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恋を知り瞳を閉じたキミ
以前の自分と、今の自分。
明確に違うと、言えることがある。
(それまでは)
どんなことがあっても、「仕事がいちばん!」と言い切ることができた。
”皆”の役に立つことが嬉しかった。
(でも今は――)
……わからない。
調達屋胡弓堂。
そこでアルバイトをしている私は、店長に頼まれて他の店へある物を調達に出かけていた。
その、帰りのことだった。
(? あら……)
前から歩いてくる男性と、何気なく目が合った。それだけならばなんとも思わないのだろうが、その顔に見覚えがあったのだ。
彼の方も私に気づいたらしく、2人して同じ距離を歩き立ちどまる。
「――こんにちは。お久しぶりですね」
私から声をかけると。
「やはり君か……」
彼は苦笑した。
★
私が初めて彼と会った時、彼は不気味なほど真っ白な白衣を着ていた。
(医者、だった)
そして医者であるがゆえに、大きな苦しみを抱えていた。
愛娘を、半年前に亡くしていたのだ。
(肉親を亡くした時)
おそらく最も哀しみを感じるのは、医者なんじゃないだろうか。私はそう思っていた。
(それまでに幾人もの命を救い)
幾人に感謝されようとも。
本当に助けたい人を救えなければ、何の意味もない。
そう思う医者さえ、いるかもしれない。
まして彼の娘は――
(永遠に目覚めることのない)
生と死の狭間にいた。
拷問ともいえる日々を、彼は娘と過ごしていたのだ。
だが彼は落ち込むよりも先に、娘のことを考えそして娘が好きだった少年のことを考えた。
(だからこそ私はあの時)
彼のしたことを好意的に受け止め、見守ることにしたのだった。
「まだ、お医者さんやってるんですか?」
私の質問に、彼は苦笑を浮かべたまま答える。
「ああ。私には、それしかないからね」
私は少し躊躇ってから。
「あの――チャットルームは?」
彼が娘のために仕掛けた罠。
今度は笑顔を浮かべると。
「懲りずに利用されているようだ」
その罠にはまった少年は、まだ夢の中にいる。
私が次の言葉を告げる前に、彼が口を開いた。
「そろそろ、本当のことを打ち込もうと、思っているよ」
「え?」
それはとても意外な言葉だった。
(甘い罠から苦い現実へ)
突き放された少年はどうなる?
心配から眉を顰めた私に、彼はゆっくりとした言葉で告げた。
「最初はね。娘はあの子と話したいだろうと思っていたし、あの子は娘と話したいだろうと思っていた。――でもそれ以上に、あの子に娘のことを忘れてほしくなかったんだよ」
時が経つにつれ記憶が褪せていくのは当然で、それでも忘れてほしくないと願うこともまた当然。
(でもそれは、矛盾してる)
人間は忘却の生き物であり、残るのは願いだけでやはり記憶は少しずつ失われてゆくものなのだ。
しかし彼が仕掛けた罠は、その矛盾を打ち破り永遠に2人を結び付けておくことができていた。
(できていたのに)
「逆にそのことが、辛くなってきたんですか?」
私の問いかけに、彼は頷いた。
「あれからずいぶん経っても、あの子はまだ娘に縛られている。生きているのに、感情は動いていないんだ。それは死んでいるのと同じだろう? それじゃあダメだ。生きているあの子には、娘の分まで自由に生きてもらわなければならないのに――今さら、そんなことに気づいたのさ」
それから。
「あの子に、謝らなければならないな」
そう呟く。
「きっと許してくれますよ。それにあの子なら、ちゃんと生きていけると思うわ」
お世辞でも何でもなく、私は心からそう思った。何度か会った少年はとても明るく、少し情けなくはあったけれど気持ちのいい性格をしていた。
(あの子なら)
きっとすべてを受け入れて、前に進めるわ。
そうであればいいとの、願いもこもっている。
彼は笑う。
そしてふと表情を変えて。
「ところでお嬢さんには、いい人がいるのかな?」
「え?! え……と、い、いるような、いないような……?」
突然の思いがけない質問に、私はオロオロしながら曖昧に答えることしかできなかった。
「ハハ。まぁいてもいなくとも、”相手”は大切にしなさい。いつでも、ね」
その言葉を最後に、彼は軽く手を上げると、私を通り過ぎ歩き始める。
これから真実を、告げに行くつもりなのかもしれない。
私はまだ立ちどまったまま、思わず自分の顔に手を当てた。
(あ、赤いかしら……)
まだその手の不意打ちには弱いのだ。
彼に会った時、まだ恋なんて知らなかった私。
(可哀相だな)
2人の真実を知っても、そこまで感じることが精一杯だった。
(――でも、今は違う)
私は恋を知ってしまった。
おままごとの恋なんかじゃない。今の私が全力でしてる恋だ。
(だからこそ)
考えてしまう。
好きな女の子に、想いも告げられぬまま置いてけぼりにされた少年。まだその影を追い続けている少年。
(もし――私がそうなったら?)
その気持ちがわかりそうになっていた。
わかりたくないから、心がセーブをかけている。
(あの時とは、違う)
少年の気持ちを理解して、共有したいと感じていたあの時とは違う。
「今は――わかりたくないよ……」
小さくそう呟いてから、私は歩き始めた。
(明日も生きている)
そんな保証はどこにもない。
たとえ私がどんなに、少年のようにはなりたくないと願っても。少年のような思いはさせたくないと願っても。
世界は無情に、動き続けるのだ。
(先は見えない)
でも歩き続けるしかない。
歩き続けるには、目を瞑らなければならないこともある。
(怖がらずに、生きるために)
願わくば――少年が明日も笑顔でありますように。
(終)
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