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<東京怪談ノベル(シングル)>


死を忘る ただ眠れ


 宇奈月慎一郎にとっては不名誉極まりないことに、彼はここ最近まで入院していた。その理由は骨折でも腹痛でもなく、心の病であった。
 宇奈月慎一郎が都内の総合病院の中の精神病棟に投げ込まれてしまったいきさつを一言で説明するのは難しい。どこかの誰かが119番を回したときにはすでに彼の心など崩壊しており、それに気がつけたのは慎一郎と狂人を除く全人類だった。慎一郎は自分の人間が持っているべき心が跡形もなく消し炭に変わってしまったことなど、知る由もないのだ。だからこそ、今回の入院は何の謂れもないことで、自分は冤罪で実刑を受けた囚人同然だと、白い部屋の中で日々憤慨していたのである。

 そんな彼が病から完全に回復したとは言い難いが、どういうわけか「釈放」されてしまった。時折マスコミによって取り上げられる、大病院の怠慢か、奢りか、ちょっとした手違いか。慎一郎は僅かな手荷物を片手に、ふらふらと病院を去った。
 彼が親から受け継いだ屋敷は全焼し、彼が愛する書物の大半もまた焼き尽くされた。紙と言うのは、よく燃える。紙以外の物質で出来た本もあるにはあったが、それすらも灰になった。あの夜彼の屋敷を焼き払ったのは、この世の焔ではなかったらしい。慎一郎は、その焔を見てしまった。正気が完全に崩壊したのは、おそらくそのときだろう。

 ともあれ、彼は疲れている。

 入院前、あの火事の前のように、誰もいないところで、ひたすらに知識を吸収していたい。病院は大きかった。人間が多すぎた。
 彼の財産は幸い銀行に残っていた。質素な生活を続けていれば、という前提あっての勘定だが、慎一郎は働かずとも一生食うには困らない程度の金を持っている。元より慎一郎は派手な生活を望む男ではなかった。今の精神状態では、札束を手にしていたら「イア! イア!」などと意味のない言葉を叫びながら札をばら撒きかねないというところはあるのだが。
 慎一郎は静かなところに住もうと考えていた。奇しくも、それは世間のためにもなることだった。彼が心残りにしているのは、おでんだけだった。ただ、美味いおでんが食えなくなるということだけが問題だった。


 そうしてふらふらと流れついた先は、海を望める断崖のそばにある一軒家だった。
 相当に古いもので、家自体が塩を吹いているように錯覚してしまうほど、ぼろぼろだった。蝶番は潮風で錆び、窓ガラスは曇っている。しかし、古いものとはいえ、家具は揃っていた。この家の住人が、ある日突然消えてしまったかのようだった。不動産は慎一郎の前から早く消えたかったようであり、この家を今すぐ手放したかったようでもあった。おかげでかなり安く買いとることが出来た。
 周囲には、舗装された車道すらない。
 聞こえるのは横暴な潮風の咆哮。そして、断崖に咬みつく波の呻き声のみ。
 錆びたノブを回し、彼は寝室として使われていたらしい部屋に入った。ベッドに敷かれている布団とマットレスの柄は時代から乗り遅れていた。しかし、慎一郎は正気であったとしてもそんなことは気にも留めないたちなのだ。
 彼は埃まみれのベッドに倒れ込み、そこでたちまち眠りに落ちた。



 月が昇り、いきもののように蠢く黒雲が東や西や南や北から現れ出でて、月と星とを食らい尽くした。妖しく煌いていた海面から光が消え、海原は深淵となり、あぎととなった。波が死絶え、風が落ちた。
 海面が、ぐうと盛り上がる。さながら膜であった。膜をかぶった存在が手を伸ばす。
 自ら羊膜をずたずたに引き破り、黒いような青いような緑のようなものが現れた。海が断末魔の絶叫を上げた。
 太い両腕が、断崖を掴む。手には恐るべき毒爪があり、爪を立てられた部分の雑草たちが、たちまち腐り果てた。その頭部の髭じみた触腕からは、どうどうと濁った海水が滴り落ちている。恐るべきものにとっては、ぽたぽたと滴り落ちている程度のものだったかもしれない。しかしかれは巨大すぎた。ぽたぽたと滴る海水は、どうどうと断崖に降り注ぐ。
 吐き気を催す悪臭は、腐った魚と日陰に放置した海水のものだ。
 その背がおぞましい動きを見せ、蝙蝠のもののような巨大な翼が現れた。羽ばたくと、海が打ち震え、木々が折れた。断崖のそばに建っていた古い家が、木っ葉のように吹き飛んだ。
 だが、家の中で眠っていた男は、その場にあったベッドに横たわっていた。何と言うことか、あの暴風の中で、ベッドだけは吹き飛ばなかったのだ。
 海から来たものが、ぐうと身体を乗り出す。
 ベッドで眠っていた男が目を覚ます。
 男が、慎一郎が見たものは、白いような赤いような、形容しがたい色に濁る目であった。

「アー!! アー!! アー!!」

 触腕が人間の雄を捕らえ、その四肢をへし折りながら、口腔へと運ぶ。
 ちっぽけな血飛沫が上がり、深淵の悪臭がその生臭い死臭をかき消す。
 だが、これほどに巨大なものが、たかが人間ひとりで満腹になるだろうか。
 かれは一握りにもならない肉塊を嚥下すると、空腹と苛立ちのあまりに咆哮を上げた。咆哮が世界を覆いつくし、死は死絶え、時は失われた。
 地球の支配者がそのとき、人間からべつのものへと移ったのだ。人間が支配者であったとしたならば。
 元より、この星はかれのものであったのかもしれない。
 星は平伏し、戦慄し、かれの采配を待つばかりであった。

 

 彼は目覚め、すでに恐怖すら忘れてしまっていた。
 顔を上げ、慎一郎は思わず笑った。
 部屋中が、海水で湿っていた。胸がむかつく腐魚の臭いが充満し、部屋の壁いちめんに未知の文字が血と泥水で書き殴られている。
 囁き声がする。虎視眈々と、慎一郎の肉と血を狙っているのだろう。彼は最早囚われてしまったのだ。
 呻き声がする。これまでの永い歴史の中で、深淵に囚われ、引き裂かれ、あの世に逝くことすらかなわなくなった探求者たちの悲哀に満ちた苦悶であった。
 太陽が、分厚い雲に覆われていた。
 恐怖を恐怖だと思えない人間は、まず踊るというのだろうか。
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」
 古びた家はそこにあり、作物が立ち枯れた小さな畑がそこにあり、時は流れていて、海は昨日と変わらず時化ている。
 慎一郎は畑の真ん中で、滑稽な踊りを踊った。まるで四肢を砕かれた、哀れな冤罪者のように。

 一心不乱に踊り続ける宇奈月慎一郎が通りがかりの郵便配達人に発見され、またその手の病院に担ぎ込まれることになったのは、慎一郎が夢を見てから2日後のことだった。
 彼はその間飲まず食わずで、畑の周りを踊り歩いていたのだ。
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」
 すでに喉は涸れ、その台詞すらも、言葉にはなっていなかった。
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」
「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」

「夢だけど、夢じゃなかった! 夢だけど、夢じゃなかった!」




<了>