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<東京怪談ノベル(シングル)>


人魚の日



 きっかけは些細なことだった。
 台所で洗い物をする前に見たカレンダー。
 今は二月。
 もうそろそろ四月なんだ、と何気なしに思ったとき。
 ――小さな箱の蓋をあけたように、記憶が甦ってきた。

 初めて人魚になった頃、季節は春だった。
 あたしが今思い出したのは、それから少しあとのこと。

 深淵から帰って来ても、自分の意思で変身を制御することは出来なかった。
 歩いていても、泣いていても、笑っていても――家でも学校でも。
 一瞬身体の中で水の感覚を覚える。次に、水は大きくうねり出す。こうなるとあたしの意思は何の意味もなさない。やめて、やめて――うねりは、あたしの皮膚を侵し始める。
 鏡に映っているのは、もう今までのあたしではない。一人の人魚だった。
 ――それが、人魚になるということ。
 あたしの中の人魚は時と場所を選ばなかったが、特に好んで姿を現す期間があった。
(本能が目覚めやすいから――)
 その期間がどういうものなのか、細かく説明したくはない。「基本的には、一ヶ月に一週間程の時間」と言えば、大抵の人には理解してもらえると思う。男の人はわからないけれど、女の人なら少し表情を曇らせて、言うかもしれない。――大変なんだね。
 その期間というのは、急にやってくる時がある。あたしの年齢から考えても周期が乱れるのは仕方がない。
 ――でも原因の大半は人魚になったせいだ。心の中で風が生まれれば、周期は乱れる。驚く程に敏感だった。
 女になると同時に身体は人魚になる。一度咲いた人魚の花は、その期間内で枯れることはなかった。
 あたしに出来ることは、学校を休むことくらい。
 痛みはひどいときは本当にひどくて、薬を飲んで横になっても、声をあげたくなる程だった。

 その、「ひどい月」のこと。
 あたしは幾度目かの眠りからさめる。長時間横になっていたせいで、布団は熱にうかれたような温度を持っていた。
 ――暑い。
 手元においてあったコップへと手を伸ばす。透明な容器に入った、たくさんの水。殆ど横たわった状態で、喉へと流し込む。
 身体の全てが渇いているようだった。指に、胸に、足先に、砂がまとわりついているみたいだ。砂に絡まれ、喘いでいる自分――そんな姿が想像できるくらい。
 ――水はその砂を一粒一粒、肌から離していくようだった。
 火照っていた唇から、全身へと流れていく水。美味しい、と思った。少し甘いかもしれない。身体に行き渡る水の冷たさにも驚いた。冷たいお酒を飲んだように、酔った気さえする。
 くらり。
 起きようとしたものの、身体は振り子のように揺れて布団へと着地してしまう。
 布団は火と間違えるほどに熱くなっていた。
 一回の呼吸を長く感じる。
(あたしの身体が熱いんだ)
 頬を手で包む――焼けるような衝撃が身体を這った。
 同時に、気付く。
 水が酔わせたのは身体ではなく、本能だということに。
 肌に爪をたてるような痛みが走った。身体の奥にしまわれた人魚が、ひっそりと蠢き始める。
 ――嫌。
 胸の鼓動が激しくなる。体調不良や恐怖での動悸とは違う、身体の中心部で渦を巻くものだ。本能の、人魚の、鼓動だ。
 ――動かないで。
 無駄な願いだ。渦は大きくなった。この渦の中心にいるのは、人魚――自分なのだ。
 あたしが生み出した渦に飲まれるのは、あたし。そこから発するのは、抱えきれない熱。
 水かきの出来た手――。人魚だ。
 手を胸に当てる。熱い胸――意思とは裏腹に、そこは悦んでいる。這う痛みを、悦んで、溺れているのだ。熱が、痛みが、喜びが、本能の渦に落とされていく。
 ぐる、ぐる、ぐる、ぐる、どくん。
 潤んだ瞳――痛いのか、悦びからか、おそらく両方を含んで涙になっているのだろう。
 ――どうして。
 腿に鱗が現れてきた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。目の前の『人魚』は痛みをも欲していた。
 幾つもの波はあたしの身体を完全に飲み込む。
 それは、忘れることの出来ない心地よさだった。
 それは、忘れることの出来ない恐怖だった。
 自分が、知らない、女に。否、人魚に。けれど、人魚は女でもある。人魚の悦びは女のそれに似ていた。
 恥ずかしいと思った。怖いとも思った。得たいの知れない気持ち悪さもあった。
 だけど悦んでいた。どうしようもない事実だった。
 ――ねじれた声を出し、渦が消えるのを待つ。
 時を過ぎた身体は人魚と化し、あたしは恐々と起き上がる。布団は浅瀬のように濡れていた。あたしは頬を赤らめた。
 呟いた声。……恥ずかしいよ。お母さんに笑われちゃうの?

 頬は熱いままだった。微熱があるのかもしれない。この期間内はよくあることだけど。
 気持ちだって、不安定になる。
(落ち着かないなぁ)
 することが何もない。学校を休んでいるのだから、勉強をしようとも思ったけれど――お母さんに止められたのだ。
「せっかく休んでいるんだから、勉強から離れた方がいいよ」
 お母さんらしい言葉。
(本当に)
 あたしとお母さんの性格は全然似ていない。
 ――まるで、血が繋がっていないみたい。
 いつもなら、笑っちゃうことかもしれない。でも、今は笑えなかった。瞳の色、髪の色、雰囲気だってあたしとお母さんはまるで違う。
(親子だって言う証拠がないよ)
 それに、お母さんって人魚じゃないみたいだもん。おかしいよ。
 不安は回転し始める。
 大体、あたしだっておかしい。童話に出てくる人魚はみんな、腰から鱗が生えているのに、あたしは――。
 横になっていた身体を起こす。視線は下へ。
 太腿から、鱗が生えている。なぞると、表面がざらついているのが解った。
 腿から上――腰を掌で覆う。すべっこい肌の感触があった。
(何で太腿からなんだろう)
 もしかして、あたしは人魚じゃないの?
 あたしは首を左右に思い切り振った。違う、違うもん。そんな筈ない。
 ――人魚じゃなかったら、何だっていうの。
 想像が逞しくなる。
 本当は人魚じゃない、よくわからない生物で、お母さんはあたしのお母さんじゃなくて……。
(だめ!)
 尾びれを布団の奥に入れ、全身を布団の中にしまいこんだ。
(だめ、だめ、今の想像は無しっ)
 自分が得たいの知れない生物で、お母さんがあたしのお母さんじゃない。そんなこと考えたくなかった。
 熱い呼吸を繰り返す中で、肩が小刻みに震えだし、あたしは布団の中で身体を丸めた。
 息苦しいし、布団は濡れているし、出た方がいいに決まっている。
 でも出る勇気が無かった。あたしの想像はより深く進んでいて、すっかり怖くなってしまったのだ。布団から出たら、自分が自分でなくなってしまうような気がする。
(ここから出たくない)
 震えながら布団で時間を潰しているうちに、恐怖はまどろみに変わった。
 ――人の気配がする。小さく笑う声。頬に触れているたくましい手。
 あたしは寝息をたて始めた。

 がちゃん!
 過去から現実に引き戻すにしては、音が大きすぎる。
(いけない)
 茶碗をもう少しで割るところだった。
(危なかった……)
 胸を撫で下ろして、再び皿洗いを続ける。
 恥ずかしさと共に微笑みながら。




終。