既に舞い始めている…が、触手に似て、奥深くから這い出すそれ等の端は消えるが、後から後から尽きず湧き出すそれに追い付かない…浄化の舞の効力の届かぬ範囲、其処に生きる…草木がじわりと色褪せるように枯死する様を見、幸也は背筋に走る悪寒に身を震わせた。
 このままでは何れ取り巻かれる。そうなれば、自分は……弟は。
 今はその舞に周囲に届いてはいない、が何れ、弟の力が尽きれば…そして、自分には命かけたとてそれを祓う、力はない。
 今ここで弟を逃れさせても、まだ五歳の幼い足で、逃げ切れるものではない。
 選択を迷う間に、状況は悪化していく。
 とうとう、弟がその場に膝をついた。
 決意に走りかけて一度振り向けば、まだしばし、障気が弟に達するまで余裕があるように思えた。
 そして、こちらを見詰める赤い瞳と視線が合う。不安を湛えて縋るように、幸也を兄と慕って疑わぬ、信用と、信頼と。
 だが、幸也はそれを断ち切るように、駆けだした。
 舞の影響がまだ残る内に大人に助けを……母を呼んで来なければ。
「お兄ちゃんッ!」
その背を追った声に籠もった感情の響きを、刺すような眼差しは感覚として残っている、覚えている。
 兄に見捨てられたのだという絶望が、弟が自分に向けた最後の感情だった。


 母の初七日が終わった。
 異変に気付いた母は、駆け付けてすぐ父や他の血族に連絡を取るように幸也に指示する事でその場を逃れさせ…そして還らぬ人となった。
 母に守られるように、その胸に抱かれて発見された弟は命こそ無事だが…昏睡状態に陥って未だ、目覚める気配はない。
 訃報を受けて、現場を見た父は何かを察してもいようが、何も言わず、誰も責めず、幸也はただ不幸な事故に因って母を喪った子として扱われた。
 だが、罪の場所は明確。
 下らない虚栄心、利己的な自尊心で、掛け替えのないモノを失ってしまった慚愧に泣く事も眠る事も出来ず、それでも氷川の長男としての務めを果たす、責任感だけで幸也は動いていた。
 病状の説明を受ける為、主治医と共に父は席を外し、幸也は白い病室に眠り続ける弟と残される。
 痛々しく右頬を覆うガーゼの下の、異形に抉られた傷は生涯残ってしまうという…閉ざされた瞼の静けさが、母の死顔に重なりぞっとする…唯一、自分の罪を知る、弟。
 幸也は弟の寝顔を凝視しながら、その細い喉に触れる、掴む…掌に鼓動を感じて息をついた。
 香の匂いの染み付いた学生服のポケットに手を入れ、懐紙を取り出す。
 かさりと乾いた音を立てて拡げれば、其処に在るのは一房の髪…彩糸を共に編んで纏めた母の遺髪だ。
 幸也は再度、眠る弟に手を伸ばし、その左側の髪にそっと、その一房を結んだ。
 母に教わった符術、母が最期まで守り続けた弟の為に、その髪で作った守り。
 守りを取り付ける為に触れていた手が離れようとした…それを追うように、手が、眠り続ける弟の幼い手が宙をさまよった。
『何かを掴んでいると、赤ちゃんは安心するのよ』
まるで母が傍に居るように、過去の声が耳元に蘇る。
 指を伸ばしてやれば、きゅと握り込んでまた、泣きそうに震えていた息が寝息に変わる。
『可愛がってあげてね』
想い出す。
 母が自分に願ったのは、家を継ぐ義務でなく、類い希なる才でなく、ただ兄としての強さと優しさだけだったというのに……。
 幸也は、弟に手を握らせたまま、落涙した。


 目覚めて以降、感情をなくしたように表情を見せない弟は、それに応じて幸也を見る事もなくなった。
 だが、鏡の向こう、硝子に姿が映る時、ふとした折に視線を感じる事がある…嘗て、弟がそうしていたように強く確かな。
 その内に心の弱さを見る。もう、大切な何かを見失わないように。


 その眼差しで、幸也は自分の罪を見つめ続ける。